函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第十八節 戸井及び近隣町村の災害事件(明治以降)

 日本軍が占拠していた南方の島々が次々と米軍に攻略され、昭和二十年三月十日夜首都東京が、B29による大空襲を受けて焼野原と化した。四月一日米軍が大挙して沖縄に上陸し、軍民挙って沖縄を死守したが、六月二十一日米軍が全島を制圧して占領した。
 それ以来、沖縄を根拠地とした米軍のB29による空襲と、機動艦隊の爆撃機による本土空襲が激化した。ラジオはしきりに空襲警報を伝え、燈火管制が厳しくなった。
 戸井でも家の附近に防空壕を急造したり、近くの山や沢に小屋をつくって避難したり、瀬田来では戸井線のトンネルの中に小屋をつくったりして空襲に備えた。
 浜町の〓長谷川家の妻女が、熊別川の支流ガッチャキ沢に避難中、小屋の中で男子を出産したというエピソードもあった。
 昭和二十年七月十四日から十五日にかけて、全道各地に空襲があった。B29二十機、艦載機延三〇〇機乃至四、五十機が、全道各地を波状攻撃した。輸送麻痺を目的として、あらゆる船舶及び鉄道を襲った。
 青函連絡船は貨客船合わせて十二隻撃沈され、鉄道車輛は合計一一〇輛破壊され、死者四七七名を出した。
 更に青森、函館、帯広、釧路、根室等の都市及び沿岸の町村を銃爆撃し、死者は四八六名に上り、被害民家は五〇〇戸以上に達した。
 戸井には要塞(ようさい)があったので、他町村よりも銃爆撃が激しく、被害も大きかった。戦時中なので、戸井要塞の防備は極秘にされていたが、推定では日新中学校の裏山に十五糎加農砲四門、戸井高校の沢に三十糎リュウ弾砲四門、原木に高射砲数門を配備し、砲兵一ケ大隊、高射砲隊一ケ中隊が常駐していた。又終戦直前には、米軍の上陸に備え、武井の島に魚雷発射基地を構築する計画で海軍一ケ部隊が駐屯していた。
 七月十四日、艦載機グラマンが、釜谷、汐首方面を襲い、三〇キロ爆弾の投下及び機銃掃射を行った。釜谷漁港附近及び汐首灯台附近を攻撃したが被害はなかった。汐首灯台の近くの鉄道ガードの一部が爆撃で破壊された程度であった。汐首郵便局附近にも三〇キロ爆弾が投下され、〓松島家に命中し、老夫婦と母の三名が死亡し、火災が起り、汐首郵便局外附近の民家が六戸全焼した。
 翌十五日、瀬田来沖を航行中の海防艦が艦載機に襲われ、忽ち撃沈された。その一部のグラマンが瀬田来部落に来襲し、死者二名、家屋焼失四戸の被害があった。次いで弁才町を襲い、銃撃によって〓石田家の妻女が重傷を受け、病院に運ばれたが、間もなく死亡した。
 グラマンは更に東に飛び、館町の大宣寺と竜神堂の間に三〇キロ爆弾を投下したが、大きな穴があいて竜神堂がその爆風を受けて僅かこわれた程度で、死傷者もなく民家の被害もなかった。
 次いで同じく館町の〓石田家と〓宇美家の間の崖ぷちに爆弾を落した。ちょうどその時〓の主人が家の後の崖に造った防空壕にはいっていて、生き埋めになって死亡した。
 グラマンは更に浜町に飛んだ。浜町の民家に要塞防備のため十一名の兵が常駐していたが、その一人が小銃で射撃した。グラマンはその兵士をねらって三〇キロ爆弾を投下した。爆弾は道路に落ち、はね返って爆発した。グラマンを射撃した兵士が重傷を負い、民家が火災を起し、〓阿部、一キ附田、〓宇美、〓山崎、〓石岡など五戸が焼けた。もう一発は不発に終った。
 こうして七月十四日と十五日、通り魔のように来襲した艦載機は、その後一度も姿を見せずに終戦になった。
 七月十四日の爆撃後、戸井村役場では役場の会議室のまわりに机を積み重ね、畳やフスマを立てかけて空襲に備えながら執務した。十五日の空襲の日に渡島支庁長が石山兵事課長を帯同して下海岸の巡視に来町していた。この時の村長は山本勇作、助役は佐々木平吾であった。
 七月十五日の戸井村役場の日誌に「朝来より米艦載機来襲、村内を乱射乱撃す」と記されている。この日誌は当時の勧業主任阿部民雄が書いたものである。
 七月十五日の空襲後、役場は危険だということになり、必要書類を鎌歌の地蔵堂に運び、地蔵堂で執務した。
 七月十四日、十五両日の空襲で、戸井村は死者七名、焼失家屋十五戸に及んだ。下海岸では最大の被害を受けたのである。