函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第三編 郷土への渡海

第一章 蝦夷地

第二節 史書に記された郷土(その一)

えぞのてぶり

 菅江眞澄の「蝦夷逎天布利(えぞのてぶり)」は、「ひんがし(東)のゑみし(蝦夷)らがす(住)む、うな(海)のあら磯に、臼(有珠)のみたけ(御嶽)とて、人のたふと(尊)めるいや高き山なんありと聞て、まゐ(参)りのぼ(登)らまくおも(思)ひたちて」と書きはじめている。
 漂の旅人として、その土地の民俗を書きつづった菅江眞澄は、天明八年(一七八八)松前に渡る。真澄三五歳だったという。
 毎年、夏の昆布刈りに東蝦夷地へいく漁師の舟があることを聞き伝えた眞澄は、寛政三年(一七九一)五月二四日福山(松前町)を発ち有珠山詣での旅に出かけた。
 和人が多く出稼ぎにいくとはいえ、小安から東は蝦夷地である。気ままな自由の旅の許される時代ではなかった。眞澄は、松前藩主道広の特別の通行切手を携えて出かけている。
 五月二四日 安良町(松前町)を出発して衣祁布(えけぶ)(生符(いけぶ))から舟で出たが、波が荒く荒谷村に上陸してる。
   二五日 陸路荒谷を出発し白神山道をこえて礼比祁(れひげ)(礼髭)にる。
   二六日 黒岩から昆布採り舟にのりやけまきの浜(銭亀沢谷地町)にる。
   二七日 同じ舟で尻岸内に着き、ここからアイヌの舟で根田内にゆきる。(恵山より砂原まで詳述)
  六月二日 モノダヰ(八雲町野田追)にる。
  六月三日 フルシベコタンよりアイヌの舟にのり、山越内でおり陸路をゆきシラリカにる。
  六月四日 ヲシヤマンベにる。
  五日、六日 滞留
  七日 舟で出発、アブタのコタンる。
  八日、九日 滞留
   一〇日 アイヌ二人の案内で有珠岳に登る。アブタ 臼(有珠)
   一一日 アブタ滞留
   一五日 舟で帰途につきユウラップにる。
   一六日 ヤムオホロシナイより舟でオトシベにる。このあと再び砂原にゆき二して馬で大沼に出て、峠を越え七重浜に滞在している。
 六月二九日 銭亀沢にゆき、七月四日志苔から箱館に出てる。七月九日キコナイにり、病いで二日滞留し、七月一二日馬で出発して山崎に来るところまでで、以下文書は欠けているという。
 菅江眞澄の「えぞのてぶり」は、郷土南茅部の寛政年間のすがたを旅人の目からとらえ、この地で聞いたままを記している貴重で唯一の資料でもある。
 地形や風土のこと、地名やそのいわれを書きとめ、昆布漁のこと、運上屋の様子、アイヌの生活やたべもののこと、鳥や昆虫のことなど語りかけるようにこと細かにしるされている。古い記録に乏しい南茅部にとって郷土のことでは最も古い確かな記録として「えぞのてぶり」は南茅部の郷土誌の原典であるといえる。