函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第三編 郷土への渡海

第一章 蝦夷地

第二節 史書に記された郷土(その一)

えぞのてぶり

 二八日、朝早くネタナヰのコタンアイヌに〓(カンジ)(車〓(くるまがい))をこがせて舟(チツフ)に乗ってこの浦を出発した。靄(ウラリ)(もや)が深い波路をたどっていくと、七ツ石という大岩の突き立つところに白鷲、黒鷲がならんでとまっていて、カガカガと鳴声がすさまじい。
 
   あら磯のいはほにぬるゝわしの羽に妙なる文字や波のかくらん
 
 恵山の麓をみながら(岬を)こぎまわってゆくと温泉(いでゆ)の流れがあった。
 この山を涌山・夷山あるいは涌山(ママ)などと、人により書きかたも定まっていないので、わたしはこのたび跠山と書きしるすことにした。
 この山に温泉がある。硫黄を産する。山の中腹にエノミコトンという植物が群生している。里の人たちはこの植物を苔の実といって採ってたべる。七月八月頃に熟す。また、山茶というものがあって疝瘕(疝気)を癒すといっている。臭気がつよい。その茎は「ひろめかり」という冊子に書いてある。
 ウラリ(霧霞)も次第に晴れて山頂もあらわれてきた。
 三年前、この恵山の峰に登って見たところなので、ここまでは見なれているが、この先は未だ見たこともない、波路を知らない旅の空をさして、ただ舟を漕がせていく。
 潮路がくらく雲がかかり霞が流れ霧となって立ちこめているのはこの恵山の焼けのぼる煙である。
 赤兀(あかはげ)という高さはわからないが大きな岩の上に鵜が巣をつくって棲んでいて、雛鳥がたくさん羽をはばたいて群れあそび小さな体で魚をくい親鳥のまねをしていた。
 
   嶋つ鳥親のをしへを居ならびてひなもはねほす蝦夷の磯山
 
 トドホッケのコタンに着いて少しの休みの時間もなく、また舟に乗って出た。
 左手にアイヌの家が七・八軒ばかり建っていて木立のすがたの佳いところがあるので地名を尋ねると箭尻浜(やじりはま)だというところだ。
 
   蝦夷人の毒気の矢鏃とりむけて居るかたしるく見ゆるはまなか
 
 銚子の碕という岩の上に、アイヌの立姿の形の五尺ばかりと思われる自然にできた岩が突き立っていた。
 この立石をアイヌ達は神鬼(カムイ)とおそれ敬めている。その理由は、むかし九郎判官義経が逃れてきてこの立石に身をかくしているのを、追いかけおし寄せた大勢のアイヌが見て驚き、おそれて弓も矢も舟に投げすて、身を震わせ礼儀(ウムシヤ)の祈りをささげて逃げ去ったといい伝えられている、と舟こぐアイヌ達が物語りをしてくれた。
 夜、舟にのっていて雲霧(ウラリ)などがたいそう深くて、自分の行先がわからなくなって迷ったときは、木幣を作ってこの石神(シユマカムイ)に祈ると石神の石頭(シヤバ)に神火(アベ)がもえるという。その神火のあかりを目標(みちしるべ)にして舟をはしらせるのだと舟を漕ぎながらアイヌが語っていると、フルベ(古部)の大滝という十尋あまりもあろうか生い茂った木々の中から岩頭にかけて綿をくり出すか雲もこぼしたかとも見える大きな滝があった。
 
   しらゆきのふるへば夏といはがねにくだけておつる飛泉の涼しさ
 
 大滝の巌頭に窟穴が二つあって、これを羆(チラマンデ)(ひぐま)の古穴だといった。
 アイヌは羆(ひぐま)をチラマンデといい、幼い小さな熊をビヤアウレップという。
 その左手に判官(ほうがん)殿の屋形石といわれる窟穴がある。
 巌頭をおちて三段にかかって落ちる滝がある。
 獅子鼻、小滝、判官の兜石、立岩などというところを見ながら過ぎて、ヌイナヰ、志呂委(白井)川、キナヲシ(木直)中埼を漕いでいくとピルカ浜という名のところだと聞く。
 ピルカとは「良い」という意味があり、また、「ああ、うれしい」という意味もふくんでいる。
 
   蝦夷の海いましほひるかはまひさし尚きし高くあらはれにけり
 
 近々昆布(ひろめ)刈だというので小舟がいくつも漕ぎ出ていて、波潮に眼をぬらす程近づけて見てあるいていた。どの舟の人も波の上に額をふれるばかりにして「今年は昆布が少ない」と心配しながら、また、舟がくつがえりそうになるほど身をかたむけて見ながら「来年はよいだろう。この嫩苗(みづ)のたくさん生えてる様子では。」と喜んでいた。
 ミヅは昆布の若生いのことで、和音でいうと、みつ枝さすなどと和歌にもよまれていて、科野(信濃)の国伊奈(伊那)郡では、幼ない蚕をはじめて養うのには桑のミヅといって若葉を採って蚕に与えている。
 ケニウチ(見日)、ヤギ(八木)などという沖を漕いでいって、ヲサツベ(尾札部)の浦(コタン)に着いて運上屋という志摩守(松前藩主)が置いた士(さむらい)の役宅のあるところにった。
 西磯(西在の浦)にもケニウチコタンがあって、シャモ(和人)は訛ってケンニチといっている。ケニウチとは、ハンノキのことである。里の人たちは、この木をヤチクワという。谷地桑という意味でもあろうか。
 暁近く、波の音に夢からさめると、軒のちかくに水鶏(くいな)が鳴き家の梁にとまっている鶏もあらそって鳴き夜が明けた。
 
   夜ふかしと〓(くいな)は叩く真木の戸をあけむとかけの告て鳴こゑ
 
 二九日。どうかして出発したいというと、木糸(イナヲ)=イナヲとは、正月に作る柳の削りかけのようなものである。=を付けた小さい蝦夷舟(チイツフ)をアイヌ達が磯にひきおろしたが、岸波がたいへん荒く打ちあげてくるので、運上屋の役人がきてアイヌの言葉で「今日は浪が高いようだなあ」といいかけると、アイヌは「ピルカ・レプタノトアン」とこたえた。その意味は「沖はたいへんよい凪である。」ということだと聞いたので、安心して舟に乗りこんで出かけた。
 ツキヤンゲ(築上)というところがある。通企(つき)とは和人(シヤモ)の言葉で=雪が崩れて落ちる或は山などが崩れて落ちるのを『つく』という=ヤンゲというのはアイヌの言葉である。
 このようにしてチュツフヲマナヰを過ぎ行き、カツクミ(川汲)という浦(コタン)があり、この山の奥にはよい温泉があるという。
 カックミとはアイヌの国(コタン)で使う水杓(みずひしゃく)のことをいう。
 チュッフシャクベツという流れがあった。
=舟をチイツフといい、魚をチュックというイタク(言葉)である。チュッフシャクベツというのは魚の夏川というイタクで、夏の魚を漁する川の名である。=ここから遠い海岸に夏浦(シャコタン)といって斑竹を出すところがある。鱒漁の網を引く夏だけ住むところの地名である。
 シヤモ(和人)はそこをシャコタンといっている。同じ意味あいである。
 この川の底は石だたみのような盤で、温泉の流れこむためだろうか、それとも石脳油(石油)でも湧きでているためだろうか、魚が棲んでいない川である。
 そのような川なので和人(シヤモ)は、精神川という名をつけて、土地の人たちはこれを訛ってそろず川とみんながいっている。この川の流れおちる磯の名も同じである。
 この小川の中に足の形があるから渡って見るようにといわれた。これは、こひぢであった大昔に踏み歩いた人の足跡が、そのまま潮でかたまり、温泉にくゑしてかたまったのだろう。水底(川底)をのぞき砂をかきわけてみると、たしかに足跡のような形がところどころにあった。
 この川をさかのぼった上流に窟穴があり、その傍に石を積んだ塚(つか)がある。
 むかし、修業者がここに住んでいたところだという。
 鮭も遡上しないし、いしふしも棲まないということである。
 このようにしてまた蝦夷舟に乗って垣根シュマというところを行く。これも、例のアイヌの言葉とシャモの言葉といい混ぜた地名のあるところである。
 シュマは石のことをいい、垣根のような岩礁が沖合に横たわっているところのことである。また籬根島(かきねしま)ともいうことがあるという。
 
   あら磯の波もてゆへるかきねしまへだてもうすき夷の笹小家
 
 ここにイタンギ(板木)という名の磯があった。=イタンギとは椀のことをいい、シュマイタンキとは茶碗のことをいうのだという=
 むかし、源九郎義経が水を汲んだ器が波に流されてここに打ち寄せられてきたという言い伝えがあると話してくれた。
 イタンギとは飯椀のことである。
 判官義経公のことをアイヌ達はヲキクルミともいい、今の世まで敬(うやま)い尊(とうと)んでいる。
 また、アイヌ達が判官といって尊敬している神さまとして祀っているのは、小山悪四郎判官隆政というその名も高い人がいて、アイヌの国の戦いに鬼神のように大活躍をして勲功がすくなくなかった。
 小山統の家紋には巴の紋どころを付けていたので、巴のことをアイヌ達は判官の御印として、あれにもこれにも大切なものに巴の形を彫り、アイヌの家の宝とする習慣があることなど、しかじか
=小山四郎判官隆政は下野大掾義政の子である。小山家の旗印は雙頭の巴形である。そのことからアイヌの国でも巴を喜んで尊重している。この巴の形を調度に刻んで家の守護(お守り)としている。アイヌが巴を尊敬すると早のみこみをして、和人はここの島のアイヌ達へ渡す道具類に何かに三頭の巴を印して渡すので、アイヌ達はこの三ツ巴を見て、自己達の道具類にも三ツ巴を彫るようになったのはたしかである=
 源九郎義経が、ゆめにもこの島へ渡ってきたということはありようはないけれども、義経の高名を仮りの名として、アイヌ達を脅やかした無名の落武者のようなものがいてこのような愚かな振舞いになったものでもあろうか。
 わたしの考えでは、小山判官と九郎判官とをアイヌ達がとりちがえ混同したものであろうか。
 西在の江差の海岸に小山観音というところがあり、そこの菩薩堂を神社に作って、隆政の𦙾巻(はばき)を秘(ひそ)かに祀(まつ)っているという。
 このことでも悪四郎の勲功の大きさを知ることができるというものだ。
=江差の港にきわめて近い小山観音というのは、あらはばきの神様である。四郎隆政が武将として勲功をあらわしたとき、片方のあゆひが落ちたのをここに祭っているということである。また、津刈(津軽)郡蒼杜(青森)郷塘川(堤川)の岸に、九郎義経の片𦙾縢をまつる処があり、ここをシリベツの林といっている。又、三河の国刀鹿(砥鹿(とか))の社のほとりにもあらはばきの神という神社がある。おなじ神を所々あちこちにまつっているものなのだろうか。=
 そうはいうものの源九郎義経がこの蝦夷島に渡られたというのは、昔から今の世まで、唐(中国)の人までも前々から知っていることだと人々は信じて広くいい伝えていることだから、そういうこともあるのだろうか。
伊達治郎泰衡は、人々の目には義経に叛(そむ)いたと思われているが、義経公の行方を慕って、はるばる贄(にえ)の柵まで逃れて来て不本意にも河田に討たれたという。秀衡は臨終のとき義経公を枕元に座ってもらい、錦の袋のことを説き語っていうには、もしも心配なことがおきた時(憂事がおこった時)はこの紐を解いて、どのようにでもすることをきめてください。蝦夷千島へまでもお渡りになられるようにということを、袋の中の文書に懇々と記めてあったということを聞いたことがあるとみちのく物語に書いてあった。
 舟は先へすすんでリブンシリという小さい嶋には鶏栖(鳥居)が立っていて弁財天という額を掲げていた。
 この浦をウスジリ(臼尻)という。舟からおりて運上屋に入って、また、ここのコタンアイヌの舟で漕ぎ送られてでかけた。モウセジリ(茂佐尻)というところも過ぎて、オイガラという海岸(浜辺)には葛の葉がおおいかぶさっているのを見て、アイヌはこれをオイガラだといった。これは葛のという意味のところなのだろう。
 阿袁(あお)という魚が、荒波の中をたくさん群れてゆくのを見て、舳にいたアイヌがそらよといって知らせると揖を捨ててハナリ(銛(もり))をとって立って魚をねらい、漕ぎてはひとりにまかせて「ヤッ」といってねらい打ちしてやったが、飛んでいって究きたたないではずれてしまうので、舟の中で足踏みして「ウコラモコラ」といったのは、「ああ口惜しい」といって腹をたてることでもあろうか。
 クマオ(熊)=網を張りわたす事をクマヲといい、ここのコタンの地名である。=
 ピルマ(ビロ)、ホカイカヰ(ホカイカイ)、ヰソヤ(イソヤ磯谷)などを過ぎていく。
=ホカイカヰというのは路の曲(わだ)りくねっているところとか、曲路などをそのようにいうのである。
 ヰソヤ(磯谷)は石の突き出た崎などを専らいう。同じ地名は南部路(地方)にもある。=
 舳〓(へさき)にみな投足をして、うしろむきに舟をすすめてゆく。車〓(カンヂ)(車櫂)の手をやめて、衣服を脱いで、海にザンブリと潜って海栗(のな)をたくさん抱えて舟にあがり=ノナはなによけんと唄われるその一種で、閩書に海胆(うに)、あるいは霊蠃子のことである。加世(がぜ)または坊主加世(がぜ)の二種類がある。=
 石に突き砕いて、これを食べろといってわたしにもすすめて食べて、ひと休みしてまた漕ぎすすんでいくと、ウムシャという三ツの石が磯の近くに立っている。このすがたが、アイヌが三人背を丸めてかがんで居て、何か話をしている様子に似ている。
 そのことからこの岩を礼式(ウムシヤ)といっている。=出羽の国大館の郷の山川にも天鼓、コマリ合(あい)という淵の石が、このウムシャというアイヌの礼をするのをいう、ここの形に似ている。
 このあたりの浜に、昔もひろめ(昆布)がたいへん多いので人が来て集まったのに、海が荒れつづいて、ゑびすめ(昆布)を一株も刈り取ることも出来ずに、皆からで帰ったので、シャモ(和人)はこのコタンを飢渇浜(ケカチ浜)といっているが、今日は海も荒れずに、昆布も少なくないので、この昆布を刈り取ったら人は飢えることもない。今の世は、浜の名をそうはよんでいない。また景色のよい所があるというと舟を岸へ寄せていくと、岩穴(ポヲロ)といって広い岩の洞窟があった。かがんで入ってみると中は広く、ニヰガリをおりたり登ったりして坂を越えていくと草むらに舟をつけて待っていた。
=階子(はしご)をニヰガリという。金坑の鋪階子(かねはしご)、出羽の奥山郷では、これを雁木胡梯(はしご)というもので、ただ柱に足段のあるだけのもの=
 高い草の中にアイヌの家(チセヰ)があった。大勢輪になって酒をのみ唄をうたい、外では綾莚をアイヌの婦人が織っていた。
 この莚は蒲(がま)の葉に木の皮、かづらの皮など文(あや)に染め混ぜて、どこのコタンでも編んでいる。
 その家の生れの男の子(ヘカチ)、女の子(カナチ)が歌をうたい、軒の下草に咲きまじっている撫子(なでしこ)を折りとって遊びたわむれていた。
 
   あやむしろあやしけれども蝦が家にこよひしきねん床夏の花
 
 舟にのった。滝の落ちてくる下に、年老いたアイヌが、小さいシントクを持って来て水を汲もうとして、木糸禅(アツシ)の袖をしとどに濡らして帰っていく。=酒樽や桶のようなものをシントク、またはシントコボなどという。カモ/\というのもすべて同じものである。=
 
   をりたちて涼しかるらん夷人のたもとにかかる滝のしら糸
 
 トコロ(常呂)という磯に舟をつけた。ここに萆薢(トコロ)のかつらが多いので、その名があるのだろうか。
 このコタンからはメノコ(アイヌの婦人)二人に漕がせて舟を出すことになる。〓(カンジ)を修繕したりする間に=楫も〓もすべてカンヂというのは、昔風に蝦夷の国に残っていて、やかちということなども実にそのとおりであると知らせられた。=
 この運上屋のすぐ隣りの蝦夷の家(チセヰ)に入ると犬(セタ)の大きさ位のビヤウレップ=ひぐまの小さいのをいい、ビヤウレッフ=が一頭、宿の隅ずみをはって歩き、男の子(ヘカチ)にひかれても暴れる様子もなく、親のひぐまを慕うように、急に(だしぬけに)ウウといって物を嗅ぎ歩き子熊が外に出ると、さっと抱きあげて自分の家に入ってくる。
 舟を出してザルイシ=津軽の外が浜にもザルイシという浦の名があって、昔は蝦夷の住んでいた所だという。アイヌ語でザルウシといい、里人は専ら笊石などの文字を当てている。=
を経て、シュシュベツのコタンがあった。シュシュとは柳のことをいい、ベツとは川をいう。柳の生えている流ということであろう。深い森のかげに鳥居の建っているところが神(カムキ)だという。
 海岸に温泉があって、湯煙りのたちのぼっているのを、〓(カンジ)を操っているアイヌの婦人(メノコ)等がこの湯を指してナシュヒルカというのだとその物語(イタク)をした。ナシュは病名疝気のことで、ピルカとはその病気によく効くという言葉(イタク)だという。この山奥にもトメの湯(留の湯)という、またよい温泉があることなどをシャモ(和人)の言葉(イタク)もまぜて話しながら、夕暮れ方にこのシリカベツのに着いた。
 和人(シヤモ)はこのコタンをシカベ(鹿部)とだけいうのである。
 どこもこのあたりは、ひろめ(昆布)がよいのだろう。世間で珍重されている宇賀の昆布というのは、この地方の雲河の海岸の磯から採るのでこの名がひろまったのである。今でも、ひろめ(昆布)は、この浦にまさる佳い昆布は他にないと世の人たちが専らいっていることである。
 星かと見えるほど、海辺の草むらに、群れているたくさんの蛍が浜風に誘われ、家々の軒近く飛びまわって窓から家の中まで入ってくるのである。
 わたしはこの蝦夷の島にきて三年四年を過ぎたけれども、このようにたくさんの蛍のいるのを見るのははじめてなのでほんとうに珍しくて外に出てしばらくたたずんで見物していた。
 
   夕まぐれ泉郎のたく火も影そへてあしの丸屋にほたるとぶなり
 
 こうしてその夜は更けた。
 三十日、朝から雨雲におおわれて、やがて小雨がしとしと降りはじめた。今日は徒歩でいくことにする。
 昨日今日たどってきた路は、シリベツの嶽がよく見えるところで、近くのスクノヘの山でさえも雲が深く、そこがどこかわからない。空は暗くて雨も降るだろうし、河水も出て深いだろうから、今日ばかりはここに止まるようにと運上家の主人がいうので、私もあきらめて笠を脱ぎ、足結(あしゆ)いもとって、また家に入って休ませてもらった。ここの運上屋をたずねて来る人毎に「今日の鎌おろし=夏の土用に入る日から昆布を刈り初めるのが毎年の仕来(しき)たりで、その掟(規則)は甚だきぴしい=は、海が荒れつづいて、ジリだけが降っているので=霧をジリと訛っていうのである。小雨がしとしとと降るのをコシ雨という。田舎ではどこでも糠雨(ぬかあめ)またはこぬかさめといい、ちりちり雨などというのを音が濁ってヂリ/\雨という略したのだろう。=
アイヌと和人がまじって住むこの村の人々は、気がふさぎこんで
蝦夷人にまじって住むのは通辞、番人あるいは年越(としと)り人などが住んでいる。またこの村の人も昆布採り舟をつないで集っている=
のびた髪をなでて、あくびなどして、よいなぎのないのを歎いている。
 丁度その時、巡文(めぐらしぶみ)(廻状)がとどいた。運上屋の主人は、これをひらいて見て「この頃ヤマセの風が吹き続いて、出稼の船共が遅れて浦々に着いたので、今年の鎌おろしの日は水無月(六月)の二日と定めることにする」と書いているのを読みあげるのを聞いたので、浦人村人たちは、「これで凪待ちの心配がなくなった」と喜んで「ああ、うれしい」と皆んなここを去った。
 風がカワセて晴れたので、昼頃からこの宿を出発した。スクノヘの河岸に、今朝たちこんで溢れていた潮もみな引いてしまい、ほんとうに浅くなったので越えようと
=南部田名部のあたりにもスクノヘという地名を聞いたことがある。里の人は文字を宿野辺とあてている=
 
   海近きたきつはや川ふかければ汐のひるまを待渡りぬる
 
 堤のようなところに家が五、六軒並んでいるホンベツ(本別)というところがあった。
 小川があると、どこにもある地名である。母呂米(もろめ)浜という処に一箇石(ひとついし)というところがあって、そのいわれがあるという大きな岩がある。思いがけなく風がなくなり雨が降ってきた。
 
   ふらばふれぬるもいとはじ五月雨もけふをなごりの雨づつみして
 
 歩いて行くとそのうちに空が晴れて、出来(デキ)澗=内浦の嶽(駒ヶ岳)がはじめて噴火した年に出来たのでこの地名となったということで、和人(シヤモ)の言葉には氐貴麻(ていきま)と名をつけている=
という森の中の道を踏分けて山道に入ると朴の木の林があり、その林の道でひと休みした。
 
   路のべの朴の木檞風すぎて露吹きこぼす風の涼しさ
 
 相(あいどまり)に来た。このあたりは羆が大そう多く、放牧している野原の馬を度々殺してひきちぎって食うということなど道案内の者の話すのを聞いて、おそろしくなり身の毛もよだち、そぞろ寒さを覚えながら、麼都也(まつや)か碕(松屋か崎)=蝦夷辞(アイヌ語)だろうか、または和人の言葉で松屋か崎なのか= まできて、高い岸に立ってはるかに望むと、みたにの底をみるように海辺を見おろすと、波の寄せる岩の上に青草だけを集めてつくったような家から、煙りが細く立ちのぼっているのは、漁師などの仮り住いの小屋をつくって住んでいるのだろう。
 道のことを尋ねたいと思い、案内人を先に遙るばると九折の坂道を下りきって草家をのぞくと、八十歳余りのアイヌの老人がいた、髪も髭もまっ白で、若い婦人(メノコ)二人が中に幼女(カナチ)をかいなでていたが、みな外に出て来て、昨日エトモのコタンから漁のために舟にのってきたということだけ知らせたが、和人(シヤモ)の言葉を片言も知らないアイヌ達なので、またこちらもアイヌの言葉を知らないので、通じあう方法もなく、アイヌも私たち和人もみなおし黙ったままで、無口のうちにも、口に出さないが、手と眼の動きを見ては、それらしきことを知らせあって、しばらくは語りあう思いのうちに憩いすごしていた。
 アイヌ達は、䱐鮫(キナボ)(まんぼう)という魚の脂肪を桧桶(シントク)に入れて、鱘(ダン)(いるか)の肉を岩の上に掛けひろげ、陽に干して腐らせ䐹(ほじし)として食べる。その臭さは何とも耐えられないほどである。このなかのシウランコというアイヌ婦人(メノコ)を道案内に頼んで、手荷物の包みも持ってもらうと、タアレという鉢巻のようなものを頭(シヤバ)に引っかけて荷の緒にして、軽がると額の力で背負って立ち歩き、嶮しい坂路を駈け登っていって立ちどまり、チラマンデ・ポロノオカイ・コタンというのは、ここは羆(ひぐま)の多い処というアイヌ語だと聞いて、今更のように恐ろしさがくわわるおもいで急いでいくと境川というところがあった。ここの領地の境いである。
 ここに坂井(境)明神という「うなばらの神」として祭っている小祠がある。ここを過ぎてゆき夕暮れ近くにサワラ(砂原)という所に着いた=むかし弱檜の磯山にあった地名であろうか、砂崎という地名もあるから砂原と名づけられたのであろうか。またはサハラというアイヌ語であろうか。=
 この村(コタン)は和人(シヤモ)だけの住むところだったので、何事も心やすく語り合うことができて、異国から日本の国に帰ってきた心地のする思いであった。
 ここは内裏岳(ヲシラナイノノボリ)(駒ヶ岳)の麓で浦浪も高いところであった。見わたす沖に流れているようなすがたの洲がみえる。布を一すじ長く引いたようにつき出ているのが砂崎といい、エドモ(室蘭)の浦まで舟でわたる海路のもっとも近いところである。
 ここの淡海家というところに今日の宿を定めた。この宿の前の海のむこうにあまり遠くもない、西に臼(有珠)の岳、北の方にエトモ(室蘭)の村、すこし遠くにシリベツ(後志(しりべし))のノボリ(羊蹄山)などが、雲にみえかくれして眺められた。窓から夕風も入ってる宿の部屋にいて、
 
   軒近く磯の浪うちうら風の涼しく通ふ山かげのやど
 
 日が暮れると海は一層荒れたようであった。
 六月朔日 この宿の主が歯固の祝いだといって氷餅を出してくれた。この日の行事であるという。どこへいっても知られた習慣である。
 
   氷室山ちかきふもとに一夜寝て淳しくもあるか袖のあさ風
 
 ここの浜の漁師がハッサクあるいは八尺とかいう網で=砂浜を引く海鼠網(なまこあみ)の立木の長さを凡八尺に作るという。またアイヌ語だとかいうことである。八尺・九尺などは二人引といい、底に岩のある海は二、三尺ばかりの弓網を引く海鼠網で一人びきという。蝦夷の東も西も、漁はみな同じで、津刈(津軽)の海とも同じである。=曳網でとった海参(なまこ)を熬海鼠(いりこ)に製造してその中に白海参(しらこ)、総脚(まるこ)などという、稀れなものも、時には捕獲することもあると、サラネフという籠(かたま)のようなものから宿の老人がとり出して見せてくれた。
=サラネフとはアイヌ語で、防巳などのカツラで編んだ籠の形のものである=
 こうしてサハラを出立して村里の家のつづく道をすすんでいくと、麻生(あさふ)、豆圃(まめふ)、胡瓜畠(きゅうりはた)、ささげの畑、けしの花苑などもあって、家は軒をつらねて漁師の生活の豊かさが見られた。
 モンベサワラ(紋兵衛砂原)を過ぎて野原をゆくと、懸(かか)り間(ま)(掛澗)という磯辺の道の両側には、七尺(ななさか)、八尺(やさか)の虎杖(いたどり)が繁茂して道をふさぎ、行先も見えないほどのところがあり、どこからか馬に乗ってきた人でもいるのか鈴の音だけがきこえてきた。
 
   のる駒の音ばかりして草たかみ菅のをがさの見えかくれなる。
 
 木の繁る中に飯形(いなり)の神社がまつられていた。神様の御名前を書きしるした幡(のぼり)も立てられていて、今日の朔日の歯固めの祝いに奉(たてまつ)ったのであろう。幟(のぼり)が潮風にひるがえっていた。
 このあたりには苫屋(菅や茅で屋根をふいた粗まつな小屋)が多く、草の中に、あちこちあばれて建てられていた。この苫屋はみな春の鯡の漁のとき使う魚屋(なや)だということで、漁時がすぎた今では人の住むのは滅多になく、みな空屋であった。
 ヲシロナヰ(尾白内)という漁村があった。資料菅江真澄全集第一巻未来社/菅江真澄遊覧記2平凡社(東洋文庫68)