函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第六編 漁業

第一章 郷土の漁業

第一節 昆布漁業

史書と昆布

 延宝年間(一六七三)、長崎会所は、清国向の輸出品目に昆布を加えたという。以来、昆布は重要な輸出品となり、六箇場所昆布出稼ぎが増加してくる。
 元禄年間に、昆布場へ無断で出入りする船が多かった。この頃が、漁場請負制と六箇場所の成立期であるといわれる。
 福山秘府には、元禄四年(一六九一)亀田奉行へ達の内に
 
  一、昆布取場之他国より直に舟来候はヾ 人遣し其船留置 様子 早々可申越候 若又松前之商売に運送の船 逢難風 其辺之著岸候はヾ 様子聞届 其趣可申越候事
  一、昆布時分より早く新昆布商売候儀 堅令停止候(北海道史 一)
 
 元禄一〇年(一六九七)、長崎会所俵物諸色が献策されて許可となる。箱館港から昆布が積み出され、長崎俵物として清国へ輸出されるようになった。
 宇賀昆布として知られたこの地方の昆布は、松前地の名産として松前昆布と呼ばれ、若狭の小浜へ積み送られていた。
 享保二年(一七一七)の松前蝦夷記には、昔から昆布は大別して、赤昆布・本赤昆布青昆布・切昆布・細昆布などにわけられていた。
 赤昆布は品質は今では荒昆布・塩昆布と呼んで下等なものであるが、当時は色彩の点で珍重されたものか、献上昆布赤昆布が用いられたという。
 赤昆布青昆布と同名であるが、品質を異にしていたとうけとりたい。赤・青昆布は、ともに下海岸の村々で採取されたものである。
 松前海岸では、幅が細く、丈も短かく品質は極めて劣り、細昆布といわれたものである。産額も少なく昆布役もない自由採取としていた。
 
    松前蝦夷記  享保二年(一七一七)
  一、昆布 右東郷亀田村志野利浜と云処より東蝦夷地内浦獄前浜まで海辺二十里外の所にて取申候 尤献上昆布は志野利浜宇加と申処の海取分能ゆゑ取申由
  一、収納 亀田村 十三駄 内半駄献上の赤昆布
   但し一駄と申は長さ三尺の昆布五十枚抱 四把  昆布数二百枚也
   古は二十五駄宛納申候えども 松前迄船積にて収納申候ては人夫多かヽり申候故 近年願 元昆布と申 能昆布計を村納に仕るよし
   二十五駄の時は 切昆布と申 元昆布の能を取り 末の薄きあしき所に候 外より多く赤昆布納申事は 昆布出所ゆゑに多納め申候由
  西在郷並松前近辺より亀田浜其外へ船一艘二艘或家役仕候者収納
   家役  二十五駄 外に五十枚献上の赤昆布
   船役  一艘分五駄外に五十枚献上の赤昆布
   但し切昆布と申 元昆布の能所を取候跡の末昆布
   家大小に不限 舟大小に不限 右之通松前収納蔵へ納申由
  一、亀田箱館
   右昆布積に来る大坂船 下之関船等 年々八艘宛極り来り 大坂又は長崎へ積上り申候大方八百石位積候船の由 八百石積に昆布八千駄積申由
 右の外諸国近国の小船 昆布積に来る百石積の船に 昆布千駄積申大概のよし 直段年々相場立申候
一、亀田村分より外の納昆布は不残松前町収納所へ納申由
 右の納り昆布 年々若州船多積上り 若州にて昆布仕上げ拵 諸国へ出申由 夫故若狭昆布と申候えども 元来は松前より 積登り申候 其外北国路、西国路、中国船所に積登り申由
一、赤昆布 青昆布の立違申由
                              (北海道史)
 
   北海随筆  元文四年(一七三九)に
 五月よりは昆布に取りかゝりて其場所々々へ出船す 昆布は西海にはなく東海路箱館の外海より蝦夷地へかけて凡四五十里の間昆布場所なり。是を取るはいと心やすき業にて、海底より刈取て濱邊へ敷並べて干揚るまで仕舞て、七月より一同休みて盆中は上下打混じて踊ることなり
 
   蝦夷拾遺  天明六年(一七八六)に
昆布 六月土用中に刈取り干て賣出すに差あり 海底岩に生て二年にして五六尺幅五六寸なるに少し赤みあるものを上品とす 赤みなく至つて厚きを次とし、赤み多きは又其次とす 大昆布と云ひ幅一尺餘長三丈より五六丈餘のものあり是は又其次とす 其外生ずる土地に依て善悪あり 蝦夷地の東方及びカラフト島の海底皆是を生ずといへども運送に人力の費多ければ之を取らず 今出る所は箱館村の邊より蝦夷地クスリと云ふ所迄の内なり
 
と記している。
 寛永年間(一六二四)、日本海から下関・瀬戸内海を経る北回り航路が開かれ、蝦夷地の産物が大坂に送られるようになる。
 天明年間(一七八一)、大坂には数軒の昆布問屋が開業されて、昆布商として荒昆布を刻(きざみ)昆布に加工が始められている。
 
    北藩記略  天明四年(一七八四)に
  ヲサツベ   新井田金右衛門 支配
   小名  ミツナシ   トドホッケ  チャウシ  マケシカヨリ
       タラシ    ウタライシ  キサラ(ナヲ)シ  ホキナラ(ヲ)シ
       ヒルカハコ(マ)  ケンニチ   ツキアケ  ヤマヲサツ
       カツクミ   シラシカク  イソキ(ヤ)   ホウロ
       サルイシ   トコロ    シヘウク  カムイトマリ
       スクノヘ   ホンヘツ   シカヘ   テケマ
       マツヤ    カツクニ   ヲサツ
   産物  昆布  フノリ・鰊  イリコ・干鱈  カスベ油
       五葉松
       春は支配
       夏は蔵収
       温泉在り 萬病に有効 天明二寅載
       この地の蝦夷家宝とするところの兜を献す
       東武具足師に見せらる 鎌倉右大将家御時代これものの
       よし言上す故にしゆふくを加へ当宝庫に収む
                          (市立函館図書館 所蔵)
 
    日本山海名物図会  巻四に
   奥州松前の海中の石につきて生ず。長さ数丈、海上にうかび出るを長柄の鎌にて舟より是を切て取あげ、人家のやねにほす也。又家のやねを昆布にてもふく也。若狭昆布、わかさの海より出るにあらず。松前より伝えてここにてこしらえて売也。名物となれり。松前より乾鮭(からさけ)、鯡、干海鼠、串鮑等多く出る。
と記されている。
 山海名物図会五冊は、平瀬徹齋が宝暦四年(一七五四)に編んでいる。
 若狭から京都へ運ばれて若狭昆布の名で呼ばれ、京都で加工されて京昆布と呼ばれた。
 
    山海名産図会  巻五
   昆布  是は六月土用中にして常に採ることなし。同じく蝦夷松前、江刺、箱館などにも採れり。小舟に乗り鎌を持ち水中に暫くありて、昆布を抱是につられて浮む。皆海底の石に生いて長さ三四尺より十間許にして根自から離る長きはよき程に切りて、蝦夷松前の海濱の砂上家の上往来の道に至るまで、一日乾すこと実に錐を立るの隙もなく、暮に納めて小家に積み其上に筵を覆うこと一夜にして汐浮きたるを荒昆布と云。色赤きを上品として僅かに其階級をわかてり。又八九月の比自然打あぐるを奇(よ)せ昆布と云。昔は越前敦賀に伝送して若州に伝。小浜の市人是を制して若狭昆布と号す。若狭より京師に伝送して京師亦是を制(製)して京昆布と号す。味最とも勝れり。
 
 山海名産図会五冊は、木村孔恭により宝暦一三年(一七六三)に出版される。
 名産図会に記されている荒昆布の名と同じように、山ダシ昆布の名で呼ばれるものもある。