函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第十七節 下海岸のクドキ節

 下海岸にクドキ節と名づけられている長い歌詞の民謡が歌い継がれている。このクドキ節は、椴法華から函館までの村々の地名、地形、地物、名所、社寺、伝説などを歌い込んだものである。
 クドキ節は昔下海岸をワラジがけで歩いたり、ドサンコ馬の背に乗って歩いたり、或は小さな舟で沿岸を漕ぎ渡った頃に生れたものと思われるが、誰が作詩し、誰が曲をつけたか知る由もないが、連綿(れんめん)として下海岸の人々の間に伝承(でんしょう)されて来たものである。クドキ節は下海岸の無形文化財である。
 クドキ節は歌詞が素朴であり、曲が哀調を帯びていて、素朴な漁民の共感を呼び、ドサンコ馬の背にゆられながら歌ったり、波にゆられる舟の上で歌い、大漁祝い、網子別(あごわか)れその他の宴会の席で歌われて生き続けて来たものであろう。いろいろな民謡や流行歌が年月を経るにつれて、水の泡(あわ)のように消えて行った中で、このクドキ節だけは生き続け、歌い継がれて来たのである。
 クドキ節の歌詞には細かな地名まで詠み込まれ、現在死滅している地名もたくさんあり、下海岸の地名研究の貴重な資料でもある。又昔の下海岸の地形、地物、山川、寺社、村々の人情、情景等も詠み込まれていて、誠に興味深い歌詞である。下海岸の椴法華から函館までの道行(みちゆき)歌である。
 歌詞に詠み込まれた地名や情景から判断して、元の歌詞は明治以前に作られたことはわかるが、元歌が歌われている間は自然に変ったり、意図的に変えられたりして来たことは他国の民謡と同じである。特に歌詞が長いので、記憶ちがいや聞きちがいから歌詞が変っていった形跡があるが、どれが元歌か、歌う人、伝える人によって若干の差異がある。
 現在ではこの歌を伝えている古老の数も少なくなっている。歌詞の全文を記憶している人も少ない。
 小安の杉野憲蔵翁と浜町の水戸米次郎翁の歌うクドキ節の歌詞を採録したが、二人の伝える歌詞は若干の差異がある。
 
   クドキ節(一)  小安、杉野憲蔵(明治二五・一・一生)述(―は地名)
〓オイヤ、サーエー
 上(かみ)でいうなら 矢越の崎よ
 下(しも)でいうなら  恵山のお山
 上り一里で  下りも一里
 恵山お山の  権現(こんげん)様に
 姉と妹と  御祈願かけて
 ワラジ腰につけ  椴法華通れば
 恋の根田内(ねたない)  情(なさけ)の古武井
 思いかけたる  あの尻岸内
 日和(ひより)悪けれゃ  日浦に廻る
 原木(はらき)立つときゃ  わしゃ鎌歌
 行くか帰るか  戻(もど)ろうかどうしょか
 ここは思案の  折戸(おりと)の坂よ
 沖に見えるは  ありゃ武井の島
 陸に見えるは  コブタの崎
 坂の下(お)りかけ  第吉納屋(だいきちなや)よ
 トロリトロリと  浜中通れば
 むこうに見えるは  シスンの崎よ
 とは  弁財
 陸(おか)へ上(あが)れば  〓ござる
 酒がないかと  尋ねて聞けば
 酒はあれども  肴(さかな)がないよ
 頃は七月  盆近所(ぼんきんじょ)なれば
 きゅり皮むき  どんぶり直(なお)す
 酔(よ)ったきげんで  川尻通れば
 沖のかもめに  千鳥が、浜に
 ヨモギナイとは  ドラやましゃんせ
 水はタラタラ  水無(みずなし)の沢
 もはやセタライ  オツケ
 ホンニ恐ろし  あの山中(やまなか)
 わずか上(のぼ)れば  さても名所な
 賽(さい)の河原の  石子積(いしこずみ)ござる
 汐の名をとった  汐首の村
 姉のモヨ子に  妹のコト子
 昔ツヅレの  チリメン帽子
 顔をかくして  釜谷を通れば
 小安キモヤク  皆ヤチマチ
 メイナ町とは  目につく町よ
 石が白いので  白石町
 石でかためた  石崎の村
 今夜のりは  小鳥澗(ことりま)でとまる
 昔コウライ  古川尻
 わずかはいれば  目名が沢
 目名沢には  さても名所な
 栃(とち)の木ござる
 うら(末)が一本で  根本が二本
 わずか上(のぼ)れば  石倉様よ
 四月十日は  石倉参り
 銭でかためた  銭亀沢
 志海苔(しのり)昆布は  名代(なだい)の昆布
 名代昆布は  志海苔昆布
 枕(まくら)そろけて  一夜も根崎(ねさき)
 ここは寒い坂  次ぎ湯の川
 ほんに恐ろし  鮫(さめ)川ござる
 わずか下(くだ)れば  渡(わた)し守(もり)ござる
 トロリトロリと  浜中通れば
 お前、砂盛  わしや高盛
 早く行きたい  あの箱館
 今夜のりは  新川の茶屋でとまる
〓サーエー
 
   クドキ節(二)  浜町、水戸 米次郎(明治二三・一〇・三〇生)述
〓オイヤ、サーエー
 上(かみ)でいうなら  矢越の崎よ
 下(しも)でいうなら  恵山の崎
 恵山御山の  ガンケ(崖)の下で
 波と岩との  モメ事起きた
 そこへオノドリ  仲裁にはいる
 運の悪さに  片羽もがれ
 サアサこれから  湯治(とうじ)に上(あが)る
 一里上(のぼ)れば  権現様よ
 二里上(のぼ)れば  湯茶屋がござる
 三里下(くだ)れば  椴法華(とどほっけ)村よ
 恋の根田内  情の古武井
 思いついたる  あの尻岸内
 日和(ひより)悪い時  日浦に廻る
 日浦沖には  かかり場ござる
 原木立つときゃ  わしゃ鎌歌
 後ふりむきゃ  金下(かねした)ござる
 行こか戻(もと)ろか  帰ろかどうしょか
 ここは思案の  熊別坂
 沖に見えるは  ありゃ武井の島
 陸(おか)に見えるは  小歌の崎
 坂こ下(お)りれば  第吉納屋(だいきちなや)よ
 トロリトロリと  浜中通れば
 戸井のかけ橋  霞(かすみ)に千鳥
 手繰(てぐり)、延(のべ)縄  沖乗る舟よ
 むこうに見えるは  館鼻崎
 しすんかわせば  弁財
 いかり下(おろ)して  川尻着ける
 弁財問屋(べんざいどんや)は  どこかと聞けば
 音に聞えた  〓ござる
 酒はあるかと  尋ねて聞けば
 酒はあれども  さかなはないと
 裏にはせ行き  胡瓜(きゅうり)もいで来て
 皮をむきむき  どんぶり直す
 さかなあれども  酌取ないが
 わしのカカでも  よければあげる
 アヤメ、カキツバタ  咲いたる斉藤澗
 水はタラタラ  水無部落
 ヨゴミナイとは  道楽(どうらく)町よ
 むこうに見えるは  汐首岬
 汐首潮とは  名代の潮よ
 知らんふりして  白い浜通って
 ワラジ片手に  釜谷を行けば
 オンヤ長いや  小安の村よ
 石でかためた  石崎村よ
 晩のりは  小鳥澗なしゃる
 夫婦二人は  古川尻
 一里上(のぼ)れば  目名がござる
 目名沢には  名物ござる
 四月八日は  厄日(やくび)の参り
 四月十日は  石倉参り
 とんと離れた  銭亀沢
 志海苔昆布は  名代の昆布
 枕そろけて  一夜も根崎
 寒い寒いと  寒坂(さむいさか)行けば
 もはや夜明けも  近ずきました
 早く行きたい  大森の茶屋へ
〓サーエー
 
 杉野、水戸両翁の伝える歌詞を比較検討して見ると、杉野翁のものが元歌に近いように思われる。七、七調の八節から成る歌詞のように思われるが、水戸翁のものは、元歌に近い杉野翁のものを、後世若干整理したり、一部を書き直したものと推定される。
 その根拠は、杉野の「折戸の坂」が水戸では「熊別坂」になっており、「コブタ」が「小歌」になっていることで、「折戸」「コブタ」は古いよび名であること。又、杉野には「セタライ」「オツケ」「山中」「石子積」「汐首」と歌われているが、水戸は、「ヨゴミナイ」から「汐首崎」になっていて、中間の地名が歌われていないこと。杉野は「寒坂(さむいさか)」「湯の川」「鮫川」「浜中」「高森」「箱館」「新川」となっているが、水戸は「寒坂」からすぐ「大森町」となっていることなどである。
 水戸のものは、後世浜中あたりの文才のある人が、元歌の一部を改作し、東部戸井の地名をくわしく入れたように思われる。
 その根拠は杉野の歌詞にない「金下(かねした)」「戸井(とい)」「館鼻崎」「斉藤澗」などという地名がはいっていることである。水戸のものは元歌を、明治時代に改作したものと思われる。
 水戸翁の歌詞にはない、
  「ほんに恐ろし、あの山中(やまなか)よ」
  「姉のモヨ子に妹のコト子、昔つづれの、ちりめん帽子」
  「さても名所な、賽(さい)の河原(かわら)の、石子積(いしこずみ)ござる」
  「ほんに恐ろし、鮫(さめ)川ござる」などという杉野翁のものは、古い昔の伝説を知っていて作ったことが想像される。又、杉野翁のものは「箱館」と書かれているから、明治以前に作詞されたものと思われる。
 寛政元年(一七八九)五月、菅江真澄の書いた『ひろめかり』に載っている戸井の地名は
 「原木、鎌歌、トイ、横、弁財澗、川尻、斉藤澗、水無(みずなし)、シヅガウタ、ヨモギナイ、セタライ、山中、石子積、ホヤカラ、エゾムラ、シオクビ、シロイハマ、ウンカ川石崎、潮、石倉、銭亀沢、箱館」の順になっている。
 水戸翁のクドキ節は
 「恵山崎、恵山、椴法華、根田内、古武井尻岸内、日浦、原木、鎌歌、金下(○○)、熊別坂(○○○)、武井の島、小歌の崎、浜中、戸井(○○)、館鼻崎(○○○)、しすん、弁財、川尻、斉藤澗(○○○)、水無、ヨゴミナイ、汐首崎、白浜、釜谷、小安石崎、寒坂(さむいさか)、大森(○○)」の順で、杉野翁のものは
 「恵山、椴法華、根田内、古武井尻岸内、日浦、原木、鎌歌、折戸(○○)、武井の島、コブタの崎、浜中、シスン、横、川尻、水無、ヨゴミナイ、セタライ(○○○○)、オツケ(○○○)、山中(○○)、石子積(○○○)、汐首、釜谷、小安、ヤチマチ(○○○○)、白石(○○)、石崎、小鳥澗、古川尻(昔はコウライ)、目名、目名沢、石倉、銭亀沢、志海苔、根崎、寒坂、湯の川(○○○)、鮫川(○○)、浜中(○○)、高森(○○)、箱館(○○)、新川(○○)」の順である。(○は一方にない地名)
 「坂の下(お)りかけ、第吉納屋よ」とか「坂こ下(お)りれば、第吉納屋よ」と歌われている「第吉納屋」は、〓宇美第吉の鰮漁の納屋である。〓家は初代から五代まで第吉を襲名したが、この歌詞のつくられた頃は、住居が鎌歌にあり納屋だけ浜中の折戸の坂の下にあった時代である。
 〓家が浜中に移ったのは、四代第吉の時代の明治二十七年である。三代第吉が明治十九年、五十九才で死去しているので、クドキ節のつくられたのは、三代第吉の時代の明治以前と推定される。
 「弁財問屋はどこかと聞けば、音に聞えた〓ござる」とか「陸へ上(あが)れば、〓ござる」と歌われている〓は、現在も続いている〓池田家である。〓家の初代は六助といい、天保七年(一八三六)に歿し、二代も六助を襲名し、明治二十年(一八八七)に歿しているので、クドキ節のつくられたのは、初代六助か二代六助の時代である。
 クドキ節の歌詞に歌い込まれている、〓宇美家の納屋と、弁財澗で問屋をしていた時代の〓池田家によってクドキ節の作詞年代を推定して見ると、〓家は三代第吉、〓家は二代六助の時代と思われる。
 宮川神社の棟札を調べて見ると
〓第吉は文政六年(一八二三)世話人を勤めており、〓六助は元治元年(一八六四)慶応元年(一八六五)慶応三年(一八六七)に戸井村の名主を勤めている。
 〓初代六助は天保七年(一八三六)に歿しているので、名主を勤めた二代六助の時代にクドキ節がつくられたということが考えられる。
 このことからクドキ節は、明治元年を僅かさかのぼった時代に作られたことが確実である。クドキ節は今から一〇〇年以上昔に、誰か文才のある人によって作られ、代々戸井の人々に歌い継がれて生きて来たものである。
 下海岸のクドキ節は、無形文化財的な民謡である。
 
   レコードに吹き込まれているクドキ節
 最近コロンビヤ社でこの歌をレコードに吹き込んでいる。これは省略した歌詞であるが、杉野翁のものに近い。
 
   道南口(く)説節
オエヤーアーアー サーサアエー
〓オエヤー
  上(かみ)でいうなら 矢越の岬(さき)よ
  下(しも)でいうなら  恵山のお山
  上(のぼ)り一里で  下りも一里
  恵山お山の  権現様よ
 
〓オエヤー
  わずか下れば  湯茶屋(ゆじゃや)がこざる
  わらじ腰につけ  椴法華通れば
  恋の根田内  情の古武井
  思いかけたる  あの尻岸内
 
〓オエヤー
  日和悪けりゃ  日浦にまわる
  原木立つ時ゃ  わしゃ鎌歌よ
  行こか帰ろか  戻ろかどうしょか
  此処は思案の  折戸の坂よ
 
〓オエヤー
  むかし古来の  古川尻よ
  わずかはいれば  目名が沢よ
  目名が沢には  栃の木ござる
  根本一本で ウラなりゃ二本(ウラが一本で根本が二本が正しい)
 
〓オエヤー
  志海苔昆布は  名代の昆布
  名代昆布は  志海苔の昆布
  枕そろけて  一夜も根崎
  ここは寒い坂  湯の川村よ
 
〓オエヤー
  さても恐ろし  鮫川ござる
  浜へ下(さが)れば  渡舟ござる(わずか下れば渡し守ござるが正しい)
  お前砂盛  わしゃ高森よ
  ついに見えたよ  函館の町
 今夜のりは
  新川茶屋でるサーエー
 
 レコードに「道南口説(くどき)」と「タラ釣り節」という歌も吹き込まれているが「道南口説」は箱館から松前までの道行歌で、「タラ釣り節」は、神威岬から船で北上する歌で、歌詞も曲も共通した部分が多い。歌詞は省略したものらしいし、昔から歌われているものを、道南の地名に精通しない人が文字に書き表わしたものらしく、誤りが若干ある。
 
   道南口説(くどき)
 浪のしぶきで  たもとをぬらし
 とろりとろりと  地蔵町過ぎる
 右に見えるは  大森浜
 丘に登れば  五稜郭ござる
 
 沖の大船  白浪分ける
 わたしゃ茂辺地の  道ふみ分けて
 ここは知られた  当別の浜
 雨が降ろうと  わしゃかまやせぬ
 
 のどがかわけば  泉沢ござる
 主の顔さえ  さっぱり忘れ
 さても難儀の  崎(みさき)にかかりゃ
 金(きん)の住川  千軒岳よ
 
 登り一里で  降りも一里
 浜に下れば  白神の村
 浪が荒いと  荒谷を過ぎて
 大沢渡って  及部(およべ)にかかりゃ
 遂に見えたよ  松前城下
 
今夜のりは 城下の茶屋で
 
   タラ釣り節
 上でいうなら  神威(かむい)の岬よ
 次は美国(びくに)に  丸山岬
 下でいうなら  オタモイ様よ
 登り一町に  下りも一町
 都合合わせて  二町の山よ
 折戸折戸に  参詣をいたし
 オサをまいては  拍手(かくわで)たたく
 わしの願いが  叶(かの)うたならば
 サアサ船頭さん  支度(したく)はよいか
 飯を食べたら  帆を巻き上げて
 今朝の嵐に  セミ元つめて
 表(おもて)若い衆  リョウフを頼む
 胴(どう)の間(ま)若い衆に  帆足を頼む
 トモの船頭さんにかじ前頼む
 かじをだまして  キリキリねじる
 指して行くのは  雄冬(おふゆ)の沖よ
   (レコードの歌詞の明瞭に誤りだと思われる部分は直した)