函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第四章 旧家の沿革と人物略伝

第三節 人物略伝


工藤健次郎

 工藤健次郎は終戦後第一回目の村長公選に当選以来、引続き五選され、昭和四十一年三月、病気のため辞任するまで十九年間に亘って戸井村長を勤めた人である。健次郎は明治三十一年(一八九八)十一月二十九日、戸井村字鎌歌、〓工藤丈太郎の長男として生れた。父丈太郎は鎌歌において、鰮漁業のかたわら回漕店を営んでいた。
 健次郎は大正元年(一九一二)三月郷里の小学校を卒業し、同年四月庁立小樽水産学校漁撈科に入学し、五年間蛍雪の功を積んで、大正六年三月同校を卒業した。この頃の戸井村では中等学校に進学する子弟の極めて少ない時代であった。
 小樽水産学校卒業後郷里に帰り、一年六ケ月を経て、大正七年九月、函館市にあった日魯漁業株式会社に入社し、同社に勤務すること五年、大正十一年六月退社して郷里に帰り一ケ月後の大正十一年七月、戸井村役場書記となり、昭和六年九月、第十三代村長足達敬太郎の信任を得て助役に推挙され、助役の職にあること三ケ年、昭和九年五月に退職した。書記と助役を通算して、十三ケ年間、戸井村役場に勤めたのである。
 退職後鎌歌にて漁業を営み、昭和十六年八月より戸井漁業協同組合理事に選ばれ、昭和十九年四月監事に選ばれたが、昭和二十一年五月戸井漁業協同組合の改組を機として組合役員を辞任した。
 昭和二十二年四月、公選第一回目の戸井村長選挙に、浜の仲間たちの推薦により立候補した。対立候補は終戦後、山本村長、佐々木助役が公職追放された後、村長代理者を勤めていた伊藤直人であった。選挙は激戦であったが、開票の結果工藤健次郎が六十七票の小差で伊藤直人を破って公選第一回目の戸井村長に就任した。
 就任直後は、戸井村に要塞があったため、要塞の施設設備の処理には、他の町村長の知らない苦労を重ね、又新制中学校の校舎建築にも心魂を傾けた。
 第一回の選挙後は、対立候補がなく無投票で五選された。
 在任五期の間、特に教育の振興に力を注ぎ、定時制の戸井水産高校の設置並に校舎建築、施設の充実に努力した。
 五期目の後半から健康を害ねて入院し、昭和四十一年三月二十五日、五期目の任期を残して辞任した。
 昭和四十一年四月二十六日、戸井町議会は多年村長として尽した功績に報いるため、名誉村民称号を贈った。
 昭和四十四年十一月三日、多年戸井村長として地方自治に尽した功労者として、勲五等に叙せられ、瑞宝章を授与された。昭和四十五年五月二十三日、中央公民館において叙勲祝賀会が開催された。
 戸井町館町の自宅において病気療養中、昭和四十六年二月二十日に逝去した。享年七十四才。死亡日の日付で従六位を贈られた。
 葬儀は昭和四十六年二月二十八日、戸井高校体育館において町葬をもって執行された。
 
     盛衰記
                            工藤  健次郎
                              (戸井村長)
   食う土のある処
 奥州平泉に権力をふるい、壮大華麗な平泉文化を築いた藤原三代も、義経をかくまったかど(・・)によって、頼朝の誅戮(ちゅうりく)をうけ、四代泰衡に至って終熄(しゅうそく)した。
 俘囚(ふしゅう)の残党は四散して一部は東海に逃(のが)れたと史書に書かれている。時は文治五年(一一八九)七八〇年前の昔話である。
 戸井に一趾あり、館(やかた)が主は岡部六郎左衛門尉季澄という奥州の武士と村史にあるので、藤原由緒の者が、海路大方のがれて、此の地に至ったと見て大過がないであろう。
 戸井という村名は、蝦夷語の「食う土のある処」という意味だというが、函館から海に沿うて三一粁、汐首岬を回って漸く若干の平坦地を見うることとも思い合わせ、その頃から海に陸に、人の棲息に足る温暖と地理を備え、早くも和人の住む処となっていたものと思われる。
 町村制が布(し)かれてから、戸井村は早くも一級村の指定を受けるに至っている。当時二百十四町村中、戸井村が六十六の一級村の中に列していたことは、既にその充実を示していたことでもあろう。
 この海岸一帯は沿革的には、函館の経済圏に属する恵山岬までの下海岸と呼ばれる所であるが、往時津軽海峡を噴火湾に通ずる鰮の魚道で、中でも戸井は鰮の千石場所として、秋の柔魚(いか)と共に全国に名をはせた処でもあったのである。
 
   雑忙の人生
 私の父は、古くからここで漁場を営み、回漕店をも併営していたので、長男であった私は、当然のこととして、家業を継ぐべきものとされていた。そんな訳で郷里の小学校卒業後、小樽水産学校の漁撈科へ進み、大正六年小樽水産を卒業し、直ちに日魯漁業株式会社に入社して五年間を閲している。
 大正十一年退社して帰村した。当時父が健在であったこともあり、帰村後直ちに戸井村役場に勤務し、それから約十三年間、昭和九年まで役場員として過ごした。
 当時の戸井の漁業経営は、豊漁にだけ頼る初期的なもので、いわば函館商人の仕込に隷属(れいぞく)するウダツの上らない幼稚なものであったが、協業化、企業化への気運の萌芽(ほうが)を見せはじめていた頃であり、そのような時潮が幾許(いくばく)かの経験と学歴をもつ私をして、役場員たらしめたものと、今にして考えられるのであるが、奇しくもこれが今日の素地となったことと思い合わせれば、人生の流転(るてん)を感ぜずにはいられないのである。
 ともあれ、当時海を圧する鰮大漁の勝どき(○○○)と、夜を徹した鰮釜の釜場の燃えさかる火は、あたかも戦場の如くいんしん(○○○○)を極めたものだが、このような盛況も、昭和十四、五年頃を境として急激に退潮を示し、大東亜戦争の始る頃は、村の青年が戦地に姿を消して行くように、海は元の静けさに返ってしまった。昭和九年老父の後を継いだ私の、漁師としての雑忙も、こんな盛衰の中の一コマに止ってしまったのである。
 
   牛歩遅々
 昭和二十二年、一介の漁師でしかなかった私を誘って首長たらしめたのは、もとより浜の仲間たちであった。そしてそこには海を生命とする者の見果てぬ夢と、切なる願望が込められていたことだけは間違いない。
 村長に当選して、最初の難問題は所謂終戦処理であった。要塞のあった戸井村は、終戦時には全村が要塞化していた。私は不用になった要塞の建物や施設を如何に有効且つ適正に村民に役立たせるかということを考えた。当時財務部との折衝のため、昼夜を分たず飛び廻ったことは、村長当選直後の私の苦しい想い出の一つである。
 国から譲渡を受けた要塞の兵舎は、移築改造して、当時不足であった教職員住宅にその大部分を充当した。又要塞地帯になっていた山の譲渡を受け、発足したばかりの六・三制の新制中学校の校舎建築に、その山林の杉材を充当したことなどを回顧すれば、それらが楽しい思い出としてよみがえってくる。
 又昭和三十一年には赤字を抱え、自から進んで財政再建法の適用を受けたが、このことがかえって村民の自覚と協力を招く好結果を生み、再建計画年次を三年間も短縮して完成した。
 最近漸く財政面も好転し、愈々自治体本来の仕事に全力を傾ける時機の到来を想い、このことも又苦労の甲斐があったと思っている。
 教育関係の施設も本年度、戸井高校第二期工事をもって一応終了するので、今後はいよいよ宿願の産業振興に力が入れられる訳である。
 
   奉仕一貫
 私の漁師たるべき生涯は、かくして理事者としての生涯で終(しゅう)えん(・・)を迎えようとしているし、私も又そのことにいたく満足している訳である。
 第一回の村長公選を、六十七票の小差でかちとった私であったが、爾来(じらい)無投票で五選され今日に及んでいるが、回顧すれば牛歩遅々、一歩一歩のたどたどしさにもかかわらず、村民は変らぬ支援と鞭撻を、この私に続けてこられたその情誼の厚さに感謝している今日この頃である。
 過般、自治交友会員の栄誉をうけ、町村知事の招待をうけたが、微症のため席に列することができず、町村知事揮毫の雄渾な色紙が届けられた。題して「奉仕一貫」。
 五十才で戸井村長に当選して早くも十八年の歳月が流れた。私は私の生命のある限り、この途に捧げる以外にはないと心に期している。したがって私の信条も「奉仕一貫」という色紙の文字の精神であると考えている。
 
   「註」昭和四十年十一月、北海道自治交友会が道内の五選町村長三十一名に原稿を依頼して『五選首長のあゆみ』を刊行した。「盛衰記」はこの中から抜き書きしたものである。

又カ 工藤家の系図