函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第十五節 狼と鹿の話

 戸井の石器時代の遺跡を発堀すると、土器や石器と共に必ず、鹿の角(つの)や骨が出土する。続縄文期の恵山式の土器や石器の出る遺跡からも、それよりずっと古い時代の縄文中期、前期の円筒式土器の出る地層からも、鹿の角や骨がたくさん出土する。
 戸井の一般の人々は、これらの土器、石器を、アイヌが使ったものと考えているので、土器や石器と一しょに出る鹿の角や骨も蝦夷時代のものと考えている。
 遺跡は続縄文期から、縄文中期・前期にかけてのものなので、鹿もその時代のものである。したがって千年乃至四千年以前に棲息していた鹿の角や骨ということになる。このことから、戸井には数千年昔の石器時代にも、鹿がたくさん棲息していたことがわかる。
 大昔から戸井に鹿が棲息していたことは、遺跡から出土した角や骨でわかるが、「鹿は明治時代にも戸井にたくさん来たものだ」と古老が語っている。
 歴史時代にはいってからの、鹿の棲息の歴史を調べて見ると、古老の語る通り、明治三十五年(一九〇二)頃まで戸井にも鹿が来ている。北海道に昔から棲息していた鹿はエゾシカである。このエゾシカが、数千年或はそれ以上も昔から、明治三十年代までも、北海道全域に亘っておびただしく棲息していたのである。
 『東遊記』に、天明四年(一七八四)二月の大雪で、鹿がたくさん死に、鹿の肉を重要な食糧にしていた蝦夷が三・四百人も餓死(がし)したと記録されている。
 鹿は冬になると、雪の少ない地方へ移動したものだが、その地方に急に大雪が降って、鹿の食う笹か雪に埋もれ、その後で雨が降ると雪が凍り、鹿は笹を堀って食うことができなくなって、大量に餓死することが屡々あったのである。鹿が餓死していなくなると、鹿の肉を食糧にしていた蝦夷が餓死するということもあったのである。

エゾシカ(雄)

 鹿の肉を食糧にしていたのは蝦夷だけでなく、石器時代の人々にとっても、鹿の肉は重要な食糧であった。石器時代の貝塚などから、鹿の骨や角が多量に出土することは、石器時代人が鹿の肉を食糧にしていた証拠である。北海道では、開拓使時代になってからでも、人口が稀薄(きはく)であったので、鹿は全道各地に散らばって、自由に棲息していた。冬になり、雪が積る頃になると、各地に散らばっていた鹿は、群(むれ)をなして雪の少ない渡島半島、胆振地方又は十勝、日高地方に移動した。
 秋も末になり、霜(しも)のおりる頃になると、雪の多い西海岸地方にいる鹿は、大群をなして、雪の少ない東海岸地方に移動を開始する。北海道ではこの移動時期が鹿狩の好機であった。鹿の移動する路は毎年きまっていた。同じところを大群をなして通過するので、自然に道がついていた。蝦夷はこの道をよく知っており「ユクルー」又は「ユックルー」と呼んでいた。ユク・ユックは鹿、ルーは路で「鹿路(しかみち)」という意味である。北海道にはユックルーという地名が各地にある。
 石狩地方のアイヌは、石狩川を渡る鹿路で待ち伏せし、集団で川を渡る鹿を、水陸両方から槍や弓でとったという。川を越える鹿路では、どの地方でもこういう方法をとった。
 この外に蝦夷の鹿狩の方法はいろいろあった。アマツポという仕掛弓でとったり、鹿を断崖に追いつめ、絶壁から追い落して捕獲する方法もあった。鹿を追い落して捕る断崖には「ユクシュルシュ」という地名が残っているが、これは「鹿を追い落してビッコにする」という意味である。海岸地方では、海に追い込んで捕る方法も用いられた。
 戸井の古老は、「昔は戸井でも、川原や海岸に鹿がたくさん来て遊んでいた」とか、「鹿が泳いで海を渡った」などと語っているが、鹿を捕ってその肉を食ったということは言っていない。肉食に馴れていなかった村人たちは「鹿の肉などはアイヌの食うものだ」とでも考えていたものと思う。
 安政年間の『松浦武四郎日誌』に「アイヌから鹿の肉や骨髄を御馳走になった」ということが書かれている。
 当時は狼が、移動する鹿の大群を尾行し、群から遅れた鹿の仔を餌食(えじき)にしていた。熊も春から秋にかけて鹿を襲った。然し狼や熊に捕食されたくらいでは、鹿の数は減らなかった。
 明治時代になり、本州から和人がたくさん移住するようになり、鹿狩に鉄砲を使うようになってからは、年々おびただしく、打ち殺され、急激にその数が減っていった。鹿の敵は狼や熊ではなく、人間であった。
 古今来西を問わず、自然環境を破壊し、自然の動物の安住の天地を奪い、それを絶滅させるのは人間である。
 開拓使時代には、毎年六万頭乃至十万頭の鹿が捕獲され、鹿肉の缶詰(かんつめ)製造所ができたくらいであった。
 明治初年の開拓使の事業報告によると
 
   鹿の皮
    明治六年(一八七三)   五五、〇〇〇枚
      八年(一八七五)   七六、〇〇〇枚
      十年(一八七七)   四三、〇〇〇枚
     十四年(一八八一)   一〇、〇〇〇枚
 
 この報告でもわかるように、鹿の数が次第に減っていったのである。
 鹿の角(つの)は、細工(さいく)用として支那に輸出された。あまり乱獲されてその数が減っていくので、明治八年(一八七五)に「鹿猟規則」が定められ、猟期を十一月から翌年二月までの四ヶ月間とし、鑑札を一枚二円五十銭とした。
 明治十年(一八七七)十月、千歳(ちとせ)の美々(びび)に鹿肉の缶詰所が設けられたが、十二年に廃止された。
 明治十二年(一八七九)に大雪が降り、その後雨が降ったりし、寒気が続いたため、凍死、餓死する鹿は莫大な数にのぼった。この年、十勝以東では、死んだ鹿の角が十六万本以上も拾われたという。このようにして鹿の数が次第に減少していったが、それでも明治二十年(一八八七)に一八、〇〇〇頭、翌二十一年には八、〇〇〇頭も捕獲されたという記録が残っている。
 明治二十二年(一八八九)三月、全面的に鹿猟を禁止した。
 海外に輸出した鹿の肉は、明治二十二年に五千貫、明治三十一年(一九五六)は四千五百貫であった。
 明治二十三年頃、函館附近で人家近くに大鹿が来て、犬と格闘(かくとう)しているところへ附近の人々が馳けつけ、棒で鹿を打ち殺したということもあった。
 明治二十四、五年頃は、北海道でとれた鹿の肉が本州に渡り、青森県あたりから逆移入されて、肉屋で売られていた。
 明治二十九年頃は、函館やその近郊では、夕方に「山オットセイ」といって、鹿の肉を売って歩いている者もいた。
 明治二十二年からの全面禁猟で、十年経た明治三十二年頃には鹿が益々増殖して、人家の近くまで来て農作物を荒らすようになった。被害を受けた人々からの訴えが頻繁(ひんぱん)になったので、明治三十三年十月から十一年ぶりで鹿の禁猟を解いた。
 解禁後の明治三十五年の捕獲頭数は六千頭を越える程に鹿がふえていた。ところが明治三十七年には、大雪が降り、雪の少ない地方に集団移動した鹿が大量に捕獲され、明治三十九年には、僅か二五七頭より捕獲されなかった。
 明治十一年七月に、奥尻島に雌雄一番(ひとつがい)の鹿を放した。それがおびただしい数にふえていたが、明治三十三年の解禁と同時に、猟師たちが島に殺到し、奥尻島の鹿は全滅したのである。今考えて見ると誠に残念なことである。
 大正年代にはいってからは、その捕獲頭数は毎年百頭以下になってしまった。したがって皮、角、肉等を商品として輸出することも殆んどなくなってしまった。
 大正八年には僅か十六頭の猟があっただけである。大正九年には、天然記念物に指定され、再び禁猟動物になって今日に及んだのである。
 今日では、日高山脈の山奥に、かろうじて数百頭の鹿が潜(ひそ)んで棲息しているだけで、下海岸はもちろんのこと、全道の山野で、野生のエゾシカを見ることができなくなったのである。
 本州では昔から鹿は歌に詠(よ)まれ、随筆に書かれ、風流な動物であったが、その数の多かった北海道では、蝦夷の食糧になり、皮、角、肉が利にさとい本州商人の商品となって濫獲され、遂に絶滅したのである。奈良の鹿は厳重な保護を受けて、観光客の人気ものになっていることを考えると、現今の本道の国立公園内にでも、たくさんの鹿が群れていたら、観光北海道の名物になったものと思われる。商人や業者にそそのかされずに(丶丶丶丶丶丶丶丶)、二度目の禁猟をもっと早く実施して、厳重な禁獲規制をしたら、こんな状態にはならなかったであろう。当時の為政者(いせいしゃ)に、自然保護の観念が稀薄なためにこんな状態になったことは、現今公害に対して関心の薄い為政者(いせいしゃ)と軌(き)を一にするものである。
 戸井の古老たちが、「戸井の山々の峰伝いにさくさんの鹿が来た」とか「海岸や熊別川の川原に鹿が来て遊んでいた」とか「鹿が海を泳いでいた」などと言い伝えていることを聞いても、北海道の鹿の歴史を知っていなければ信じられないことである。
 北海道の山野に満(み)ちみちていた鹿が、現在の状態になったという理由は、開拓が進むにつれて、商品として乱獲されたことと、為政者に自然保護の観念が稀薄(きはく)であったことである。又熊とは逆に、鹿は集団生活をするということと、雪に弱い動物であるということも一つの原因である。
 然し鹿の棲息に適し、昔山野に満ちみちていた北海道では、これからでも為政者の考え方と施策一つで、再び北海道の名物にすることは可能であろう。
 
   戸井の山へ鹿猟に来て猟銃を売る手紙(明治三十年)
  謹啓 陳(のぶ)れば未(いま)だ御尊顔も拝さず、唐突愚札(とうとつぐさつ)をもって御照会申し上げ候も実以(じつもっ)て汗顔至極(かんがんしごく)の至りと存じ奉り候えども、左記の件につき如何に候や、御手数ながら御一報下されたく候。小生一昨日来、隣村原木村に出張致し、某人より承わり候処、御尊公様には愛銃家と御聞きとり申し候。
  就いては小生も銃には狂い居る者にて、本月上旬頃より、鹿猟の目的にて当地方へまかり越し、五・七日も山へ行き候も、不幸にして雪不足のため遂に目的を達する能わず、旧正月前には帰国の見込みと存じ居り候。
  就いては小生左記の通りなる銃器を二挺(ちょう)携帯し、遠路重荷と相成り、且つは銭も少しく不如意となり候につき、実に汗顔の次第に候えども、左記の銃のうち一挺だけを御望みの御方候わば御譲(ゆず)り申し上げ帰国致したき所存にこれあり候。
  若し御入用の御見込これあり候わば、大いに損失の上、御譲り申し上げたきにつき、今回甚 赤面の至りながら愚札を呈上し、貴意を伺(うかが)い候につき、 しく御賢察の上、貴殿が御買上げ下さるなり、或は他に御望みの方候わば御周旋(しゅうせん)下さるよう、偏(ひと)えに願い上げ奉り候。
  もっとも御地方には、銃猟の方三、四氏もこれありと聞きとり居り候間、場合によりては二挺とも御譲り申し上げ候も差支えこれなく候。
  先ずは愚札をもって、突然御尊慮を煩(わずら)わし候
                               草々頓首
   明治三十年二月七日
                           原木村にて
                                手塚  拝
  戸井村  河村 潔 殿
 
  (註)これは明治三十年に下海岸地方へ鹿猟に来た手塚という人が、原木村を根拠として一週間位、丸山、笹積山附近を歩いたが、雪不足のため一頭の鹿も見ることができず、金にも困って猟銃を売って旧正月前に帰国したいという興味のある手紙である。
     この手紙はこの頃戸井の山にも鹿が来ていたことを証明する資料である。
 
   『白菊』の「鹿を撃たざるの記」抜萃(明治三十三年)
  迫田喜納(さこたきのう)さんは、もう卒業も眼の前だというのに、どうしたものか学校を休んでいる。迫田さんはこの頃新しく買った十二番の二連銃とばかり遊んでいるので、病気ではないようだ。毎日ケースに火薬を詰(つ)めて散弾を入れている。散弾は二号、四号、七号をよく使う。迫田さんの説明では、二号は鴨打ち、四号は兎打ち、八号の散弾は小鳥打ちに使うのだそうだ。迫田さんがりりしい猟の服装で朝早く出かけることをよく見かけるし、夕方疲れた足を引きずりながら猟から帰るのを見ることがある。
  三月の学年試験もすみ休暇になったら、迫田さんが私に「戸井の方の海岸には、とても鴨が多いそうじやないか。鉄砲打ちがたくさん行くけれど」といった。これがきっかけになり、「戸井に二して往復の海岸で鴨を打ち、中の一日は山に登り鹿猟をしょう」ということになり、私が案内役を引き受けることになった。
  三月下旬迫田さんを案内して戸井までの海岸で鴨打ちをしながら館町の私の家へ一し、翌朝鹿打ちに出かけた。
  能別の川添いに山へはいり、雑木林を幾つかくぐり抜けて坂道にかかった。消え残りの雪が、山峡に春の日ざしを受けて輝いている。二人は山道を上っては下り、下っては上り、曲りくねった細道を奥へ奥へと進んだ。戸井と原木境の丸山を迂廻しているのである。かたい雪が道路を覆っているが、人の足跡がついているから道がわかる。わらじをはいているから滑らない。丸山を半分廻って、二股に出て、今度は原木川の奥へ進んだ。然し歩いても歩いても鹿の足跡らしいものは見つからない。時々木の倒れる大きな音が聞える。樵夫が薪を切り出しているのだろうと思いながら、小高い峰を上った斜面に、大きなブナの木に鋸を入れている男を見た。
  二人とも歩き疲れたのでその樵夫のどころへ歩み寄って「この辺に鹿がいないか」と尋ねると、その男は「鹿をとるなんてとんでもない。三日前から穴を飛び出した熊が一頭この奥にいる。ここから奥は危険だから行かない方がいい」という。二人は驚いているとその男は「熊が出たから鹿はこの近所にはいないだろう。一週間位前なら鹿が二十頭位群をなしてこの辺を馳け過ぎるのを見たんだが、今は一頭もいないからやめなさい」いう。
  迫田さんは鹿打ちをあきらめ、倒れた木が腰をかけて煙草を吸いはじめ、ついでに昼飯にしようというので、二人で握り飯をかじりはじめた。木樵の男も「そんならオラも昼飯にするか」といって、大きな箱のような弁当のふたを開いて箸をつっ込んだ。
  昼飯を食べながら迫田さんは、山の男にいろいろ山の話を聞いたりし、一升びんにはいっている水を分けてもらって二人で飲んだ。昼飯を終って帰ろうとする時に、木樵は道に迷わないようにと親切に教えてくれた。そして木樵は「日の当る場所へ出れば、枯木の枝に山鳥が止っているだろう。山鳥は今頃一番おいしい鳥だ。多分何羽か打てるだろう」と教えてくれた。
  帰り道では木樵のいった通り、何度も山鳥を見かけ、その度に打って四羽打ち落した。山鳥は群集せず、一羽づつ遠く離れて木の枝に止っている。鳩よりは少し大きく、ごまがすりの一見きたならしい鳥だが、後で食べて見たらほんとにおいしい鳥であった。山鳥のほんとの名はエゾヤマドリというのだと迫田さんが教えてくれた。
  ザラメのようにザラザラした残雪を踏み、カサコソと鳴る楢や柏の去年の落葉を蹴散らしながら、新緑には程遠い枯木の山を下りたのは午後三時過ぎであった。
  家ではマサカ二人で鹿一頭をかついで帰るとは期待していないことはわかっている。エゾヤマドリ四羽の収穫は満足すべきものであろう。私の家の物置小屋の天窓から煙が立ちのぼっている。「迫田さん風呂をたてているぞ」と大喜びで家へ急いだ。
 
  (註)この一文は長谷川益雄著『追憶の記白菊』から抜萃したものであるが、長谷川益雄が函中の二年生に進級した明治三十三年三月末、上級生の迫田喜納を案内して、戸井の山へ鹿狩に行った時の思い出の記である。この時は鹿を一頭も見かけなかったが、山で薪切りをしていた樵夫が「一週間位前に鹿が二十頭位群をなしてこの辺を通り過ぎた」と語っている。
     これは明治三十年に手塚という人が、原木を根拠地として鹿猟をした年から三年後であるが、この頃でも鹿が群をなして戸井の山にいたことがわかる。