函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第三編 郷土への渡海

第一章 蝦夷地

第二節 史書に記された郷土(その一)

津軽一統志

 寛文九年(一六六九)から同一二年(一六七二)にかけて、蝦夷地におきたアイヌの和人への抗争があった。
世にシャクシャインの乱と呼ぶ大事件である。
 このとき松前藩救援の幕命をうけた津軽藩は、蝦夷地の事情を把握するため、津軽藩独自に蝦夷地の調査をして記録した。この記録を、のちに津軽藩史といわれる「津軽一統志」の巻第十に編述した。
 津軽一統志は、蝦夷地とくに郷土の沿岸の地名を記した最古の記録である。
 同書の記録から、郷土沿岸の地名をみれば、
  一、おやす               家十五軒
  一、塩くい(ひ)崎 狄おとなオヤワイン 家六軒
  一、にともない   狄おとなヤクモイン 家五軒
  一、ひゝら     船澗有
  一、尻岸ない    小舟澗有 ヤクモタイン持分
  一、ゑきしない   小船澗有 狄おとなアイツライン持分 家三軒
  一、こふい                   から家二、三軒
  一、ねたない    小川有 狄おとなアイツライ
  一、ゑさんの崎   焼山あり
  一、とゝほっけ
  一、やしろの浜   能澗有
  一、ふうれへつ   小川有 澗あり
  一、うたいわれ石
  一、大かち
  一、つきあけ
  一、おさつへ    狄おとなアイツライ持分 家二、三軒
  一、かつくみ    小船澗有
  一、ほろい滝    是迄昆布
  一、も り     小川有
  一、とち崎     狄おとなアイツライ持分 家四、五軒
  一、かやへ                 から家四、五軒
  一、おとさつへ   川有 狄おとなアイツライ持分
  一、のたあい    とち川より八里有 新井(田)権之助商場 狄おとなサルコ
 津軽藩士の覚え書きであっただろうこれらの地名は、蝦夷地であった頃の郷土の様子を知る唯一の手がかりでもある。
 狄はアイヌのことであり、ここではアイヌの村の長であろう。「塩くい崎」(汐首崎)オヤワイン、「にともない」ヤクモイン、「尻岸ない」(尻岸内)ヤクモタインとある。
 「ゑきしない」より「おとさつへ」(落部であろう)までは狄おとなアイツライン持分とある。狄おとなは、アイヌの乙名(おとな)(役職名)のことであり、アイツラインは、広大な地域をとりまとめていたアイヌであったのである。
「おさつへ」(尾札部)家二、三軒、とは和人の家のことであろう。定住ではなく昆布小屋だったのかもしれない。「かつくみ」(川汲)小船澗有(こぶねのまあり)。川汲には小船が澗掛りしていたのを認めたのであろう。
 あとは臼尻などの記録はなく「ほろい滝」是迄昆布有(これまでこんぶあり)と記している。ほろい滝すなわち望路の滝という意味であろう。現在と少し離れるが鹿部町の三味線滝があたる。是迄昆布有は、寛文の頃には、鹿部辺まで和人が昆布を採りに往来していたことがわかる。
 郷土の開基の人と伝えられる初代飯田屋与五左衛門は、この頃(明暦元年・一六五五より延宝五年・一六七七まで)砂原に来住していて漁業を経営していたといわれ、まだ南茅部には来住していなかった。