函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第十五章 下北半島の景勝地と伝説

第二節 名勝と文化財

   幸田露伴(こうだろはん)の恐山参詣記
 明治時代の文豪、幸田露伴は報効義隊を率いて千島に渡った郡司(ぐんじ)艇隊の隊長、海軍大尉郡司成忠の実弟である。
 兄郡司大尉が明治二十六年(一八九三)三月二十日、部下八十三名を海軍省払下げの短艇五隻に分乗させ、数万の見送りの人々の歎呼の声に送られて隅田川を出発した。
 ところが五月二十日正午八戸(はちのへ)を出発した夕方から大しけになり、艇長竹下金次郎以下十名の乗っていた二番艇は二十一日午前六時、白糠へ無事避難し、郡司大尉の乗っていた報効丸は、二十一日夜明けを待って六ケ所村出戸の海岸に突込み、船体は破損したが、郡司大尉以下の乗組員は無事であった。
 然し、艇長木南正照以下十名の乗った三番艇は、三沢村砂ケ森海岸の、沖の瀬一ノ折に乗り上げ、地理不案内のため遠浅と誤認し、一同海中に飛降りた瞬間、横潮にさらわれて全員溺死してしまった。遭難者は艇長木南正照、壬生(みぶ)義正、小野新蔵、及川六之助、卯牧(うまき)謙六、坂本周助、西村長五郎、大久保茂次、池上善三郎、秋山金蔵の十名であった。
 気仙沼で修理を加え、本隊より遅れて気仙沼を出発した鼎浦(ていほ)丸は、五月二十六日午後二時、荒天のため鮫港の南二里の大久喜浜沖に投錨(とうびょう)して仮したが、翌二十七日午前二時頃、激しい風浪のために錨綱(いかりつな)が切れ、忽ち附近の岩礁に叩きつけられて破船し、艇長森山小一郎外、西山助次郎、川上卯之助、江島彰喜、須藤与四郎、小田福次郎、岡村安吉、塩田治助、中川仁助の九名は、瞬時に波浪に没して行衛不明になった。
 隊員十九名を失うという大打撃を受け、郡司大尉は一時悲歎にくれたが、初一念を曲げず、六月九日八戸から隊員を軍艦磐城(いわき)に乗せ、修理した短艇三隻を曳航させて函館港に入港した。
 このような苦難を経て郡司艇隊が千島の占守島に達したが、千島到着後も幾人かの犠牲者を出した。
 こうした中で兄の成功を祈っていた幸田露伴が、明治三十年(一八九七)に郡司艇隊の遭難した白糠、出戸を訪れて遭難当時のことを偲び、犠牲者の霊を慰めようと、恐山に参詣したのである。露伴が恐山詣(もう)でをした時は、ちょうど宇曽利山地蔵堂の祭典の日であった。
 露伴の恐山参詣を意訳して述べて見たい。
 
 私はただ一人ウソウソと湖水の近くに行きかかったが、硫黄のくさい匂(におい)が鼻をついて胸がわるくなった。大木を輪切りにしたような石が幾箇となく、砂路(すなじ)の中央に敷いているのを「何か」と尋ねると「硫黄沢だ」という。
 やがて湖辺の砂利道を辿(たど)り「三途(さんず)の川」と書いた太い杭(くい)の立っている小川のほとりに行くと、流れの中の石には、みな硫黄華がつき、黄ばんだものもあり、白みがかったものもあり、自然の色の石は全然ない。太鼓型(たいこがた)になって狭くヨボヨボし橋の橋板に、古ぼけた欄干(らんかん)がこわれかかっている全然興趣のない橋を渡って、地蔵堂に到着した。
 地蔵堂のあたりに来て見ると、ここは一体どうしたものだろう。ワヤワヤ、ガヤガヤ雑踏(ざっとう)して、「宇曽利山延命地蔵堂」と土地訛(なま)りだが立派な万葉假名で書いて染めた大旗、小旗が、硫黄の生ぐさい風にばたつかせ、善男、善女が右往左往(うおうさおう)に俳徊(はいかい)し、ドンザを着た爺さんもおれば、赤い金巾(かなきん)の脚半(きゃはん)をあらわして、友達を呼びながら馳け廻るアネ様もあり、首から掛けたガマ口(ぐち)の紐をブラ、ブラさせている酔った若い衆、駄菓子(だがし)をかじりかじり歩く子ども等、念仏を歯ぐきでかむようにモグモグ唱える婆さん、思い思いの人さまざま、滅多無性(めったむしょう)の賑わいである。
 ジタジタと生ぬるい水が浸(し)み出ている境内に、今日の祭日を当てこんだ、商人や香具師(やし)がたくさんいる。「何でも一銭五厘の店」「正真(しょうしん)熊の胆(い)売り」「薄荷水(はっかすい)売り」「下駄屋(げたや)」「居合抜(いあいぬ)き」「弘法大師夢想(むそう)の御灸(おきゅう)」など、どれもこれも大声で噺(はや)し立て、騒ぎ立てている。「牛の蹄(ひづめ)の櫛(くし)」を買ってニコつく小娘もあり、折角油でなでつけた髷(まげ)を、横におし曲げながら、頭のテッペンに大きな灸をすえてもらって、有難がっている大男もいる。
 地蔵堂は相当広い建物だが、堂の中は参篭(さんろう)の者が充満して足を入れるところもないくらいである。堂の下の方にある菩提寺(ぼだいじ)という寺も、同じように参篭(さんろう)の人が充満している。
 私は温泉にはいってから堂の後にある不動尊を拝(おが)み、ここから左へ折れて行くと、地はみな硫黄を含んでいる岩で、所々に青く黄ばんだ硫黄そのままの土がある。岩の裂け目の穴の中でブツブツと音をたて、釜の湯が煮えたぎるように温泉を吹き出しているところもある。
 岩にさえも「赤鬼」「青鬼」などという名があるくらいの土地なので、地も皆異様な色合いで、白茶けて何となく無気味なところを辿り辿りなお進んで行くと、慈覚大師の小さな石像があった。
 ここから賽(さい)の河原(かわら)という所を歩いて行くと、一、二町ばかりの道のほとりに、何処(どこ)から集まって来たものか、乞食(こじき)、物貰(ものもら)いが数え切れない程いて「弥陀三尊(みださんぞん)の軸(じく)」をかけた者、「観音(かんのん)、不動(ふどう)の像」を飾った者、白衣を着た者、笈摺(おいずり)を掛けた者などさまざまである。
 向うの方では、奇怪な声で「摩訶(まか)もだらまにはに」とか「波羅(はら)はりたや」などと唱え、鈴を振りながら唸(うな)る者があるかと思うと、こちらでは「普陀落(ふだらく)や、岸うつ波は三熊野(みくまの)の」と悲しげな声で御詠歌(ごえいか)をうたっている小娘もいる。
 太鼓の相(あい)の手(て)いりが右の方にあると、左の方では松虫をたたいて「三寸息の絶えぬれば、六親歎(なげ)けど甲斐(かい)もなし」と口説(くど)き立てる叫喚叱咤(きょうかんしった)の声々は、空中でもみ合うように感じられ、全々福々しい気分のない一つの稀有(けう)な響きがあり、何ともたとえようのない不快極まる感じを与える。
 心弱い女たちは、このような奇異(きい)な山の景色(けしき)と、鬼気(きき)迫るようなこの状態とに胸をうたれ、心ならずも、乞食や物貰いに一厘(りん)、二厘づつ投げ与えて、あわてるように足早(あしばや)に通り過ぎる。
 やがて、「血の池」という小さな水溜(みずたま)りのようなところに行った。この小さな池には、髪の毛のような長い水苔が生えており、陰々(いんいん)として水底を隠している。「ここは難産で死んだ女が沈んでいる奈落(ならく)に続いているところだ」と案内人が説明すると、悲しみの情が深くて、智恵の足りない妄信(もうしん)の強い女達が、自分の妹や姪(めい)などを思い出しているのか、寺からもらって来た「血の池」と書いたものを包んだ紙包を血の池に投げ入れ、投げ入れて「南無地蔵尊」「南無観世音」と念じ、「苦を救い給え」「助け給え」と祈る。中には泣きわめき、悲鳴をあげる女もある。
 
 以上が明治三十年に、幸田露伴が恐山に詣でて祭りの光景を描写した文章である。この頃はイタコが恐山に出張していなかったので、イタコのことは書いていないが、祭りの雑踏(ざっとう)ぶり、喧騒(けんそう)ぶり、奇々怪々な光景が眼に見えるような描写である。
現代の恐山参詣はこのころとは大分趣きが変っているが、このころの名残はまだある。

霊場恐山