函館市/函館市地域史料アーカイブ

椴法華村史

第三編 椴法華発達史(明治元年から昭和30年まで)

第一章 明治時代

第三節 北海道庁設置頃の椴法華

一 伝染病の流行・水産税則

・一月十八日 鱈釣船の遭難
 椴法華村・尻岸内村漁民合計十四名(船数不明)鱈釣のため椴法華沖へ出漁中行方不明となる。その後一月二十四日十四名中、椴法華村川口米蔵以下三名の者、日高郡下方村に漂着救助される。
 この時代冬期の鱈釣は保津船や持符船などの櫂漕ぎ船が使用されており、連絡手段を持たないため天候が急変したり、潮が変化した場合などは常に遭難の危険にさらされていた。この時のように沖合で遭難したとするならば、陸岸に漂着するかあるいは偶然に航行中の船に救助してもらうことしかなかったのである。
・一月二十六日 北海道庁を開庁し函館・札幌・根室の三県を廃止することを布告する。
 三県実施後わずか四年あまりで廃止されたが、その原因は行政政策の不統一と経費のかかり過ぎであると云われている。
・二月 函館県の諭達により『備荒貯蓄』(飢饉等の食糧欠乏の備え)として、椴法華村、籾三石三斗・ヲシメ昆布壱石九斗四升をたくわえる。
・二月 根田内村民大坂力松、泉藤兵衛より恵山硫黄鉱山の権利を借り採鉱に従事する。
・三月一日 函館・根室に道庁の支庁を置く。
・四月一日 会計年度を変更し、以後四月一日より翌年三月三十一日までをもって会計一周年度と定める。(『新北海道史』第九巻)
・六月 函館の水産商組合、下海岸・陰海岸の和船による貨物船賃を定める。(明治十九年六月十六日付、函館新聞より要約する)
 
   函館より根田内村迄
    上り運賃百石ニ付    金二拾円
    下り  〃       金拾六円
  一、毎年十二月より二月までは右の運賃の三割増しの金額とすること。魚油四斗入八百五十丁をもって百石と積算すること。
  一、地廻りの新鱈は一本に付五厘ずつでこれは寒中の割増はしない。
  一、椴法華産の塩鰤は、百石二千本で積算する。百石につき椴法華村から函館までの運賃は、三十二円と定める。十二月から二月までの内は運賃二十七円へ三割増の料金とす。
 
・七月十三日 コレラ函館地方に発生その後八・九月と患者増加する。
 この頃よりコレラの難を逃がれて函館から下海岸へ移動する者が多いと云い伝えられるが出稼を兼ねていたものであろうか。また流行地である石川・富山・新潟方面からいか釣漁船に十人程度乗り組み、函館付近へ来航したが、この中からも多数のコレラ患者が出たため、下海岸の住民は戦々恐々としていたと云われている。
 次に当時の新聞から下海岸関係のコレラの記事について略記してみることにする。
 
    明治十九年八月七日 函館新聞
   亀田郡小安村 當港近在にてコレラの発生し村は外にまた聞かざるが堂いふものか亀田郡小安村・限り此程より四人の同患者発生せしかば何か傅染すべき理由あるべしとて昨日わざ/\當檢疫事務所より八委員を派出せしめ夫々實況を視察せしめられるといふ。
 
  明治十九年八月廿四日
   同村(小安村)及び支村ハ家々の周囲及び入口の戸へ石灰を塗り付け恰も白壁の如くなりたり一体石灰ハ雪隠又は流し下又ハ芥溜(ごみため)等不潔の場所へ地面の見えぬくらゐに厚くまくハ尤(もっと)も適当の良法なりと戸板抔(といたなど)へぬり付け又は家屋へ周囲抔(など)へおまじないの如くふりかけたりとて其詮(そのせん)あるものにあらずよくよく注意すべきことなり。
 
 この記事が書かれた後にも(八月から十月にかけて)、尾札部村、根田内村、尻岸内村、古武井村に数名ずつのコレラ患者が発生していることが記されている。
 なお椴法華村の記事は見当たらないが、椴法華村でもコレラ患者が発生し、青森県野辺地出身の山根喜三司及二男二女が死亡しており、この他にもコレラ患者があったと云われている。(『山根家追想録』)
・九月一日 『函館布達』により、渡島国コレラ病流行の地と認定され、古着類を他の地へ輸送することが禁ぜられる。
・十一月九日 函館地方のコレラ漸く終る。患者数千二百二十四名、内死者八百四十二名に達する。
・十二月十五日より二十日にかけて椴法華村へ鰮の大群が押し寄せる。十五日三百石、二十日二百石、これは一時的なものでこの年全体としては鰮は不漁であった。
・十二月二十八日 函館・根室支庁を廃す。
・この年、椴法華の民間駅逓戸数四戸・馬六十頭
・この年、椴法華村漁業組合申合規則に昆布に関する部分、第四十一条から四十五条に至る部分が追加される。
・明治十九年の椴法華
 
    北海道巡回紀行 明治十九年青江理事官(北海道立図書館蔵)
   屛風岩アリ岩石ノ直下ハ即チ尾札部椴法華ノ村界ナリ其東ニ銚子岩アリ恰モ水ニ浮ヘルモノゝ如シ。午後五時椴法華村ニ達ス佐々木長吉ニ投宿ス此日行程十一里餘戸長上田貢三來訪其言ヲ聞クニ
  ○當村ハ三方山野ニシテ一方海ニ面スル地ナリ今ヲ距ル事二百年前ノ開始ニシテ明治十三年マテハ茅部郡ニ属セシガ爾後亀田郡役所ノ部内トナリ官民共ニ便利ヲ得ルニ至レリ戸口八十八戸・六百九十五人ナリ從来人民ハ漁業ヲ専ニシ鰯・鰤・鮭・鮃・鯣・鮫・烏賊・昆布等ヲ収獲シ亀田郡役所部内ノ東海岸ニ於テ第一等ニ位スルノ漁場ナリ若シ一朝豊漁ナルトモハ一漁ヲ漁スルモ千有餘円ヲ利スル事アリ故ニ農業ヲ顧ル者ナシ。然ニ明治十四五年以降薄漁ニシテ且ツ官ノ奨励等アリシ際滋賀縣近江國ノ人吉田銭次郎及ヒ當村蘆野兼太郎等明治十七年始メテ當村字赤井(ママ)ニ於テ地ヲ卜(ボク)シ之ヲ開墾シ馬鈴薯・大豆・小豆等ヲ播種ス然レトモ(ドモ)収獲少キヲ以テ未タ村民一般ニ農事ニ熱心スルニ至ラサリシカ昨年ニ至リ郡役所ヨリ吏員ヲ派シ農業ノ貴重ナルヲ説諭シ郡長モ亦タ親ラ各村ヲ巡リ説諭セルニヨリ村民始テ感發シ開墾ニ従事スル者多ク新墾一町餘歩ニ及ヘリ本年ハ益々農事ニ傾向シ既ニ十餘町歩ノ新墾ヲナシ馬鈴薯大小豆等ヲ播種スル者多シ。
  ○當村ノ海路ハ有名ナル恵山岬及汐首崎アリ容易ニ進航スヘカラス故ニ貨物ノ運賃ヲ隣村字根田内ニ比スレハ百石ニ付金拾圓ノ差アリ又陸路ハ四道アリ一ハ磯谷道ニシテ磯谷峠アリ一ハ恵山越ニシテ峻嶺アリ一ハ尻岸内村支古武井ニ至ルノ山道ニシテ深欝ナル山林及ヒ河流多ク熊狼ノ害アリ一ハ尾札部村ヲ経テ函館ニ出ル道ニテ銚子峠アリ故ニ運輸尤モ不便ナリ。
  ○當村人民ハ夏秋冬ノ三期ノ如キハ續〃漁業ニ従事シ春ハ鰊場ニ出稼スルヲ常トス毎年出稼スル者二百名内外ニ至ル然ニ漁場不景気ナルトモ(トキ)ハ給料受クル事能ハス為ニ帰郷ノ期ヲ失シ昆布採収ノ時ニ後ルゝ者往々ナリ故ニ數〃其利害得失ヲ諭センカ本年ハ出稼スル者三分ノ一トナレリ是レ新墾地拾町餘歩ヲ得ル所以ナリ。
   又総代川口勝次郎來ル其話スル所ヲ聞クニ當村及ヒ尻岸内村ノ支根田内ニ跨ル恵山ハ多ク硫黄ヲ産ス今ヲ距ル二十年前函館ノ商人泉藤兵衛ナルモノ採掘ニ従事セシカ須叟ニシテ廃業セリ昨年岩手縣人及川襲斉外二名試掘出願セシモ資本ノ給セサルヨリ瓦解ス現今ハ大坂力松根田内ノ人許可ヲ得テ採掘ニ從事セリ。
   當地ノ舊家ハ松本菊松津軽人・平沼八右衛門福山在荒谷村ノ人ナリ等今ヲ距ルコト二百十年前延寶五巳年函館ノ商人阿部某・白鳥某等ノ仕込ヲ受ケ本村字元椴法華ニ移住シ専ラ昆布ヲ採収ス之ヲ本村ノ開始トス。後人家増加シ三十二三戸ニ及ヘリ弘化三年暴風雨ノ際恵山ノ背部忽チ潰崩シ人家ヲ埋ム死傷夥多ニシテ殆ント噍類ヲ絶ツ其九死中一生ヲ得タル者此地ニ止リ後人家益々増加シタリ菊松八右衛門ノ子孫今猶ホ存在シ菊松ハ六代八右衛門ハ六代ニ及ヘリ。
   當地三ヵ年間海産物輸出数量及出入船舶等左ノ如シ。
    五月十三日 雨
   午前六時五分旅亭ヲ出テ戸長役場ニ至リ戸長山田貢三及ヒ総代川口勝次郎ト共ニ發ス。椴法華坂ノ麓道兩岐ニ分ル共ニ函館ニ出ル道路ナリ右ハ尻岸内村ノ支古武井ニ出ルノ新道ニシテ行路容易ナリ左ハ同村ノ支根田内ニ出ルノ古道ナレハ嵯峨タル峻坂ナリ余等新道ノ易ニ就カスシテ古道ノ難ヲ取ル盖シ恵山ニ登リ硫黄坑ヲ実験センカ為ナリ乃チ椴法華坂ヲ登ル坂路粘土ニアラサレハ岩片ノ堆積セルヲ以テ馬屢々歩ヲ失ス山ノ中腹ニ至ルマテ烏鳥樟(ウショウ)ノ小ナル者茂生セリ六時五十分山頂ニ達ス時ニ暗霧四方ヲ籠メテ〓尺ヲ辨セス恰モ雲上ニ在ルノ想アリ嶺ヲ下ル事少許ニシテ高原ノ如キ所ニ出ツ是ヨリ道ヲ左ニ取リ七時三十分惠山ノ半腹ニ至ル岩片ヲ積ミ苫屋ヲ設ケタル者アリ即チ大坂力松ノ硫黄製造所ニシテ現ニ三個ノ釜ヲ以テ製造ス外ニ一小苫屋アリ温泉開始者某ノ住居ニシテ屋外二三個ノ湯壺ヲ設ケ樋ヲ架シ温泉ヲ通スルノ計画中ナリ、力松先導シ歩シテ硫黄噴出スル所ニ至ル此ヲ字上ノ釜ト云轟々聲ヲ發シ恰モ蒸滊鑵ノ滊ヲ吐クニ異ナラス滊ノ觸ルゝ所黄色又ハ樺色ヲナシテ皆純粋ノ硫黄ナリ力松ハ目下之ヲ採収シテ製造ス。噴出スル所凡十一ヵ所ニシテ其他ノ小ナル者甚多シト云フ更ニ進テ字土釜ニ至ル噴出ノ勢上ノ釜ニ比スレハ甚シ此所ハ多ク泥濘沸騰大土釜ノ称アル所以ナリ、土釜ノ上ニ字高ノ床ト云所アリ前ノ二者ニ譲ラスト云然レトモ(ドモ)密霧噴汽相混シテ〓尺ヲ辨セサルヲ以テ之ヲ見ス、力松ノ製造所ニ還リ馬ニ跨リ幾多ノ峻坂ヲ降リ九時七分根田内に出テ、九時三十五分古武井ニ至ル此所椴法華村ニ通スル新道ニ合ス。

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