函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第四章 旧家の沿革と人物略伝

第二節 旧家の系図

 戸井町蝦夷時代が終って、和人が定住するようになったのは、何時頃かということを知る方法として旧家の系図を調べて見た。
 戸井館の伝説、遺跡、遺物などによって、本州から逃れた和人が今から約六百年前に現在の館町に館を築き、館を中心として住み着いていたことは確かである。然し戸井館はコシャマインの乱以前に蝦夷の襲撃を受け、敗れて和人無住の地になり、天正十八年(一五九〇)松前藩が蝦夷地を支配するようになるまでの長い間、和人無住の時代が続いたのである。したがって戸井に館のあった時代の和人の子孫は一人も居ない。
 古文書や旧家の系図を調べて見ると、小安、釜石、汐首、瀬田来に和人が定住するようになったのは寛永年間(一六二四―一六四三)以降であり、鎌歌に昆布漁を営む和人が若干定住するようになったのは、場所請負制度が定着するようになった享保年間(一七一六―一七三五)からである。更に浜中(現在の浜町)館鼻(現在の館町)横(現在の町)弁才澗(現在の弁才町)に和人が住み着くようになったのが、明和、安永、天明の頃からであることがわかる。このことは各部落の神社、寺院の創建年代とも大体一致している。
 旧家も十代続いているという家は極めて少なく、六、七代という家が多い。定住の経過を調べて見ると、場所請負制度ができてから、対岸の南部、津軽地方から漁期に出稼ぎに来ている間に定住するようになったもの、或は東北地方の度重なる飢饉の年に避難して定住したものが多いようだ。
 昔栄えた家や頭取(とうどり)、小頭、或は名主、年寄、百姓代などという村役人を勤めた人の家が古いと言い伝えられているようだが、調査して見ると必ずしもそうでない場合があった。然し私の調査した旧家で、先祖からの系図のある家は一軒もなかった。
 旧家と思われる家を訪問して、生存している人々に尋ねて見ても、三代以前のことは殆んど知っていない。祖父母の時代のことでさえあいまいである。四代以上続いている家の系図は、過去帳(かこちょう)、位牌(いはい)、墓碑銘を調べて組み立てるより方法がない。然しこれらのものも俗名、歿年が記されていないと組み立てようがない。俗名、歿年が記されており、誰々父、誰々妻などと記されている場合は正確な系図を組み立てることができる。
 旧家を一軒々々訪問して、過去帳や位牌を見せてもらってそれを書き写し、更に墓碑銘を書き写して系図を組み立てた。系図の詳しい家のものは、過去帳などの詳しい家である。
 汐首岬以西の汐首、釜谷、小安の旧家も東部と同じ時代の移住者である。汐首の旧家と言われている〓伊藤家の初代儀右衛門は延享三年(一七四六)に八十八才で歿しているので万治元年(一六五九)生れであり、〓巽家の初代石次郎は文化十二年(一八一五)に九十二才で歿しているので享保九年生れである。古書、古記録によって各部落の人口、戸数の変遷を調べて見ると、小安、釜谷の旧家が定住したのは、汐首と同じ時代か、それより少し遡った時代であることがわかる。
 町村史を調べるのに記録がないとか、資料が少ないといって嘆く必要はない。家々の人々が死ぬ度に、その時代の僧侶の手によって書かれた位牌や過去帳が一家の歴史を物語る直接的で根本的な資料なのである。
 家々の古い新しいの確実な証拠資料になり、その家の栄枯盛衰の歴史を物語るものは位牌、過去帳及び墓碑そのものである。現在落ちぶれている家の位牌や過去帳に○○院○○居士とか、○○院○○大姉という戒名や法名が書かれているのは、その時代、その人の時代に、その家が繁栄していたことの証拠であり、或はその人がその人の時代に、社会や公共のために貢献(こうけん)したことの証拠である。○○院殿○○大居士とか○○院殿○○大姉という戒名や法名は、藩主クラスやその一族に贈られたものであるが、尻岸内町の大澗墓地に、院殿大居士号の墓碑銘が刻まれたものが一基あり、調べて見たところ、昔この地で栄え、村の人々に尽した医師の戒名であることがわかった。
 戸井町でもその時代に網元として栄えた家の当主やその一族、或は村役人や神社、寺院の役員などで貢献した人々の戒名や法名には院号が贈られている。
 全道或は道南で、コレラ、天然痘、赤痢などの伝染病で多くの人々が死亡した年が、歴史に記録されている。過去帳でコレラの流行した年に死亡している人の戒名を見て「この人はコレラで死んだのではないか」と聞いて適中する場合がある。
 町村の歴史は町村の人々が創(つく)るものである。人々の集まりが町村であり、人々の中核は家々であるということは自明の理である。家々の歴史の集積綜合が即(そく)町村の歴史なのである。戸井と関係のない幕吏、藩吏、学者、文化人、僧侶などが、昔書いた断片的な間接的な見聞記録は直接的な歴史ではない。隔靴掻痒(かくかそうよう)ともいうべき萬巻の古書、古文献をつなぎ合わせても、直接的な戸井の歴史にはならない。刺身(さしみ)のツマに等しいものである。刺身(さしみ)のツマの寄せ集めでは、ほんとうの戸井の歴史にはならない。家々の歴史の集積である町村の歴史は、家々が先祖以来守り続けて来た位牌や過去帳や墓碑の中に秘められているのである。それらの中には、自分や一家の幸福のため、村のため国のためにと、それぞれの境遇や立場で働き続けて死んで行った多くの人々の生涯が秘められているのである。
 家々の死者の中には、功成り名遂げて心安らかに死んで行った人、志半ばにして思いをこの世に残して死んで行った人、天寿を全うして死んで行った人、業病にとりつかれて死んで行った人、幼なくしてこの世を終えた子、花開く青春の年令で死んで行った若人、海難等で事故死した人、度重なる戦争で、祖国のために戦って、海や山で命を捧げた人など、いろいろ様々あろうが、これらの人々の一生涯の歴史がすべて家々の位牌、過去帳、墓碑の中に秘められているのである。
 家々の歴史を克明(こくめい)に調べ、それを集約綜合することによって、その町村の生きた歴史、直接的な歴史、民衆の歴史を書くことができる。
 戸井の草創年代を確かめる目的で、旧家約二十数軒の系図を調べて見た。その重要な資料は、家々の位牌、過去帳、墓碑であることを知った。その家で記憶力のよさを誇っている老人でも祖父母の時代までより知っていないし、その記憶はあいまいである。五代も七代も前の家系を暗(そら)んじている人は一人もいない。
 戸井の旧家の系図や沿革を調べる過程で、部落々々に多い同姓の家は、殆んど何代か以前に、一つの家から木の枝のように別れた親戚や縁戚であることがわかり、姓は異(ことな)っていても、何らかの形で親戚、縁戚としてのつながりのあることを知った。
 然し同姓同族の家でも、五代も七代も前に別れた家の現在の子孫は、同族であることを知っていない場合が多い。
 戸井は他の農村、漁村と同じように、古い時代にここに住み着いた人々の、幾つかの系統、系列の家々によって構成されている同族の集りの町村である。二代か三代以前から戸井に住み着いた新しい家々も、殆んど旧家の集団と婚姻、養子縁組などで、縁戚関係になっている。
 「血は水よりも濃(こ)し」という諺通り、これらの同族の集団が、いろいろな問題で団結することがあり、特にこの同族の集りが、町村長や町村会議員の選挙のような身近な選挙には網の目のようにつながり、同族の候補者が二人も三人も出る場合は、一家の票が二人、三人の候補者に分(わけ)られるという。所謂(いわゆる)「親子選挙(おやこせんきょ)」が行われるのである。親戚、縁戚を方言で「親子(おやこ)」と称している。
 選挙による役職に就任する人々は、殆んど親戚、縁戚即ち親子の多い旧家の子孫であり、新しく戸井に移住した人々の中に立派な人物がいて、その人が立候補しても「よそ者」として敬遠疎外され、当選することが困難である。
 戸井町内の旧家と思われるものを抽出して、組みたてた系図は次の通りである。
 ここに採録した各家の系図には、繁簡があるが、これは過去帳その他の資料が整っている家の系図はくわしく、そうでない家のものは簡単により書けなかったのである。
 
本項に掲載した系図
①〓吉田(釜谷)  ②〓松田(汐首)  ③〓小柳(瀬田来) ④〓吉崎(瀬田来)
⑤〓西崎(瀬田来) ⑥〓佐藤(弁才町) ⑦〓池田(弁才町) ⑧〓伊藤(町)
⑨〓池田(町)  ⑩〓金沢(町)  ⑪〓池田(館町)  ⑫〓山田(西浜町)
⑬〓水戸(二見町) ⑭〓宇美(東浜町) ⑮〓金沢(東浜町) ⑯〓石田(西浜町)
⑰〓石田(町)  ⑱〓石田(瀬田来) ⑲〓石田(西浜町) ⑳石田(瀬田来)
〓〓布施(館町)  〓〓斉藤(町)  〓〓佐々木(原木) 〓〓滝谷(瀬田来)
〓〓谷藤(館町)  〓〓吉田(小安町) 〓〓関谷(小安町) 〓〓荒木(小安町)
〓〓川村(釜谷町) 〓〓巽(汐首町)  〓〓境 (汐首町) 〓〓奥野(汐首町)
〓〓伊藤(汐首町)
 

①久二 吉田家(釜谷)

 〓吉田家の祖先は上山に住し、農業を営んでいたが、才吉の代に釜谷に移住した。「先祖にクメドン又はクメ五郎と呼ばれた人がいる」と菊太郎が語っている人は才吉だろうか。大吉は石崎村松代孫兵衛の学塾に学び当時のインテリであった。
 

②□カ 松田家(汐首)


③八上 小柳家(瀬田来)

 八上小柳家の祖、初代新右エ門は享保年間秋田より瀬田来に移住し、代々漁業を営み、二代、三代、四代まで新右エ門を襲名した。
 四代新右エ門子なく、瀬田来の石田藤助の二男吉蔵を養子とし、吉蔵が後を継いだ。
 八工(ハチカセ)小柳家は〓家の分家である。
 

④○中 吉崎家(瀬田来) 〓の分家が〓、 〓の分家が〓、 〓若松、〓桜井は〓の縁戚


⑤カネヲ 西崎家(瀬田来) (〓西崎、〓西崎等は〓の別れである)


⑥□本 佐藤家


⑦久〓 池田家(弁才町)


⑧〓(ヤマイチゼンバシ) 伊藤家(町)


⑨久〆一 池田家(町) (〓は久〆の分家、久ノ一は久〆一の分家である。

(久〆池田家は八五郎の先が三代位あるものと思われるが、調査の手が伸びなかった。)
 

⑩ヤマ十 金沢家(町)


⑪○十 池田家(館町)


⑫○五 山田家(西浜町)


⑬カネカ 水戸家(二見町)

〓水戸忠吉の父の代に鎌歌に移住。祖先は水戸藩士であったので、水戸屋と称した。〓、〓、〓、〓、〓、カ印、〓などはすべて〓の別れである。
 

⑭カネメ 宇美家(東浜町)


⑮カネ〆ウロコ 金沢家(東浜町) (〓は〓宇美家の分家、〆△は〓の分家で収る。)


⑯カネウロコ 石田家(西浜町)

(戸井で石田姓を名乗る家は殆んど〓石田の別れである。家号〓、〓、〓、〓、〓、一△、△一、〓はすべて〓の直径又は傍系である。ニ〆石田も〓の別れと思われる。)
 

⑰カネウロコ一 石田家 カネウロコの別れ(その一)


⑱○ウロコ 石田家(瀬田来) カネウロコの別れ(その二)


⑲一ウロコ 石田家の系図(西浜町) カネウロコの別れ(その三)


⑳二〆 石田家(瀬田来) (〓の別れと思われるが、現在子孫は戸井に居ない)


〓入三 布施家の系図 (宮川神社創建の棟札に記されている布施屋源次郎が入三布施家の先祖と思われる。)(〆三 布施、三〆 布施は入三 の別れである。)


〓〓(かねちがい) 斉藤家(町)


〓○久 佐々木家(原木)

「註」〓佐々木家は原木草分けの旧家の一軒で、兼松までで六代を経過している。この系図は同家の過去帳、古い戸籍簿及び六代兼松生前の談をもとにしてまとめたものである。原木、鎌歌地域で六代及至七代を経過している旧家は、殆んどこの地域の草分けである。原木、鎌歌、東浜町には佐々木姓の家が多いが、東浜町の佐々木姓の家は殆んど原木、鎌歌の佐々木姓の家の分別である。鎌歌の〓佐々木家も佐々木系統の草分けであるが、〓、〓の関係については、調査の手が届かなかった。
    原木、鎌歌で佐々木姓を名東る久メ、久一、大久などは〓佐々木の別れである。現在原木、鎌歌(二見)東浜町で佐々木姓を名東る家は次の通りである。
    ①原木
     〓、〓、〓、〓、大久、〓、〓、〓
    ②鎌歌(二見)
     〓、〓、〓、〓、〓、
    ③東浜町
     〓、〓、〓、大三、大五、大喜、〓、〓、〓、〓、〓、〓
   佐々木姓の家で屋号のない家が二、三あるが、それを除いて、原木、鎌歌、東浜町で佐々木姓を名乗る家が二十六軒ある。
 

〓ヤマ木 滝谷家(瀬田来)

「註」 古文献によると、瀬田来は古くから和人の定住した地域であるので、瀬田来の旧家は何時頃からここに定着したかを調べて見た。〓滝谷家も旧家だということを聞き、同家を訪問して調査して見たが、子孫は三代前のことさえ莫然とより知らず、記録もないので、過去帳と役場の戸籍簿を手がかりにして系図を組み立てて見たが、近世まで存命していたというチョンマゲ爺こと庄治兵衛以前のことは不明であった。明治二十四年五月、瀬田来神社の社殿改築の時の棟札に、村惣代館山兼蔵、世話方三人のうちの一人に滝谷庄治兵衛の名があるので、庄治兵衛は当時瀬田来の有力者であったことがわかる。
    庄治兵衛が〓滝谷家の初代だとすれば、庄治兵衛の生年は天保十一年(一八四〇)なので、現在まで四、五代より経過しておらず、瀬田来草創の頃からの家ではないことになる。
 

〓○ス 谷藤家(館町)

「註」 〓谷藤家の住宅の向い側の海岸縁に、場所請負時代の運上屋があり、幕府直轄時代には運上屋がそのまま会所となり、旧戸長役場時代は会所がそのまま戸長役場になって戸井を統治していたのである。谷藤衛の祖父藤次郎は生前「戸井の会所、戸長役場の草葺(くさぶ)きの建物がここにあった」と語っていたという。五、六十才代の現代の人々も、運上屋会所のあった下の浜を「会所の下」と呼んでいる。
    〓谷藤家の初代重兵衛が戸井に移住したのは会所のあった時代で、明治末期から大正時代にかけて回漕店を経営し、代々戸井の有識者として一家が繁栄したのである。初代重兵衛、二代藤次郎、三代重太郎と続き、衛は四代目である。三代まで夫婦揃って長寿の一族であり、戒名はすべて院号、居士、大姉号を贈られ、その繁栄を物語っている。
    〓谷藤家の過去帳には、初代重兵衛以来の物故者の俗名、死亡年月日、歿年が明記されており、系図の組み立てが容易であった。
 

〓ヤマニ 吉田家(小安町)


〓〓一ヤマキ 関谷家(小安町)

「註」 小安町に多い関谷姓の家の総本家は〓関谷家である。同家の系図を過去帳によって調べて見たが、清五郎―吉三郎―東三郎―東一郎―東一と五代前までは判明したが、六代以前の分については戒名と死去年月日だけより記載されていないので不明であった。六代以前の分については明和九年(一七七二)死亡者二人、天明五年(一七八五)死亡者一人、享和三年(一八〇三)死亡者一人、文化八年(一八一一)死亡者一人、文化十四年(一八一七)死亡者一人、文政四年(一八二一)死亡者四人、安政五年(一八五八)死亡者二人、明治二年(一八六九)死亡者一人などの戒名が記載されている。
    これらの古い死亡者から推定すれば、〓関谷家の先祖は清五郎より二代乃至三代位遡るものと思われる。したがって〓関谷家の先祖は清五郎より二代乃至三代位遡るものと思われる。したがって〓関谷家は七代乃至八代続いていることになる。
    小安で関谷姓を名乗っている〓、〓、〓、〓、〓、〓、〓、〓、〓などはすべて〓関谷家の別れである。
 

〓久丁 荒木家(小安町)

「註」〓荒木家は正明まで六代か七代経過している家である。源之助から正明までの五代は確実であるが、その先が不明確である。同家の過去帖に「先祖、信鮮院法得日妙信士、弘化二年三月三日」と「法性院瑞光信士 天保四年五月十日  亀太郎先祖」と記載されているが歿年の記載がないので、何れが先か不明である。これを二代とすれば正明まで七代である。然し何れにしても七代以上は経過してない。
 

〓〆一 川村家(釜谷町)

「註」 〓川村家の過去帖と旧戸籍抄本などを参考にし、作蔵の談話を手がかりにして、同家の系図を組立てて見たが、過去帖の記載が不備なため、昭市から四代以前は明確でない。然し「利勇信士安政五年六月二十五日先祖」という過去帖の記録から見て、昭市まで六代位と思われる。
 

〓ヤマキ 巽家(汐首町)

「註」 汐首の巽姓の家の総本家は〓巽家で、先祖は「辰見屋権八」と称した。同家に伝わっている算盤に「安政二年汐首村〓印辰見屋権八」という墨書銘があるところから「権八」という名を三代襲名したことがわかる。三代権八の時代に明治となり、屋号辰見屋によって巽を姓としたのである。
    〓巽家は石蔵まで七代を経過している。
 

〓ヤマサ 境家(汐首町)

「註」汐首の境姓の家の総本家は〓境家で、三代まで市之亟を襲名し、博まで七代経過している。〓、〓、〓、〓、〓、〓などは〓境家の分家で、〓松島、〓関谷などは縁戚である。
 

〓□一(なかいち) 奥野家(汐首町)

「註」 〓奥野家の祖三平は、南部藩に仕えた下級の士で、大力無双の人であったという。三平は天保十一年(一八四〇)二〇才の時、志を立てて、同郷人の移住している汐首に渡り、農業を営み、喜好まで四代を経過している。同じ頃〓三浦家の先祖も汐首に移住した。〓三浦家の直系の子孫は勝利である。
 

〓一ヤマウロコ 伊藤家(汐首町)

「註」 〓伊藤家も汐首の旧家であるという古老の話を聞いて同家を訪問し、過去帖を書き写したが、戒名と死亡年月日だけの物故者が多く、俗名、歿年の記載されたものが少く、四代目以前の分については或程度推定をもとにしてまとめた。当主徳三郎から三代前までの分については、明治三十六年(一九〇三)生れのイマ女に聞いてまとめた。過去帖に一代、二代などと書いていたので、まとめ易いと考えて作業にかかったが、それが不確実で信頼性が乏しく、かえって混乱して苦労した。この系図は「当らずとも遠からず」という系図だが、〓伊藤家は先祖儀右エ門から当主三郎まで七代位経過していることは確実である。