函館市/函館市地域史料アーカイブ

南茅部町史 上

第二編 先史

第一章 先史時代

第三節 繩文時代

 前期において発達してその基盤を確立した円筒土器文化は、中期に入るとさらにその様相が隆盛を極める。

第20図 竪穴式住居における空間分割模式図

 一般的に渡島半島においては、古武井式土器がサイベ沢Ⅲ式土器に後続することが知られており、その文様も粘土紐による華美な装飾となる。
 この時期の文化も、土器に象徴されるごとく、安定した経済基盤の中で集落も大型化し、整然とする。
 南茅部町においては、この時期の集落はまだ確認されていないが、尻岸内町「日の浜遺跡」においては、この時期の幾つかの竪穴式住居跡が発掘されている。
 それによれば、この時期の住居は、外プランが楕円形を呈し、内プランがホームベース型の五角形を呈することが知られている(吉崎・一九六五)。
 これら住居は「日の浜型住居」と名づけられており、発見当初はその例の僅少さから、その成立過程が注目されていたものであるが、ハマナス野遺跡等の調査により、前期前葉において出現するベンチ状段構造を有する住居の発達型ととらえることができよう。

第21図 遺跡分布図(繩文時代中期)


繩文時代中期の集落


第22図 繩文時代中期の住居跡


第23図 繩文時代中期の土器


第24図 繩文時代中期の土器

 古武井式土器に後続して、サイベ沢Ⅴ式・Ⅵ式・Ⅶ式土器文化が存在することが知られている。
 サイベ沢Ⅶ式土器文化を除いては、その集落内容が、まだ明らかではない。
 ただ、僅かに、サイベ沢Ⅴ式土器文化については、森町オニウシ遺跡において数軒の竪穴住居址が発掘されているが、これら住居はベンチ状段構造を有しないものであり、すでにこの時期をもって、ベンチ状段構造は消滅するものと考えられる。
 サイベ沢Ⅶ式土器文化の集落については、その調査例も多く、南茅部町においても精進川遺跡・臼尻B遺跡において、その内容が明らかにされている。
 サイベ沢Ⅶ式土器文化の住居は、長楕円形を基調とするものであり、柱穴の配置は四本、五本、六本の三種類を基本とするものである。
 炉址はすべて地床炉であり、まれに、この時期に東北地方北部から流入した榎林系土器文化の影響により、地床炉の中に埋甕を伴うことも知られている。
 また、住居には埋甕と同様の影響により、周溝を伴うものも存在する。
 柱穴配置の三種類は、前期において見られた炉址の形態の差異に同義であり、前期終末において炉址の形態が崩れることにより、新たに柱穴配置にその差異を求めたことと考えられる。
 一方、榎林系土器文化の影響は、土着のサイベ沢Ⅶ式土器文化にも大きく影響し、その器形は胴部が大きく膨らみ、文様も隆帯に代わって沈線文が主体となるなど大きく変貌するものである。
 この不安定な情勢の中で、サイベ沢Ⅶ式土器を造り出した人達は、薄板状礫を用いて、三角形や菱形を呈する多量の岩偶や土器を利用した土板偶を造り出している。

第25図 繩文時代中期終末の住居跡


第26図 繩文時代中期終末の土器


第27図 繩文時代中期の移入土器


第28図 繩文時代中期終末の住居跡


第29図 繩文時代中期終末の土器


第30図 繩文時代中期終末の土器


第31図 繩文時代中期終末の住居跡

 この現象は、北米大陸におけるエスキモー間の異文化の接触時に、牙でたくさんの小像をつくり、異民族の撤退とテリトリーの安全確保を祈る儀礼があったことから、その儀礼の共通性がうかがわれる。
 また、この時期には狩猟形態も大きく変化しており、「Tピット」(トラップ・ピット)と呼ばれる深い溝状の落し穴をつくり動物を捕獲するという、独特の方式を用いることが知られている。
 さて、サイベ沢Ⅶ式土器文化に大きく影響を与えた榎林系土器文化であるが、この文化は、仙台湾を中心とした大木系土器文化の勢力の移動により、東北地方北部において、円筒土器文化との接触の中で、地方化されて誕生したものであり北海道南部への侵略文化と捉えることができる。

第32図 Tピット

 この文化は、ほぼ渡島半島全域に見られるものであり、南茅部町においても臼尻B遺跡、ハマナス野遺跡において顕著である。
 この文化の竪穴住居は円・楕円・方形を基調とし、柱穴配置は四本を基本とする。
 炉址は埋甕炉、石組炉、石組・埋甕炉の三種類があり、これらは時間的推移の中では埋甕炉が最も古く、これに石組炉が入り込むことにより、石組・埋甕炉が誕生する。
 しかしながら、この炉址の推移により順次その形態が変化するものでなく、単に新しい要素として出現するものであり、最終段階においてもこの三種類の炉址は併存するものである。
 臼尻B遺跡においては、これらの土器文化は榎林式土器のみならず、それに後続する中の平Ⅱ・Ⅲ式土器にも存在し、これらの住居はサイベ沢Ⅶ式土器の住居を切って存在し、これが逆転する例はない。
 さて、ハマナス野遺跡ではこの時期の住居配置が非常にシンプルな形で存在しており、その配置は三角形を基本とする。

第33図 繩文時代中期の岩偶


第34図 繩文時代中期の岩偶


第35図 繩文時代中期の土板偶

 臼尻B遺跡においては文化が錯綜し、その住居配置をただちに見極めるのは困難であるが、概ねハマナス野遺跡における例と同じであり、その配置は同一炉址形態による、三軒の住居の三角形配置を基本とすると考えられる。
 住居はそのほとんどが、周構を持つと考えられるものである。
 このように、東北地方から流入した榎林系土器文化は、北海道の円筒土器文化との融合の中で新しい土器文化を誕生させる。
 これが、ノダップⅡ式土器文化である。
 ノダップⅡ式土器文化の勢力範囲は広く、渡島半島から東北地方北部までを含むものであり、その土器の初源形態は、上ノ国町大安在遺跡にもとめることができる(倉谷、小笠原・一九七二)。
 南茅部町においては、この時期の文化は臼尻B遺跡、ハマナス野遺跡、木直C遺跡などがあり、卵型を基調とする特種なプランと、方形石組炉を基本的に有することが知られているものである。
 この文化の推移もほぼ三期に大別され、石組炉から見るその変遷は次のようなものである。
 (一)炉址は小型の偏平礫を縦に並べ、方形に配するもの
 (二)石組炉の四隅にウィング状に突出させた石を配し、又は、石組炉が二重の構造を呈するもの
 (三)大形礫を方形に配するもの
 さて、この時期に竪穴住居床面には、石柱が立てられていた痕跡がある。

第36図 繩文時代中期の合葬墓


繩文時代中期末の合葬墓


第37図 繩文時代中期終末の墳墓と副葬品

 臼尻B遺跡第八〇号住居址において、床面上に石柱が崩れた状態であり、その基部は完全に埋設されていた。これは、中部山岳地帯にみられる祭壇に石柱を祭る儀礼と同一のものであり、北海道においても共通した儀礼が存在したことが証明される。
 また、この時期に青竜刀型石器が伴うことが知られており、石器組成の面からも他の土器文化とは異質のものであることがうかがわれる。
 ノダップⅡ式土器が発達した形として、天祐寺式土器が考えられる。
 南茅部町においては、臼尻B遺跡でノダップⅡ式土器と天祐寺式土器を伴う二軒の住居の重複関係をみると、明らかに、天祐寺式土器が新しく位置され、その住居の形態は不整楕円形に大形石組炉を持つことが知られている。
 ただ、この両者の関係については地域的、編年的に諸説があり、逆転する例もあるという。

第38図 繩文時代中期終末の墳墓

 この現象は、円筒土器文化を媒体とする強大な文化の終焉において、次の東北地方からの後期文化が押し寄せる中で、混沌とした情勢を反映していると考えられ、地域的には逆転することも充分に可能性あることとして考えられるものではなかろうか。
 さて、中期の墳墓は調査例は少ないが、サイベ沢Ⅶ式土器文化のものとしては、臼尻B遺跡において発見されている。
 これは、竪穴住居内部に掘り込まれた大形フラスコ型土壙の中に、成人女性と七歳ぐらいの小児の合葬例として報告されているものである。
 また、同様の例は、八雲町栄浜遺跡においても見られるものである。
 さらに、榎林系土器文化のものとしてはただ一例、ハマナス野遺跡において発見されたものがあり、円形の掘り込みの中に、底部を欠損した倒立土器が石鏃と一緒に副葬されていることが知られている。

第39図 遺跡分布図(繩文時代後期)

 さらに、ノダップⅡ式土器文化のものと考えられるものに、臼尻B遺跡での例があり、円形の掘り込みの底面に、薄板状の大型礫を葺石としてしきつめる例が知られている。