函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第六章 神社、寺院の沿革

第三節 寺院の沿革

 広福寺は曹洞宗(禅宗(ぜんしゅう))の寺院としては、下海岸最古の寺院である。広福寺の前身は、寛政元年(一七九〇)に草創された能化庵で、爾来(じらい)明治時代まで、古川尻(函館市古川町)から椴法華までに亘る十四ヶ村(小村に分れていた)の曹洞宗唯一の寺院として、三八〇戸の信徒を教化したのである。広福寺は下海岸の曹洞宗の草分けであり、下海岸曹洞宗の本山であった。
 明治時代になり、下海岸の戸口が増加し、各村に曹洞宗の信徒が増加し、広福寺一寺では不便だという興(よ)論が起り、新寺創建の運動が盛り上り、石崎村に善宝寺、戸井村に法泉寺、尻岸内村に高岸寺、椵法華村に大竜寺などが創建され、明治二十六年代に堂宇を造築し、各村の信徒は広福寺から離れて新寺の信徒となって今日に及んでいるのである。
 広福寺は函館高竜寺の末寺として創建された寺院であるが、広福寺が下海岸を開拓して曹洞宗の信徒をふやし、いわば広福寺の分家として生れた石崎善宝寺、戸井法泉寺、尻岸内高岸寺、椵法華大竜寺は広福寺の末寺ではなく、何れも函館高竜寺の末寺として創建されたのである。
 広福寺の由来の概要を調べて見ると、寛政元年(一七九〇)箱館高竜寺十世職蒸嶺豊眠大和尚が小安地域に来て布教し、同寺十一世華重浄海大和尚が豊眠大和尚を勤請開山として現在地に草庵を造営し能化庵と命名した。これが広福寺の前身である。
 本尊、釈迦牟尼仏は豊眠大和尚の捧持した仏像である。明治三十五年に能化庵が全焼し、再建して広福寺となったので、火災のため堂宇、記録一切を焼燼したため能化庵時代の沿革は殆んど不明であるが、草創以来箱館高竜寺の住職が数代、能化庵の庵主を兼ねていたようだ。その後信徒が増加したので、高竜寺は碩梁弘観和尚を能化庵の主任に命じ、古川尻から椵法華までの布教、教化に専念させた。弘観和尚は七世となっている。
 八世臼木禅海を経て、九世金竜の時代に、石崎、戸井、尻岸内、椵法華に新寺が創建され、能化庵の信徒が急激に減小し次第に衰微した。
 明治三十年(一八九七)二月から、高竜寺から広川董林(とうりん)が能化庵担当教師として派遣され、法務を掌った。
 明治三十五年(一九〇二)五月三日、住職の留守中に風呂場から出火し、堂宇、什物(じゅうもの)、書類一切を全焼した。同年十月、広川董林和尚が能化庵管理任命届を提出し、発起人予約住職に任命され、再建に努力した。焼けた能化庵は安政二年(一八五五)に改築されたものである。
 広川和尚は本寺高竜寺と協議の上、寺号公称を能化山広福寺と改めることとし、明治三十六年(一九〇三)三月二十八日、寺号改称と堂宇再建願を提出した。翌三十七年(一九〇四)二月三日付で認可になり、工事に着手し、十一月十日堂宇の建築が落成し、能化庵を広福寺と改めた。この時汐首観音堂の仏具、什物の一部が寄贈された。
 昭和三十九年(一九六四)本堂及び庫裡(くり)の土台替、客寮二部屋の増築を行い、昭和四十二年(一九六七)本堂屋根の瓦葺工事完了、昭和四十四年(一九六九)庫裡の屋根トタン葺工事を完了して現在に及んでいる。
 広福寺の本尊は初代燕嶺豊眠大和尚の捧持した釈迦牟尼仏で、脇立が文珠(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩である。
 
 歴代住職
  初 代  燕嶺豊眠大和尚(箱館高竜寺十世)開山
  二 代  華重浄海大和尚(  〃 十一世)能化庵創建
     三、四、五代不明
  六 代  祖岳永道大和尚(文政五年七月七日歿)
  七 代  碩梁弘観大和尚(安政七年一月十七日歿)能化庵主任
  八 代  竜山禅海大和尚(明治十四年二月十七日歿)
         (臼木禅海)
  九 代  島金竜和尚(転住)能化庵々主となる。(石崎、戸井、尻岸内、椵法華に新寺創建)
  十 代  大応董林(とうりん)大和尚(大正十一年二月十一日歿)能化庵全焼、再建して広福寺となる(広福寺初代住職)
         (広川董林)
  十一代  絶学文翁大和尚(昭和十年十月十四日歿)
         (小島文翁)
  十二代  懐遺徳隆大和尚(昭和十五年四月十一日付任命され現在に至る)
         (平賀徳隆)

広福寺