函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第十六節 霊山、丸山の話

 戸井町と旧亀尾村(現函館市)の境界附近に丸山という海抜四〇八米の山が聳えている。
 この山の頂上附近に小祠が建てられて居り、昔から竜神さんの霊場として、旧五月五日には戸井町亀尾方面はもちろん、各地から多数の参詣人が登山したものである。特に戸井町で鰮、鰤、鮪など大漁の頃は、毎年数十人の人々が参詣したとのことである。鰮が全然とれなくなり、鰤、鮪の漁獲が減ってからは、参詣する人の数は減少したが、信仰者は毎年欠かさず参詣を続けて現在に及んでいる。昨年は、七月八日に弁才町と瀬田来の信仰者九人が参詣し、供えたものが全部なくなったということで話題をにぎわした。
 本年は「旧五月五日の参詣日は衣更えだから、七月三日に参詣してもらいたい」という丸山さんのお告げがあったというので、七月三日の参詣になったとのことである。郷土誌編集の参考に丸山竜神を調べたいと思っていた矢先にPTA会長佐藤可也氏からも誘いを受けたので、丸山参詣を試みることにした。
 七月三日は晴天であった。午前六時頃弁財町に勢揃いし、六時三十分に出発した。参詣者は
 
 〓池田市弥、〓石岡常吉、石岡イシ(常吉妻)、〓山谷友子、青木寅蔵(トタン屋)、青木チヨ(寅蔵妻)梅原吉美智、梅原孝(吉美智妻)、梅原勇(吉美智弟)、梅原政吉(吉美智二男)、〓館山チセ、石坂スミ子、〓池田直治、薄沢百合子、本庄康宏、〓佐藤可也(町議、日新小・中PTA会長)、野呂進(筆者)
 
 以上男十名、女七名、計十七名であった。
 一行は戸井川の支流、金堀沢の合流点附近から牧場までの急坂を登った。丸山は四〇八米の山だが牧場は標高三二五米の高原である。牧場までの垂平距離は三キロに満たないだろう。短かい距離で三二五米の高地に登るのだから、正に心臓破りの坂道なのである。足の弱い者や女は幾度も休憩しなければならない。
 牧場から丸山の麓までは殆んど登りはないが、曲りくねった山道で距離にして十キロ位あるだろう。丸山が見えてからも、あきる位歩かなければならない。然し牧場から十五分も歩くと営林署で造林のためにつけたトラックの通っている広い立派な道路が、丸山の麓を通り蛾眉野(函館市)まで続いている。このような林道が原木までもつけられている。蛾眉野や原木からは、車で丸山の麓まで行ける。
 一行十七名は九時過ぎに丸山の麓へ辿りついた。丸山はその名に反し、丸い山でなく鋭い円錐形の山である。林道から五、六十米位の高さであろう。林道から少しはいった笹やぶに、小さな古ぼけた鳥居が二つ祠の方角を示すように建てられている。ここへ来ても頂上近くにあるという祠は大木の蔭になって全然見えない。鳥居の間は笹が生い茂り全然道がない。丸山の裾を廻るように西方に小路がある。この道を四、五分行くと新しい笹が生えた道らしいものがある。この道が祠に通ずる参道なのである。その道を行くと巨木がうっそうと茂った場所があり、そこからいよいよ祠への急な登りにさしかかる。木立にかこまれ人一人より通れないようなかすかについている急坂の道なのである。
 道のわきの木につかまりつかまり、ほうように登る道なのである。距離は短かいが、急な登りなので幾度も休んで登った。やがて祠の前に辿りついてホッとした。先についた女の人々は祠の清掃をしていた。祠は九尺四方位の建物である。空身(からみ)で登るのも容易でないこの山上によくもこんな建物を建てたものだとその苦労を考えた。祠の前には人が十二、三人坐れる位の広場がある。祠の清掃が終ってから、それぞれ持参したものを祠に供えた。米、塩、乾魚、卵、お菓子、酒などである。祠に供物を供えたら「お穴へ行こう」ということになり、五、六人の男が供物を持ってお穴と称するところへ行った。お穴への道は、祠のわきから北側へついている。この道は祠までの登り道のように急ではないが曲りくねった細道である。お穴までは四、五分の道のりである。お穴というのは口が一米四方位の火成岩に囲まれたもので、深さは四十センチ位で穴は貫通していない。貫通していると思われる中央は長径十五センチ位の楕円形のかどのとれた石でふさがれている。穴の場所は殆んど頂上で、穴の前は人が三、四人漸やく立っていられるような地積よりない。下を見ると目もくらむような急斜面である。穴の附近にはサラサドウダンやシャクナゲの巨木がある。珍らしい景観である。

丸山明神のお穴(例祭日)

 佐藤可也氏が一同の持って行った供物をお穴に供え、一同礼拝して祠の前に戻った。
 祠の前では、神前に供えたお神酒、乾魚、お菓子をさげて酒盛りが始った。二、三十分たってから佐藤可也、池田市弥両氏がお穴のところへ行って間もなく戻って来た。「外のものはなくなっていなかったが、十七ケあげた卵のうち、十三ケがなくなっていた。残りの四ケは紙に包んでいたので、紙をとって来た」との報告である。それから二十分位して又二人がお穴へ行き戻って来た「四ケの卵は全部なくなっていた。こわれた一ケの卵は、からだけ残って中味がきれいになくなっていた」という報告なのである。池田市弥氏は昨年始めて参詣し、酒、魚、お菓子、卵等が全部なくなったのを見て「お穴の帰りに、後に残った者が、いたずらをしたのではないか」と疑い、「今年こそはその真偽を確認しよう」と気おい込んで参詣したのである。又佐藤可也氏は八年位前に初めて参詣し、この度は昨年の話を聞いて二度目の参詣なのである。卵が全部なくなったと聞いても毎年参詣している人々は、別に不思議に思う風もなく、当然のことだと考えているような素振りなのである。
 私は疲れたので確認に行かなかったが、行って見ればよかったと残念に思っている。人間が月の世界に行くという科学時代に、神前に供えたものが僅か二、三十分の間になくなるという事実があり、そしてそれを「神様が受けたのだ」と信じている世界があることを体験し、両極端のことについて考えさせられ、人間の弱さというものをしみじみと感じた。卵を食うか、持ち去ったものはからすやねずみでないことは確かである。信仰者は皆、竜神さんが受けたのだと信じている。
 そして丸山には大蛇が棲んでいると語っている。田舎でも都市でも、人々の信仰というものは誠に素朴なものである。
 祠の前での酒盛りも素朴である。供えたお神酒のなくなるまで語り、歌い、笑い、別世界のようなふんいきである。「丸山参詣の帰りはいくら酔っていても、急坂を下るのにけがをするような事故は絶対ない」と語っている。こうしてお神酒と信仰に酔いながら下山するのである。丸山参詣で欲得を離れた素朴な信仰の状景を体験した。
 祠の中にある棟札で、丸山さんの沿革を確認した。
 
(1)大正元年八月二十二日
    丸 山 坐 須  大山津見神
             大綿津見神
 (この棟札は古老の伝える金成(きんせい)のお婆さんが祠を建てた時のものであろう)末広と刻んだ円形の鏡があり、鏡の台に「大正九年五月小安村汐着 納主松島キミ子」と記されている。
 
(2)昭和二十三年六月九日建之
     発起人  田村重次郎  大江鉄太郎
     大 工  斎藤勝太郎
 (この棟札は、金成のお婆さんの建てた祠が腐朽して建て直した時のものである)
 
(3)昭和三十四年六月十日
     願 主  久保田キヱ
     棟 梁  館山 力雄
 (この棟札は三度目の改築の時のものである)現在の祠は建築以来十年より経っていないので、材もまだ新しい。 神に供えた供物がなくなったという話が四方に拡がり、丸山参詣者が年々増加することが予想される。戸井から丸山へ行く道はいろいろある。 ・原木からの道(原木川沿いに上る―林道が丸山の麓まで続いている。 ・弁財町→丸山経由の道 ・エビシ川と戸井川の間の峰の道(途中で弁財町→牧場経由の道に出る) ・原木川と熊別川の間の峰の道 ・小安、釜谷、汐首方面からの道 ・函館市蛾眉野方面から(蛾眉野―唐川)に出る道。

(丸山明神附近略図)