函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第五章 教育の変遷

第一節 学校教育

一、私設教育機関

1、汐首村の寺子屋
 嘉永初年(一八四八―五〇)に、汐首村の鈴木屋由松が寺子屋を開いて附近の子弟を教育したのが、戸井町教育の始めである。鈴木屋由松は青森県大畑の生まれで、汐首村の〓鈴木家の初代である。
 由松は十七才の時、雄図を抱いて箱館に渡り、その後汐首村に移って豆腐屋を営んだ。由松の生家は大畑の船問屋であったという。
 由松は文筆にすぐれた人であり、汐首村に移ってから、子弟教育の重要性を村民に説(と)き、村民の強い要望もあって、僻村汐首に寺子屋を開いたのである。
 下海岸で最も早く設けられた寺子屋は、文政六年(一八二三)小林左右平が石崎村に開いたものである。城下町であった福山でさえ、寺子屋、町師匠の最も早いもので、天保年間(一八三〇―四二)に開設されたものである。
 石崎の小林左右平、汐首の鈴木屋由松が寺子屋を開いてから、安政、文久、元治、慶応年間に、道南各地に続々と寺子屋が誕生したのである。
 汐首村の寺子屋の謝礼のことを、村人たちは「二八(にはち)」と称していた。「二八(にはち)」というのは、場所の収入の二割を運上金として上納するという制度であったが、寺子屋の謝礼を「二八」といったことは、漁村らしく面白いことである。汐首村の子弟が寺子屋に「二八」として、金と餅を持って行くと、師匠の由松は、金だけを受取り、「餅はいらない」といって、左手を挙げて笑ったと古老が語っている。
 明治三年(一八七〇)九月に、平民にも苗字(みょうじ)(姓)をつけることが全国的に許された。鈴木屋は屋号をそのままとり、鈴木を姓にした。このころ汐首村で屋号を持っていた家は、鈴木屋と辰見屋だけであった。辰見屋(たつみや)権八は姓を巽(たつみ)とした。権八は〓巽家の初代である。汐首の〓巽、〓巽家など、巽姓の家はすべて辰見屋権八の別れである。
 
2、戸井教育所
 明治五年(一八七二)学制発布と同時に、開拓使函館支庁戸井出張所長大島鼎が住民に教育の必要性を説き、私立学校を設立し、戸井教育所と称し、蛯子川のほとりにあった公立戸井病院内の一室を教室に充(あ)てて子弟の教育を実施した。
 私設戸井教育所は公立戸井学校の前身であり、公立戸井学校は後の日新小学校である。