函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第九節 戸井要塞(ようさい)と鉄道工事

 昔の地図を見ると、五稜郭を分岐点とした鉄道予定線が戸井まで画かれている。当時の人々は今まで不便をがまんして来た下海岸にも、汽車が通るようになると、その実現を夢に見たものである。
 下海岸の住民がこぞって待望した鉄道も、昭和十二年に着工になり、夢が現実になることを喜んだが、昭和十六年十二月、大平洋戦争が始ったため、不急の鉄道として、工事が中止された。戦争が終ったら再び着工するだろうと住民は淡(あわ)い希望をもっていたが、戦後は自動車時代になり、既設(きせつ)の鉄道も、僻地の不採算線は廃止するという状態になり、下海岸鉄道の実現は永久に夢と化したのである。線路を敷くばかりになっていた鉄道敷地も、関係の市と町に払下げられてしまった。下海岸住民にとってあきらめ切れないのが鉄道の夢である。
 戸井鉄道が急速に着工され、突貫工事を行った大きな理由は、戸井要塞のための軍用鉄道であったことがわかる。住民のための鉄道ではなくて、軍の至上命令による鉄道であったので、戸井要塞が役に立たなくなれば、不要な鉄道であることを知った。
 大正十三年(一九二四)七月、戸井村が津軽要塞地帯に編入され、戸井の山に津軽海峡を防備する要塞を構築する計画が、軍部の手によって秘密裡に進められていた。この計画と並行して、函館から五稜郭湯の川を経由して戸井に至る鉄道が、軍部の要請によって計画され、昭和十二年(一九三七)に着工されたのである。住民のためというよりも、戸井要塞まで軍需資材や物資、兵員を輸送するのが主目的であった。

戸井鉄道のガード跡

 昭和十九年竣工の予定で工事が進められたが、戦争が激しくなって資材が思うようにならなくなり、更に函館から三十粁に満たない路線工事であったが、幾多の川や谷があり、特に汐首、瀬田来、弁才町までの区間は、けわしい岩山が海に迫っており、全山火成岩という状態で、非常な難工事が続いた。汐首岬や瀬田来の岩山のトンネル工事、灯台附近から瀬田来までの崖縁に、高い石垣を築く工事は特に難行したのである。
 この難工事の区間を請負ったのが、熊谷組という業者で、熊谷組は石垣構築に、汐首岬の村人が「雷落(かみなりおと)し」といっているところの安山岩(汐首石)を使うことにした。
 熊谷組は「雷落し」に削岩機(さくがんき)を据えつけて、エンジンをかけようとしたが、どうしたものかエンジンが全然かからず、止むなく代りの削岩機を取寄せて使用することにした。代りの削岩機は、簡単にエンジンがかかったが、しばらくすると物すごい音響と共に削岩機が爆発し、作業員二人が重軽傷を負い、機械も使用不能になってしまった。
 熊谷組の責任者は慄然(りつぜん)とし、汐首村の人々は「霊地雷落しの神の怒(いかり)だろう」とささやき合った。村人たちの噂が耳にはいった熊谷組の責任者は、「村人の迷信」だと否定しながらも、工事の前途に不安を感じた。工事を辞退しようとも考えたが、軍の至上命令による軍用鉄道なので、こんな理由で辞退するわけにも行かず、作業員たちはおじけついており、思案に思案を重ねた結果、作業員たちとも相談して、岩石の露出している「雷落し」の上部に祭壇を設け、供え物をして作業の安全、作業の無事を祈願した。

雷落しの竜神堂

 こうして三台目の削岩機を取り寄せて作業を始めたところ、祈願が効を奏したものか、その後はいささかの事故もなく、順調に作業が進んで、数百米に及ぶ側壁の石垣構築工事が完成したのである。
 工事が終了してから、熊谷組の責任者は、祭壇を設けたところに小さな祠を建て、竜神を祀り、祠の前に鳥居を建て、感謝の祈を捧げて去った。この竜神堂は、当時の難工事を物語るように、今もなお雷落しの一角に建っている。
 「雷落し」というところは、汐首岬の上で、テレビのマイクロウェーブ中継所の下にあり、岩石の露出している場所で、昔から誰言うとなく「雷落し」といい伝えられて来たところである。海上から見ると、「雷落し」の一角に鳥居のあるのが見える。
 このようなエピソードを織りこみながらも、川や谷には鉄橋を渡すコンクリートの橋柱が立てられ、岩山はトンネルで貫通し、崖縁には高い石垣が築かれ、基盤工本が殆んど完成し、線路を敷けば汽車が走れるようになった頃に、太平洋戦争が始まり、次第に戦局が不利になり、物資も不足になって来た昭和十八年(一九四三)この工事が中止されたのである。
 工事中止後は益々戦況が急迫し、戸井要塞の防備も秘密裡に固められていたが、昭和二十年七月十四日十五日の米艦載機の銃爆撃にも、一発の砲火を交えることもなく、八月十五日の終戦を迎えたのである。
 太平洋戦争が終って、永年秘密にされ一般の人々の見ることのできなかった戸井要塞も、そのベールが取り除かれ、村人もその実態を見ることができた。
 戸井要塞は、現在の日新中学校の裏山に砲台が築かれ、加農砲四門とりゅう(○○○)弾砲一門がコンクリートの砲坐に据えつけられ、砲台の背後には縦横に退避壕が堀りめぐらされ、防空壕が二ケ所につくられていた。これらの施設をかくすために、要塞地帯一帯に黒松林が造成された。
 又現在の日新中学校の校地内に、兵舎や将校下士官の詰所があり、学校のすぐそばのミツコの沢の側面を堀って厚いコンクリートで固めた壕舎が二ケ所にあり、手前のものは探照灯の格納庫で、探照灯を崖縁まで移動させるための線路が敷かれ、その枕木はコンクリート製であった。もう一つの壕舎は大きくて、厚いコンクリートの壁で仕切られており、発電設備のあったところだといわれ、地下室や井戸の跡がある。
 戸井の沢の現在戸井高校のある近くにも、砲数門が据えつけられ、近くに堅固な防空壕があった。砲坐の跡と防空壕はまだ残っている。日新中学校の裏山と戸井高校の沢の要塞を防備するために、砲兵一ケ大隊が駐屯していた。この外に原木の山には、高射砲陣地が築かれ、ここには一ケ中隊が駐屯していた。

戸井要寒の跡(1)


戸井要寒の跡(2)


戸井要寒の跡(3)


戸井要寒の跡(4)

 昭和二十年、戦局が不利になり、本土が米艦載機の空襲を受けるようになった頃、学校の裏山の大砲を山の下に下して散開させる準備を始めたり、一方本土決戦に備えて海軍の一部隊が戸井に来て、武井の島の魚雷発射基地を構築する準備をしている間に終戦を迎えたのである。
 戦争末期の艦載機の銃爆撃は、戸井が要塞であったために、他の町村より激しかったが、一発の砲弾も発射しなかった。
 終戦後進駐軍が要塞を調べに来て、その施設を爆破させた。終戦後二十数年の歳月が流れたが、要塞施設の廃墟(はいきょ)は、今なお空しく残り昔を物語っている。
 軍用鉄道なるが故に戦時中に着工され、軍用鉄道なるが故に中止されたきりになって、日の目を見なかった戸井線、要塞地帯ということで、軍や警察の監視がきびしく、写真もうつされず、生徒が写生することも許されず、お寺やお宮を建てるにも、函館要塞司令部の許可を必要とした戸井要塞、過ぎ去った現在考えて見ると、無用の長物であり、一般住民にとっては迷惑至極な存在であったと思う。然しこれも時代の流れである。