函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第九章 官公庁の沿革

第四節 戸井の医療機関の沿革

 戸井の医療機関の沿革を調べて見ると、明治四年五月開拓使函館支庁の出張所が館鼻に置かれた頃、既に公立戸井病院があり、下海岸の中心都邑として、各種の官公庁の支所や出張所が置かれていたことがわかる。
 鰮、鰤、鮪などの大漁が続き、各地から入稼(いりかせぎ)人や商人が入り込んで繁栄を極めた時代は、開業医が五軒もあり、一流医科大学出身の医師が八名もいたことがある。
 戸井の医療機関の沿革を断片的な記憶や関係者、住民の記憶をもとにしてまとめて見たが、開業医関係についてては正確な記録がなく、住民の記憶は十人十色で、ここに記述した年代等は不正確なものが若干あるようだ。
 
 1 公立戸井病院
 明治四年五月、開拓使函館支庁戸井村出張所がおかれ、エビシ川左岸台地(現在中央公民館のある場所)に庁舎が建てられ、その建物の中に公立戸井病院が併設された。然しこの病院の状態やここに派遣された医師の名等は一切不明である。
 開拓使戸井出張所長大島鼎(かなえ)の主唱で、明治五年十一月、公立戸井病院の一室に私立戸井教育所が開設された。この教育所が公立戸井学校になり、同時に設置された公立瀬田来学校と統合し、明治十八年十月七日、新校舎が弁才澗に建てられ、公立日新小学校として、戸井学校と瀬田来学校が新校舎に移転したのである。
 その後戸井病院は避病(ひびょう)院(隔離病舎)に充てられ、これが長い間続いた。現在の住民の中にも「ヒ病院」の名で記憶している人が若干いる。
 
 2 村立小安病院
 明治何年に開設されたか不明であるが、明治二十四年に八雲の山越村で開業していた長谷川重威(しげのり)が小安病院長として赴任し、明治三十一年館鼻の現在四村家のある所に移転して開業した。
 
 3 桜井病院
 長谷川重威が館鼻に移転した後に桜井某が、小安病院の建物で開業したが、僅か一年くらいで他に転じた。
 
 4 貫之(かんし)堂医院
 明治三十一年、小安病院から館鼻に移転した長谷川重威は、漢籍の「一以って之(これ)を貫(つらぬ)く」の語句をとって「貫之堂」と名づけた。桜井医院が廃業してから、重威は小安病院の建物を村から買収し、現在四村家のある場所からエビシ川右岸台地に病院を移すことにし、明治三十二年七月、小安病院の解体材料を使用して病院を建てた。大正七年三月十日、長谷川重威は六十才で死去した。
 京都府立医専を卒業し、大正二年九月、七飯村立七重病院長に赴任した重威の長男益雄が、七重病院長を辞し、大正七年十月父重威の後をついで開業した。
 昭和四十年長谷川益雄が老令のため廃業し、昭和四十六年十一月二十四日、八十六才で逝去した。長谷川重威、益雄父子は、二代で七十数年間、僻村戸井の医療に尽瘁したのである。

貫之堂医院(長谷川医院)跡

 
 5 江藤医院
 日大医学部出身の江藤孝作が、大正六年二十七才の時小安に来て開業した。小安で開業して三十年後の昭和二十一年三月、本州への出張で青函連絡船に乗船した時船のハッチに狭まれて重傷を負い、昭和二十一年三月三十一日青森市内の病院で逝去した。享年五十七才。
 江藤医師の死去後、某医師がこの建物で診療に従事していたが、事情により江藤医院を出、その近くで開業したが三、四年で他に転居した。
 
 6 高川医院
 明治四十二年頃、高川貞次郎が川尻に開業し、大正三年頃に廃業した。
高川医師は日露戦争に三等軍医として従軍し、その戦功により勲六等瑞宝章及び金二百円を授与された人で、戸井村在郷軍人分会長を勤めた。
 
 7 奥村医院
 高川医師が去った後に、奥村良造医師が川尻で開業し、大正八年頃に廃業した。
 
 8 高橋医院
 大正元年、高橋四郎治医師が、汐首岬の高台で当時地蔵町と称していたあたりの、〓松田家の西側で医院を開業したが、大正五年に廃業した。汐首の境市正が尋常六年の時に廃業したという。この頃市正の同級生に文雄という高橋医師の息子がいたという。この頃は汐首が鰮の大漁で景気のよかった時代であるが、汐首に開業医がいたということを知っている人は少ない。
 
 9 金沢医院
 浜町の〓金沢家の二代音吉の六男六郎が、当時の鎌歌小学校長長尾健二の養子となり、慶応大学医学部を卒業して郷里に帰り、昭和四、五年頃浜町で開業した。
 金沢六郎には長男慶一郎と長女セツ子の二子があり、長男も医師となり、荒井姓を名乗り本州で開業している。長女セツ子は岩手医専を卒業して医師となり、慶応大学医学部を卒業した杉山民雄と結婚し、父六郎が廃業後、杉山夫妻が金沢医院を経営して現在に及んでいる。
 金沢六郎を養子とした長尾健二は、明治二十五年十月二日付で鎌歌小学校長として赴任し、大正十二年九月十日退職するまで、三十一年三ケ月間、鎌歌小学校に在職した人である。

金沢医院

 
 10 本間医院
 昭和二十五年、新潟大学医学部を卒業した本間芳治が、昭和三十年八月に弁才町に開業したが、僅か一ケ年間で廃業し昭和三十一年九月に弁才町を去り、現在は苫小牧市に居住している。

本間医院跡

 
 11 釜谷の村立病院
 小安の江藤医院が廃業してから、西部の住民が医療に不便を感じ、小安、釜谷の住民が西部にも村立病院を設置してもらいたいという要望があり、昭和三十年頃住民の寄附によって病院を建てた。
 村当局が最初に招いた医師は巽寛治で、巽医師は三、四年で辞し、その後任として中村長次郎医師が赴任したが間もなく辞任し、この病院が廃止された。この病院は釜谷漁港の近くにあった。
 
 12 町立小安診療所
 釜谷の村立病院が廃止されてから、再び西部の住民からの要望があり、昭和四十二年四月一日、小安に診療所を設置した。初代診療所長として清水端順意医師が招かれ、満二ケ年勤務して昭和四十四年三月三十一日付で辞任した。清水端医師の後任として、昭和四十四年四月一日付で小柳雋哉(しゅんや)医師が二代所長に就任して現在に及んでいる。

町立診療所(小安

 
 13 上磯保健所戸井支所
 昭和二十三年六月十日、上磯保健所戸井支所が設置され、現日新中学校のグランドになっている側(そば)にあった兵舎をその施設として使用した。
 昭和二十六年ここに日新中学校の新校舎が建築されることになり、戸井村当局が運動し、浜町の金沢藤吉所有の土地を買収し、保健所の建物を建てることになった。
 この建物が竣工した頃、保健所に関する道条例が改正になり、各地の保健所が統合されることになり、上磯保健所が渡島保健所に統合されることになり、昭和三十二年三月一日付で上磯保健所戸井支所が廃止になった。
 従って新築された建物は、一日も保健所の施設として使用されなかった。当時の戸井村長工藤健次郎は、この建物を将来国保の診療所に充当するということを条件として、道に払下げの陳情を繰り返し、幾多の曲節はあったが、無償払下げが認可になり、町の所有になったのである。
 上磯保健所戸井支所時代は支所長を置かず、長谷川医院で父益雄と共に診療に従事していた、益雄の二男重雄医師が戸井支所での仕事を兼務していたが、戸井支所廃止後、市立函館保健所に勤務するようになり、昭和四十七年十一月、国立函館病院の内科医長に転じた。

上磯保健所戸井支所跡

 
 14 歯科医について
 現在町内には歯科医がなく、住民の歯の診療は、函館市や尻岸内町国保病院で行っているが、昔は戸井にも歯科の開業医がいた。
 
 ○阪東歯科病院
 昭和四年頃から阪東某が、戸井警察署の西隣りにあった〓加藤家の借家で開業していたが、阪東医師が昭和十三年頃死去し廃業した。
 ○水津(すいつ)歯科医院
 尻岸内村字大澗の〓松本旅館を間借りして開業していた水津浩(すいつひろし)が、昭和十七年頃、浜町の現在〓佐藤辰雄家のところに医院を新築して開業した。
 水津浩は昭和三十四年十二月十四日、ここで病死し、その後、水津の妻がここを貸診療所にすることを計画して広告を出した。間もなく某歯科医が来て診療に従事していたが、一年位でやめた。水津の妻は止むなく建物を〓佐藤家に売って札幌へ去った。
 ○大久保一(はじめ)医師の出張診療
 
 水津歯科医院の療業後、町内に歯科診療所がなく、小・中学生の歯科診療にも困り、函館市で開業していた大久保一医師を招き、旧保健所の建物を提供し、出張診療をすることになったが、大久保医師は健康事情のため、二年くらいでやめてしまった。
 
 鰮、鰤、鮪などの大漁が続いて繁栄した頃は、五軒もあった病院が、今では東部地域の金沢医院と西部地域の町立小安診療所の二軒のみになったのである。
 
  (追記)
   詩人医師、額賀(ぬかが)誠のこと
 戸井の医療機関の沿革を調べていたら「大正初期の頃汐首に高橋医院があり、高橋四郎治が院長であった」という記録を発見した。東部の五十代、六十代の人々に聞いて見たが「汐首に病院があった」ということを知っている人は一人もいなかった。そこで汐首の昔のことをよく知っている境市正氏(前町教委委員長)に電話で「汐首に病院があり、高橋四郎治という医者がいたと記録にあるが」と聞いて見ると「高橋という医者がいたことは記憶しているが、くわしいことはわからない。ただ私が尋常六年生の頃、汐首から移って行ったことを知っている」ということであった。
 その後戸井西部の旧家の系図を調査するために境市正氏を訪問した時に、汐首の昔の病院の話が出た。「電話で聞かれた後で、昔の病院のことを少し調べて見た。年代ははっきりしないが、汐首で病院の必要を感じ、部落の協力で病院を建てて医者を呼んだ。最初に来た医者は伊藤某で、伊藤医師が去ってから高橋医師が来た。高橋医師が去ってからは常駐する医師が来なくなり、石崎から額賀(ぬかが)という医師が時々汐首の病院に出張して診療に従事したり、小安、釜谷の病人の往診をしていた」と語った。 境市正氏は明治三十六年生(一九〇三)なので、高橋医師が汐首を去ったのは大正六年(一九一七)頃である。したがって汐首に病院の建てられたのは、明治末期か大正初期と推定される。
 境氏の語る額賀医師については、五十才以上の西部の人々は大てい知っている。額賀医師は福島県出身の詩人医師額賀誠で、当時仙台出身函館在住の詩人片平庸人(かたひらつねと)、函館出身の「酒は涙か」で売り出した高橋掬(きく)太郎、北原白秋門下の詩人木村不二男等と親交のあった人で、医業のかたわら詩作に耽(ふけ)っていた人で、詩人仲間では知らない人のない詩人医師であった。
 額賀誠が若い頃戸井と関係があったということは一大発見である。
 額賀の詩友片平庸人は、仙台の素封家(そほうか)に生れた人だが、良寛を慕い、相馬御風(ぎょふう)を尊敬し、詩人を志して生家を飛び出し、啄木をあこがれて昭和七年函館に渡り、北海道新聞函館支局の整理部次長の職につきながら、金がはいると仲間と一しょに飲むという生活を続け、あふれる詩才を持ちながら一生貧しい生活をし、昭和二十九年十二月クリスマスの寒い夜に、酒にしたたか(・・・・)酔って、ただ一人啄木ゆかりの大森浜にさまよい出、この砂浜で凍死して生涯を終った人である。片平は生前仙台の鈴木碧、天江富弥、石川善助、佐藤長助、花巻の宮沢賢治などと親交があった。
 片平の死後十七年を経た昭和四十六年九月十八日、鈴木磐(へき)、天江富弥等の友人知己が、片平の詩碑を建立することを発起し、大森浜の啄木公園の一隅に詩碑を建立した。
 片平庸人の友人高橋掬(きく)太郎は、函館生れの詩人で、釧路新聞の記者から函館日々新聞の記者に転じた頃に片平と交際した。当時片平庸人が主宰していた童民謡誌「草」に高橋が載せた「酒は涙か」の詩が、古賀政男の作曲で有名になり、高橋は日本歌謡界の大御所になったのであるが、高橋の「酒は涙か」のモデルが片平庸人であったのである。
 額賀誠が石崎にいた頃、額賀が資金を出し、木村不二男が主宰し「民謡詩集」という同人雑誌を出していた。この雑誌に木村不二男、額賀誠はもちろん、片平庸人、高橋掬太郎等が童謡や詩を書いていたのである。
 額賀誠は石崎に七年いたが、ここで双児一組を含め四人の男子が生れ、多くの知己ができたが、眼がギョロリと浮(う)き上り、のど仏がはれ上るバセドウ氏病という難病にかかり、石崎を去って郷里の福島県に帰って療養につとめたが、病勢がますますつのるので、バセドウ氏病の名医のいるという別府に行き、ここで1ケ年療養につとめたところ、さしもの難病も嘘(うそ)のように治って帰郷し、爾来(じらい)福島で開業した。
 額賀誠医師の弟は童謡詩人として有名な額賀隆である。石崎で生れた四人の子のうち、三人がそうそうたる医師になり、三番目の子は松竹の俳優として有名な倉田爽平(そうへい)である。
 当の額賀医師は、福島県下で知らない者のない位有名な文化医師であり、且つ素封家で、額賀御殿の主人公であったが、今は故人になってしまった。
 境市正氏に「額賀という人は、当時詩人として有名な人であったが、普通の医者と変ったところがなかったか」と尋ねると「詩人ということは知らなかったが、少し変ったところがあったようだ。私の祖母が老令になって床へ就くようになってから、幾度往診を頼んでも、『ばあさんは老衰(ろうすい)だから、どんな薬を飲ませても、どんな注射をしても何もならないんだ』と言って全然来てくれなかった。死ぬ間際に呼んだらやっと来てくれたが、『老衰だから、いいんだ、いいんだ』と言って病人のそばへ行かず、境家で樺太から連れて来た樺太犬の足などを見て『いい犬だ』とほめていた」と語った。
 石崎に詩人医師額賀誠が七年間もいて、汐首、釜谷、小安の病人の診療をしていたということは特筆すべきことである。
 
詩碑
          片 平 庸 人
北の海 にび色に かびろく
雲ひくく まろし砂山
見のかぎり 茫々(ぼうぼう)
餓(う)えがらす そが雪の上
ただあるく ばっさ ばっさナ

片平庸人詩碑の拓本