函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第五編 行政

第一章 村政のはじめ

第一節 箱館戦争

土方隊、川汲峠進攻

 星恂太郎は額兵隊の主力を湯元に布陣して、菅原道守らに士官隊一小隊を従わせて間道より廻らせ、川汲峠の官軍を攻めのぼらせた。網代康実と堀口武泰はそれぞれ士官隊一個小隊を率いて本道を進撃させた。
 本道といっても馬がようやく往来するだけの狭い急坂の道だった。怪石奇岩が道を塞ぎ、九十九折の道は断崖絶壁を見あげ見おろす険しさだったと、安政四年雨の峠を越えた玉虫義は入北記に残している。
 それだけではなく、積雪がこの深い渓谷山野を埋めて堅い氷が鏡のようにおおっているので、寒さと危険の中を兵らは皆必死のおもいで腹這いになって峠の頂上へよじのぼっていく。
 官軍は峠の頂上にあって、攻め登る兵士目がけて発砲してくる。逃れるところも身を隠すことも出来ずに、急坂険阻な氷雪の壁にしがみつきながら一歩でも頂上に登ろうと必死になっても前進することができない。兵士らもただ焦り頂上を睨み、歯をくいしばるばかりで進退きわまることしばし。
 このとき、間道をまわった菅原道守の一隊が、敵陣の背後の山上に出て一斉射撃をした。突然の攻撃に頂上の官軍は大いに狼狽して大混乱となった。
 この機に乗じて、本道の兵も攻め登り官軍を挟撃した。小田辺行成(二三歳)梅沢道治(一七歳)片平定蔵(一九歳)山路義明(一八歳)井鳥慎盛(二三歳)らを先頭に血気の若者たちが先を争って突進した。銃を捨てて刀を揮って大奮戦した。この勢いに官軍は狼狽して陣を捨てて散り散りに逃げおちていった。逃れる兵を追いかける若い兵士らを制し、山道も嶮しく地理にうといので長追いを禁じた。額兵隊隊長星恂太郎は、湯元の本陣にあって、主力を出陣させるため兵糧や松明を用意させ、峠の攻撃に加勢を繰り出そうとしているところへ、「味方は大勝利で、分捕りも数えきれぬ」と軍監菰田らが勝ちほこって下山の報告をした。星は大喝して「何を考えて嶮を捨てて帰陣してきたのだ」と詰問すれば、菰田らは「山頂は雪が深く、寒風も想像を絶して厳しい。到底、兵士に護らせることは難儀なことだ。番兵を残して兵を引き揚げさせたのだ」と状況を釈明した。星は奮然としてききいれず、切歯扼腕して怒り叫んだ。
 「何たる不明ぞ。この川汲峠は東蝦夷地三嶮の一といわれる要衝の嶮なのだ。この川汲峠を守り得るならば、たとえ百万の敵が攻めるとも容易に陥れることはできない天下の絶嶮なのだ。今、幸運に敵勢弱く、未だ備えもなかったので討ち滅ぼすことが出来たのだ。この嶮を死守し味方の備えを期さなければ後のち臍(ほぞ)を噛むこと必定だ」と諭すほどに、軍監菰田元治は星隊長の言に服した。星は影田興隆に兵糧の任を命じ、隊長自ら松明をかざして川汲峠の頂上の陣に馳けのぼった。仏人ブーヒーも星隊長に続き、兵もつづいて嶮を登った。
 峠の頂上は積雪三尺をこえ、烈風肌を刺す烈しいものだった。冬の陽はすでに西山に沈み、月の光はないが白雪が暗夜の山容を示していた。
 兵卒らは各々刀を抜いて木を切り倒し、枝を切って焚火をはじめ、かわるがわる枝を投げ入れては暖をとり厳寒の夜を徹し、川汲峠の瞼の守備をつらぬいた。
 川汲峠攻撃で土方軍の死傷は無かった。官軍の死者七名、負傷者十名余り、ほかに急坂の千仞の谷に転落し行方不明のもの数知れずと記されている。
 冬の川汲峠の頂上で寒風の一夜、身を震わせて備えに当たった兵達に、ようやく長い夜が明けて、一〇月二五日の朝が来た。