函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第七章 交通運輸と通信の沿革

第三節 蝦夷地と馬

 中国では昔、南の方では船が交通、運輸の機関であり、北の方は馬を使ったので、「南船北馬」という語句が生れた。
 東洋でも西洋でも野生の馬を飼いならして、交通、運輸に使うようになった歴史は古い。馬も船と同じように、戦争に使われるようになり、優秀な馬を多く育成し、その馬の使い方の巧(たくみ)な部族や民族が、馬を使って戦いに勝ち、他部族や他民族を征服したという事蹟は、歴史上にその例が多い。
 源平戦やその後の戦国戦乱に使われた馬は、殆んど南部産のもので、梶原景季の乗った磨墨(するすみ)、佐々木高綱の生月(いけづき)、熊谷真実の権太栗毛などの名馬は南部の牧場(まきば)から出たのである。
 本州の馬の歴史は古いが、北海道で馬が飼育され、使われるようになった歴史は新しい。
 北海道に馬のはいった始めは、安東盛季蝦夷地に逃れてきた嘉吉三年(一四四三)以降と推定されるが、五百年以前のことは人間の事蹟ですら、ろくに記録されていないくらいなので、馬のことなどは全然記録にない。
 安東盛季や蠣崎信純(武田信広)などは、戦(いくさ)に敗れて命からがら渡海したので、馬を船に積んでくるなどという余裕はなかったろうが、戦乱時代の領主豪族として馬を使っていたので、落ち着いてから津軽、南部あたりから馬を連れて来たことが想像される。
 『扶桑略記』に「養老二年(七一八)八月、出羽と渡島(わたりしま)の蝦夷八十七人が京都に上り、馬千匹を朝廷に献上した」と記されているが、当時渡(わたり)島即ち蝦夷地には、馬がいなかったので、この時の馬は出羽のものであろうといわれている。
 寛永十年(一六三三)幕府の巡見使が、初めて蝦夷地に派遣されているが、巡見使の大行列が、多数の馬を乗用、荷物食糧輸送等に使っているので、この頃は既に相当数の馬が飼われていたものと思われる。
 寛文九年(一六六九)のシャクシャインの乱の時に、蝦夷地の状況を津軽藩主に報告した『津軽一統志』に、津軽から多数の馬を連れてきたことが書かれている。この時から約二十年後の元禄四年(一六九一)松前藩主から町奉行に通達された書面の一節に
 「給地内における百姓伝馬宿次は、おくれることなきよう、急いで申し付けるべきである」と書かれていることから、松前藩直属の給地内には、既に伝馬宿次の制度があったことがわかるし、相当以前から馬が飼育されていたことを知ることができる。
 『松前蝦夷記』には、享保二年(一七一七)に東西和人地で馬を飼育していたと書かれている。このころの馬は、南部、津軽地方のもので、大体鹿毛(かげ)、栗毛、黒毛の馬で、沓(くつ)を使わないと何里でも歩くが、沓(くつ)を使うと歩かなかった。力が弱くて、乗馬にはならず、専ら駄送用に使われ、五月の節供から八、九月までは、垣根をめぐらした牧場に放しておき、十月から四月まで七ヶ月間は、冬でも野山に放牧していたという。
 このころの馬は、夏に津軽、南部地方から出稼ぎに来る人々が松前へ連れて来たもので、漁場の荷物駄送に使われた。この人々は漁期中使役し、漁が終って帰郷する時は、全部野放しにして行った。翌年漁が始まる頃に来て、野山をさがして野放しの馬を捕えて、垣根の中で飼養して使い、帰郷する時に又放すということを毎年繰り返した。
 野放しの馬を翌年捕えて数えて見ると、熊にとられたり、雪崩(なだれ)に遇ったり、その他の事故で死んでいる馬も若干あったが、子を生んでいる馬も相当あり、総体的にその頭数が減ることはなかったという。
 雪国北海道の不思議の一つに数えられた馬の雪中放牧は、馬の移入と同時に始まった。出稼ぎ者が連れて来て、帰る時に放牧した馬は、北海道の気候に馴れ、体躯は小さいが強靱(きょうじん)な馬になり、どんな山坂道でも、重い荷物を積んで平気で歩く馬になった。北海道で生れ育ったこの駄馬は、ドサンコとかダンツケ馬といわれ、近世まで交通運輸に大きな役割を果したのである。
 享保四年(一七一九)三月、松前藩が江戸幕府に、上の国産の馬を二頭献上したという記録のあるところから、ドサンコの増殖の外に、伝馬や軍馬として使う馬も飼養していたことがわかる。

ドサンコ馬

 寛延三年(一七五〇)に和人地の馬の頭数を調査したところが、亀田郷だけでも八九三頭に達していたという。
 以上のことは、和人地の馬の飼育状況であるが、馬が蝦夷地にはいったのは、寛政元年(一七八九)の蝦夷乱討伐の際である。即ち松前藩で、東蝦夷地サワラからエトモ(室蘭)までの間に、軍馬として二十頭の馬を送ったのが始まりである。二十頭のうち何頭かは、ウスで飼育され、ウスからシャマニまでの間の駄送に使われた。
 寛政九年(一七九七)に書かれた『蝦夷巡覧記』によって、当時の馬の飼育状況を見ると、西在三十四ケ村中、馬持村二十八ケ村。東在三十九ケ村中、馬持村十八ケ村。和人地七十三ケ村中、馬持村四十六ケ村となっている。馬の飼養使役は、始めは和人の間にだけ行われていたが、寛政年間以降は次第に蝦夷の間でも飼養使役されるようになって、益々馬の飼育頭数が増加した。
 然し東蝦夷地のシャマニ以東は、馬も通れない嶮岨(けんそ)な所であったので、寛政十一年(一七九九)に山道が開かれるまでは、馬がはいらなかった。山道が開かれるとすぐ、幕府は南部地方から馬六十頭、牛四頭を購入して、シャマニ以東の各場所に配置して、駅馬の用に供させた。
 この時のことを、羽太正養(はぶとまさやす)は『休明光記巻の二』に次のように述べている。
 「先(せん)だって出発の官吏ども、南部において馬六十匹、牛四匹を買い上げ来り、場所々々に養いおきて、日用を弁ぜしむ。
 この牛馬各場所に廻りたる時、蝦夷人ども始めて牛馬を見るが故に、驚き恐れて近寄る者なかりしに、後には使い馴れて喜ぶこと限りなし。この牛馬、年々子を生じて、今は蝦夷地に満ちみちたり」と。
 アイヌが始めて牛馬を見て、驚き恐れ、後に馴れ喜んだというその様子が想像される。
 然し和人地には、寛永十年(一六三三)以来、将軍が代変り毎に巡見使が派遣され、その一行が馬に乗り、大行列を組んで、西は熊石、東は石崎まで来て、毎回蝦夷巡見使に謁見したので、道南の蝦夷はシャマニ以東の蝦夷のように、馬を見て驚いたり恐れたりすることはなかった。
 寛政元年(一七八九)に書いた菅江真澄の紀行文『ひろめかり』に
 「七月十九日、石崎を立って潮にくると、潮川に潮波がはいって来て深くなっており、又山路は熊のおそれがあるので、馬で出発した。右手に遠石倉といって、岩が群れ立っている所に、飯成(いなり)の神のほこらがある。ここに黒狐がすんでおり、時々見たなどと、この馬引きが物語りをしながら、銭亀沢に来て蛯子の家に来て、ここで月を経て、亀田、有川、箱館に遊んで月日を経た」と述べている。
 寛政元年頃は荷物輸送のための馬の外に、役人や旅人を乗せる馬が、各地に飼養されていたことがわかる。
 明治十七年(一八八四)頃の戸井の重要な交通運輸機関はドサンコであった。網元或は余裕のある民家では、大てい一頭乃至数頭のドサンコを飼育し、魚、薪、米その他の物資の運搬に使ったり、交通の用に供した。郵便局では、郵便物の逓送(ていそう)にも使用した。鮪(まぐろ)の大漁が続いた頃は、函館へ鮪(まぐろ)を輸送する機関はドサンコであった。当時の調査記録を見ると、各部落のドサンコの頭数が戸数の数倍という時期もあった。
 馬車道が開かれ、大型の馬が移入されてからドサンコは、馬車の通れない山坂道の薪炭搬出に使われる程度になり、その数が次第に減少して行った。
 明治四十三年(一九一〇)函館、戸井間の道路が完成し、客馬車が戸井まで開通した。
 昭和初年に大型自動車の通れる道路ができ、トラックやバスが運行するようになるまで、陸上の交通運輸に果した馬の役割は極めて大きなものであった。
 戸井にもドサンコが、僅かに残っているが、昔を語る文化財的動物になってしまった。