函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第十四節 武井(むい)の島と弁天さん


武井の島

 戸井漁港のある小歌(昔はコブタといった)の沖に、オカムイ崎の岩壁と相対するように、全島玄武岩で構成された岩島が浮かんでいる。この岩島はマンジュウ形の小さな岩島と、直角三角形をした大きな岩島を連(つら)ねたような形で、島の周囲は約七二〇米、直角三角形の部分の最も高いところは、海面から五七米ある。
 この島は、遠い蝦夷地の昔からムイノシマと呼ばれ、「無意の島」「武委の島」などという漢字の当てられた時代もあったが、近世になってから「武井の島」と書かれるようになり、この附近を航行する船舶や漁船の目標の島であり、島にまつわる伝説と共に、戸井町のシンボルとされている島である。
 寛政三年(一七九一)五月二十七日、菅江真澄が、有珠登山の途中ここを通り『えぞのてぶり』という紀行文に
 「汐首岬を過ぎて、ムイの島が近くなってきたところが、汐首の潮瀬(しおせ)よりも、もっと速く流れている。ここはムイの黒潮といわれているところである。先年(寛政元年)ひろめ(昆布)刈りを見にきて、カライ目に遇ったが、その時以上の激しい潮流である」と書き、島の名の由来について
 「原木、鎌宇多(かまうた)(鎌歌)の沖の方に岩島があり、その名を武委(むい)といっている。ムイは蝦夷の国で簸箕(ひるみ)のことであるが、岩島の形がムイに似ているので、そのようにいうらしい。この岩島に、美乎(みお)とアワビの争いの物語りがある。この島物語は、『ひろめかり』という冊子にくわしく載せておいた」と書いている。

ムイとアワビ

 真澄の説明では、ムイはアイヌ語で、穀物(こくもつ)をゴミ(○○)とふる分けるヒルミ(○○○)のことをいい、岩島の形がヒルミ(○○○)に似ているのでムイの島といったというのである。
 蝦夷はこの近海の沿岸に棲息しているオオバンヒザラガイ(けむしひざらがい科)が、ヒルミに似ているので、これをもムイ又はミオと呼んでいた。和人が移住して来てから、ムイ、ミオを訛ってミヨなどと呼ぶようになった。
 真澄が「ミオとアワビの争いの島物語は、『ひろめかり』という冊子にくわしく載せておいた」と書いている『ひろめかり』の、その物語の部分は散逸してないが、この伝説は昔から、下海岸地方に伝えられている。その伝説の概要は次の通りである。
 「昔々、下海岸の海に棲んでいたミオとアワビが争いを始め、二つに分れて長い間争ったが、勝負がつかず、双方とも戦い疲れて仲直りをした。仲直りの条件として、境界をムイの島として双方の領地をきめることにした。そしてムイの島の西方をアワビの領地、東方をムイの領地として、長い間の戦いがおさまった。それ以来、ムイの島の東方には、ムイがおらず、西方にはアワビがいないのだ」と。
数十年前までは、ムイとアワビの棲息地の境界が、この伝説のように守られていたようだが、最近ではお互いに、この境界を越えるようになって来た。よく注意して見ると、ムイの領地であった尻岸内方面の海には、昔ワカメが繁殖しなかったものだが、最近ワカメが繁殖するようになってから、アワビが棲息するようになって来た。昔からワカメの生える海にはアワビがいたし、アワビのとれる海には、必ずワカメが生えていた。こういうことから推定すると、アワビとムイの棲息地は、海流、潮流によって区分されていることがわかる。
 ムイは寒流の海に棲息するもので、その分布は、東部太平洋岸ではベーリング海・アラスカから、北米カリフォルニヤに及び、西部太平洋岸では、アリューシャン列島、カムチャツカ、オホーツク海、樺太千島、北海道に及んでいる。ワカメは暖流の海に生えるものなので、ムイの棲息する海ではアワビが育たないのである。
 アワビは暖流の海に棲息するもので、分布は朝鮮、九州、四国、本州、道南である。ムイの分布の南限地は、戸井、尻岸内であり、アワビの北限地は利尻、礼文島である。
 ワカメは下海岸では、武井の島から銭亀沢まで、蔭海岸では、南茅部から鹿部までの海で産する。この海域ではアワビがたくさん棲息しているが、ムイは棲息していない。
 海藻や海棲動物の分布は、海流に左右されることは明らかな事実であるが、昔の蝦夷が、ムイとアワビの棲息地が区分されているのを不思議に思い、ムイの島の昔話をつくり上げたものであろう。
 ムイとアワビの領地の境界が若干乱れたということは、寒流と暖流の潮境が若干変ったという証拠であって、そういう海域は、ワカメ、アワビ、ムイだけの分布の差だけでなく、注意して見れば、その他の海藻、魚類、海棲動物の分布状態も変化していることに気づくものと思う。
 ムイとアワビの物語は、漁業上いろいろな示唆(しさ)を与えるものを含んでいる。武井の島近海が、寒流、暖流の接触、交錯する海域で、寒暖両海流の魚類の豊富な魚田であること。古来優良な昆布を生産した下海岸(戸井、尻岸内)蔭海岸(南茅部、鹿部)は、寒暖両流の交錯する海域であることなので、沿海養殖などにも科学的な資料を与えてくれるだろう。
 昆布の優良な海域は、第一が流紋岩地帯で、第二が安山岩地帯であるという発表をした文献もあるが、優良昆布繁殖の重大条件は「寒暖流の接触、交錯海域である」ということは、長年の事実がことを証明している。
 暖流のみの海域では、優秀な昆布はできないし、寒流の海では、尾札部産の昆布の種子は育たない。
 川汲(かつくみ)、尾札部のマコンブの種子を利尻、礼文、根室などの海へ持って行って養殖しても、下北の尻屋の海で養殖しても、川汲尾札部の海で育ったような昆布にならないという事実が、これを証明している。
 アイヌがムイ、ミオなどと呼んだオオバンヒザラガイは、楕円形(だえんけい)で、大きなものは長径一五㎝以上もあり、ヒザラガイ類では一番大きな種類である。形態は、八枚の白い骨のような殼が、重なって肉帯に被われている。肉帯の表面には、石灰質の小さな針が密生している。表面は一般に褐黄色で、暗褐、赤褐或は紫褐色の雲状紋様があり、海中にいる時は、一種の保護色となっている。
 たいてい干潮線下の大きな岩の下面に附着していて、発見しにくいが、早春産卵の際に、岩や磯の表面に出て来るので、干潮時には、烏(からす)に襲われて捕食されているのを見ることがある。岩に附着しているのを取りそこねると、密着してなかなか離れない。
 表面に密生している石灰質の小さな針を石などでこすり落して、肉を切り裂き、肉帯の中の白い殼(骨)を取り除き、生、或は煮て食用にする。アワビに似て美味である。
 マンジュウ形の岩と、直角三角形の大きな岩との連らなっているところの西側に、海水を呑吐(どんと)している深い洞窟がある。里人はこれを鮫穴(さめあな)と呼び次のようなことをいい伝えている。
 「昔この穴に、大ダコが棲んでいたが、或る時大鮫が来て、洞窟の争奪戦が始まり、両者死闘のあげく、大ダコが負けてこの穴を去り、代って大鮫が洞窟の主になった。それ以来この穴を鮫穴と呼ぶようになった」と。又この鮫穴は、丸山明神のお穴(○○)と通じているともいい伝えられている。
 直角三角形の岩の南西即ち沖に面した方は、切り立ったような絶壁になっており、この岩壁は海鵜のねぐらになり、海鵜の渡来する季節には、岩壁が真黒になる。海鵜の群れ集る岩壁は、その糞(ふん)で真白になっている。
 武井の島は、見る位置でいろいろと姿、形を変えるが、沖の方から海鵜の糞に真白くいろどられた絶壁を見るのが最も神秘的であり、絶景である。