函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第五編 行政

第四章 南茅部町

第二節 米田町政

町政の方針

 赤字財政から健全財政への過渡期であった。全国的な建設ブームの中で、わが町の財政力はまだその緒についたばかりであった。
 米田町政が掲げた方針を次に大別してみる。
 
(1)地方自治振興と総合計画の策定
 昭和三九年度、懸案の全額赤字解消が図られた。
 政治の要請は「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」にありと確信、いかなる場合においてもその信念を変えず、町民と対話を欠かさず公平な執行者として、部落根性の解消にはとくに意を注いだ。
 町長として二期目の昭和四二年には、目まぐるしく変転する社会情勢により、年々増大する行政需要を処理するために、南茅部町の将来を展望した「南茅部町長期振興計画」を策定した。
 
(2)産業振興の重点施策
 町内六漁業協同組合と密接な連携のもとに、昆布・若布の増養殖事業に着手、「採る漁業から育てる漁業」への脱皮を図った。養殖漁業は漁業者に勇気と自信を与え、画期的な一頁を飾った。
 昭和四〇年以来、北海道大学水産学部水産実験所の噴火湾への誘致に尽力し、昭和四四年着工、施設の完成をみた。
 農林業の振興のためには、農林道の整備につとめ、町有林の育成に努力した。万畳敷開発に着目し、昭和四三年七月に渡島万畳敷開発期成会を結成、その会長として渡島の肉牛センター及び乾牧草の供給地たらんと、その実現に努力した。
 
(3)産業基盤の整備
 あらゆる産業の発展はすべて道路にありと、昭和四〇年度、主要地点七キロメートルが特改四種工事によって整備され、年々延長され、古部滝の沢トンネルの開通、橋梁の掛替、路盤改良などに努力した。
 とくに開発道路「川汲山道」の改良と、昭和四三年の川汲トンネルの開通は、函館市との距離的短縮となり、産業、経済、教育文化の振興に果たす役割は大きく、歴史的な意味をもった。
 また、国道二七八号線の国道昇格は、関係市町村と共に努力し昭和四四年に実現した。
 
(4)生活環境整備
 住民の快適な生活を進めるため、公営住宅の整備、全町水道布設計画、清掃施設、社会福祉施設の整備、消防施設の整備をすすめた。
    漁家の後継者育成を兼ねた漁家向け住宅の建設
    臼尻簡易水道施設の整備
    尾札部上水道施設の整備計画
    じん芥処理施設の整備
    母子健康センターの建設
    母と子の家の建設
    児童館の建設
    青少年会館の建設計画
    生活改善センターの建設計画
    社会福祉センターの建設計画等
 とくに社会福祉対策では老人福祉に力を入れ、昭和四二年度から老人手帳を交付、医療の八割給付を実施した。
 
(5)教育文化
 懸案の町立南茅部高等学校の道立移管が実現した。学校施設の整備充実にはとくに力を入れ、
  昭和四二年度  古部小学校の改築

[町 計画]


[町 計画]


[町 計画]


[町 計画]

  昭和四四年度  磯谷小学校の改築
  昭和四五年度・四六年度  臼尻小学校の改築
を実現し、尾札部中学校の改築計画に取り組んだ。
 昭和四二年春、二期目を迎えた米田町政は、小鹿清次郎助役が病気により退職した。後任の助役に佐藤貞勝(大正一五年生・北海道教育庁学校教育課指導事業係長)が選任された。
 日本の経済は、目ざましい躍進期に向かう。日本経済が世界の頂点に達する七〇年代への意欲が目だってくる。
 ようやく赤字財政から脱した町として、川汲トンネルの工事が完成真近となり、海岸道路も準地方道から道道、そして国道昇格の運動がおこなわれる。
 年間出稼二千五百名余。本州方面の土木工事への出稼が始まってすでに一〇年近かった。養殖漁業は未だ模索中でようやく試験養殖にとりかかる。