函館市/函館市地域史料アーカイブ

椴法華村史

第六編 交通・通信・灯台

第一章 陸上交通

第三節 昭和時代の交通状況

三 戦後の陸上交通

・戦前の開削運動
 椴法華村と尾札部村字木直間の海岸線道路の開削は明治以来地域住民の悲願であったが、両村間には切り立った断崖絶壁が立ち塞がり、これを開削するには多数のトンネルや橋を必要とし、更に多額の費用と当時の土木技術では大難工事が予想されることから、やむなく将来に望みを託すような有様であった。
 このためその後何十年間も尾札部・木直間の道路開削は手がけられなかったが、昭和時代に入り、地域開発のため輸送力の増強が必要になり、更に住民の生活環境の向上などの面からも、道路開削が地域住民から強く要望されるところとなった。こうして昭和十二年次のような陳情書が北海道庁に提出されたのであるが、どのような理由かはっきりと示されなかったが、この時も官側の取り上げるところとはならなかった。
 
     陳情書
  一 道路開鑿ニ関スル件
   準地方費道椴法華森港線ノ内本村ト尾札部村字木直間ハ道南交通系統上重要ナル路線ナルモ坂路曲折山間谿谷ノ小經ヲ迂回シ辛フシテ通行シ居ル状況ニシテ行旅者ノ常ニ苦悩スル所ナリ随テ物資ノ輸送ハ全ク不可能ノ實状ニアリ為ニ經濟上蒙ル所ノ損失モ又莫大ナルモノアリ加之ニ此ノ路線ハ丸山(六九一米突)ノ中腹ヲ迂縫スルノミナラス冬季間ニ於テハ積雪ノ為交通困難ニ陥入ルコト多ク利用價値極メテ僅少ナルコトハ関係人ノ汎ク認ムル所ナリ。
   曩ニ茅部尾札部村字見日ヨリ字木直ヲ經テ古部迄ノ海岸路線ハ實測モ終了セラレ既ニ昨年迠ニ於テ、ポン木直迠ハ改修工事完成シ居ルニ鑑ミ此ノ際本村ヨリ尾札部村字古部ヘ通スル海岸線道路ノ開鑿ニ依リ敍上ノ不便不利ハ除カレ文化ノ恩恵ニ比較的浴セサル古部部落五百ノ住民ノ福利ヲ増進シ一方尾札部村木直ヨリ古部ヘノ海岸線ト将来ニ於テ合流シ本村及尾札部村ニ於ケル未開ノ海田開発ト漁村振興トニ寄與シ併テ之ニ依リ渡島半島環状線ノ全通ト成リ観光ニ交通ニ産業ノ進展ニ将タ國防止ニモ一大革命ヲ齏スモノナルコトヲ確信スルモノニシテ地方利源ノ開拓ト國富ノ増進ト國防トニ想倒スルトキ衷心本村ヨリ尾札部村字古部ヘノ海岸線道路開鑿ヲ熱望シテ止マサル所今日迠屢く當路ニ對シ陳情諸願ヲ重ヌル次第ナリ。
 
 この陳情書が認められなかった後も、昭和十三年の椴法華・古部間のせめて測量だけでも実施して欲しいという切なる願いの陳情書が何度も何度も関係官庁に提出されたが、その後、戦争の勃発などにより北海道庁の取り上げるところとはならなかった。
・戦後の開削運動
 戦前、戦中と続けられてきた地域住民の悲願である椴法華・木直間道路開削運動は、戦後空襲により焼失した椴法華小学校の再建、同じく空襲により破損した椴法華役場の復旧、その他港湾の整備問題などとともにいち早く陳情の対象となっている。
 しかし戦後の混乱期にあってなかなか簡単には北海道庁の認めるところとはならず、関係の村々は毎年毎年ねばり強く陳情を繰り返えしていかなければならないような有様であった。
 昭和二十四年の「椴法華・森港線の内、尾札部村字木直及椴法華間、開鑿工事施行について現況及効果調査書」は、当時の木直・古部・椴法華の民情を次のように記している。(要約せるもの)
 
  二 交通
   1道路
   尾札部村より同村字木直迄は漸く馬車が通行出来る程度の道路があり木直より本村間十六粁は路らしい路なく峻嚴なる山坂を笹を分けて辛じて通行する現況で所要時間六時間を要するばかりでなく非常なる危険が伴う為特別な急用或は海の荒れた場合以外は殆んど利用しないし冬期間は雪の為杜絶され全然通行出来ない。僅かに漁舟を以て凪を利用して連絡すると言う悲惨な現況である。一般旅行者は例年に踏み迷う犠牲者を見ているので椴法華村より尾札部村、尾札部村より椴法華村に至るには隣接村であり乍ら引返しの上函館を経て大迂回し二日間を要して夫々の村に至ると言う時間的及経済的に非常な不便を蒙っている。
   (中略)
   4物資の搬出入
   総て物資の搬出入は海路によるの外なく、しかも各郡村に於ては出漁の余暇を利用して出漁にさへ不自由な貴重な燃料を持寄り漁船を以て月に二回乃至三回程度辛うじて運航している。特に主要食糧面に於て道内有数な僻地の為一月から三月迄の食糧を越年用として降雪期に輸送をうけている現況で此の期間は海上さへ時化が激しい為沖出しさへ出来ぬ状態である。
  三 通信
   1電話
   昭和二十三年初めて中間に在る部落にも施設されたが、地理的関係上、尾札部村字古部の如きは當村より配線されているので尾札部本村との直通話が出来ず函館及當村を経由して通話出来ると言う複雑さと時間的特急通話を以てしても一日掛りと言う状態である。
   2郵便
   郵便物に於て特に甚しく尾札部村字古部部落は尾札部村に所属するも当村よりの交通が若干容易な為尾札部村より函館を経由して当村郵便局より配達されると云う有様で同一村内であり乍ら片道実に一週間を費すと云う現況である。
  四 産業
   1海産物處理の方法
   本沿岸の地形は海岸に近く山が切り立っている為最も多額に生産される「いか」に於ては、加工工場が殆と少いので處理能力は極度に制限されるので大漁の続く時に於て群魚を眺めて出漁を中止しなければならず僅かに内地方面より来航する冷蔵船を待って安い価格で積込む事情にあり其の他の魚類も非常に豊富なるにも拘らず輸送の不便で獲る意欲を欠き生産を阻んでいる。
   (中略)
  五 保健衛生
   中間に位する各部落は何処も医療設備なく殊に尾札部村字古部部落に於ては、陸路の通行不能の為早期診断の方法もなく急病に於ても海上の凪を利用して漁舟で本村に至り診断を受ける悲惨な事情下にありて死亡率も著しく多い。
   (中略)
  六 文化上の恩恵
   特に尾札部村字古部に於ては戸数の過少と不便の為、映画等の巡業も絶無で、該部落には未だ映画を観た事のない者が過半数を占めて居る驚くべき状態で本路線の開通により、これらの原始的な不遇から解消せられ沿岸町村との連絡も円滑となり、文化上蒙る恩恵は偉大である。
 
 以上記したように、古くから椴法華・木直間海岸道路の開削は、地域住民はもとより道南地域の開発上からも切望されていたところであるが、ついに昭和二十六年に至り、木直側より北海道開発道の一つとして着工された。その後住民期待のうちに年々進捗され、昭和三十年十一月に至りついに木直・古部間は開通した。この時の古部住民は待ちに待った道路開通を狂喜乱舞して迎えたということである。(なお道路は開通したが、古部部落はこの時まだ椴法華局に属しており、郵便物の配達は昭和三十四年十二月二十日まで椴法華局でなされていた。)
 このようにして木直・古部間は開通されたが、古部・椴法華間は未だ計画のみの状態であった。すなわち昭和二十八年八月渡島支庁の計画した「渡島総合開発第一次五ヵ年計画」の準地方費道改良費椴法華・森港線の中に、古部・椴法華間六千四百メートルを昭和三十年度より昭和三十二年度にかけて、六千七百万円の工事で改良する計画が立てられ、住民に今度こそはと期待されたが計画のみで終っていた。