函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第十四節 武井(むい)の島と弁天さん


弁才天の祠・武井の島(1)


弁才天の祠・武井の島(2)

 武井の島のマンジュウ形の岩の頂上に、小さな祠(ほこら)があり、戸井町や近村の漁師たちは、「弁天さん」といって信仰している。この弁天さんの例祭は六月二十五日で、例祭には戸井町や近村の漁船が、大漁旗などで満船飾(まんせんしょく)を施してこの島に集り、盛大なお祭りを行い、海上安全と豊漁を祈願している。
 弁天さんが武井の島について、次のようないい伝えがある。
 「大阪の富豪『鴻(こう)の池』が、蝦夷地と交易をしていた、慶応三年頃(一八六七)、持船第二宝永丸に、鮭を満載して、年の暮も近い頃、石狩川の川口の入江を出帆した。出帆以来順風を満帆にはらんで南下したが、白神岬附近で暴風に遇い、風のおさまるのを待って箱館の港へ避難しようとして、福島沖に碇を下したが、碇綱が切れてしまった。船は西からの強風うをけ、更に津軽海流に乗って、カイもきかず、『アレヨ、アレヨ』という間に、箱館山を通り過ぎてしまった。船頭並に乗組員は、運を天に任せ、神仏に無事を祈った。
 不安と恐怖におののいている船人にかかわりなく、「情知らずのヒカタ風」が益々吹きつのり、潮流もいよいよ激しくなって、船体をゆさぶり、やがて汐首岬を越えて、武井の島附近にさしかかった。
 ところが武井の島沖に来たら、潮も風も浪もウソのようにおさまり、日浦の入江に漂着し、船も破損せず、船組員も全員無事であった。
 ヒカタの突風は、時が来るとピタッとウソのようにおさまるものだし、東流する潮流の終点は戸井沖なので、この二つが武井の島沖で、偶然一致したのである。
 太平洋に漂流して死ぬことを覚悟していた、第二宝永丸の乗組員の眼には、武井の島が神の島(○○○)に見えたものであろう。乗組員一同が協議して、武井の島に感謝する意味で、船の舳先(へさき)に、守護神として祀っていた『弁才天』の神像を、武井の島に移し祀って、蝦夷地を去ったのである。
 又一説には、二見(旧鎌歌)の〓佐藤留作の父が、武井の島附近の海上で、標流している弁天さんを拾い、自宅に祀っていたが、この神像に銀粉をぬり、大正十三、四年頃に武井の島に祀ったという伝えもある。
 然し、慶応年間、鴻の池の第二宝永丸の乗組員が、武井の島に祀り、暴風のため祠も神像も吹き飛ばされ、一時〓佐藤宅に移し、再び武井の島に移したというのが真相のようだ。
 現在の祠は、昭和十二年六月二十五日、即ち、例祭日に再建したもので、風に吹き飛ばされないように、鉄筋コンクリートで造られている。
 棟札には次のように記されている。
 
     奉鎮祭  巌島(いつくしま)大神祠
      昭和十二年六月二十五日
            斉主  宮川神社々掌 小野 孝徳
            願主    亀田郡戸井村一同
            受負人   福井 只雪
            大工棟梁  高杉 留治
            発起人   亀田郡戸井村二見一同
 
 御神体には白布が全体にぐるぐる巻かれ、その姿は全然見ることが出来ない。この神祠は昔から女人禁制といい伝えられ、女性は島へ行っても、祠のある所へ登ってはならないといわれている。
 昭和四十六年七月一日から、戸井漁港と下北半島の大間港との間に、東日本海運のフェリーボートが就航した。函館・大間、福島・三厩等にもフェリーボートが就航しているが、戸井、大間間は最短距離で、所要時間は約一時間である。戸井漁港から函館までは、車で約四、五十分の距離であり、名勝恵山(○○)までも同じく四、五十分で行ける。戸井漁港から、恵山までの海岸風景は、観光客の讃歎する天下の絶景である。
 武井の島は、出船入船を守護するように、伝説を秘め、四季折々その姿を変えながら、港口に聳え立っている。