函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第二節 汐首岬の周辺

 道南における円空仏は早くから注目され、安永九年(一七八〇)に完成した『福山秘府』の「諸社年譜並に境内堂舎部」の項に、円空作の像を祀る社寺として二十五の堂社を挙げている。そのうち観音堂が十九堂、神社が六社である。

七飯町大中山の円空仏(富原喜久夫所蔵)


汐首の円空

 徳川幕府に代った新政府は、慶応四年(一八六八)三月全国に布令して、神仏混淆(こんこう)を厳禁した。蝦夷地ではこの神仏分離令の徹底は本州より相当遅れたが、明治初年にはこの布令によって、神社に祀っていた円空仏が寺院に移されたり、海に流されたり、名主等の村役人の家に移されたりした。海に流された円空仏は、行方不明になったものもあり、海上を漂流して個人の所有になったり、海岸に漂着して別な場所に祀られたりした。中には江差町五勝手の柏森神社や木古内町佐女川(さめがわ)神社の御神体になった円空仏のように、衣冠束帯を着けられて神社に祀られたものもある。
 円空は寛文五年(一六六五)に蝦夷地へ渡り、久遠の太田権現から有珠までの海岸を行脚し、寛文五、六年の二年間に亘って四十体以上の仏像を刻んで蝦夷地を去った。
 円空の退道は何時か、蝦夷地のどこからどこへ渡ったかは、明確な資料はない。円空仏の研究家五来重は、『境涯と作品円空仏』の中で「円空が北海道を去ったのは寛文七年か八年であろう。そのルートは下北半島にむけてと、推定している」と書いている。私は汐首観音堂から円空仏が発見されたことから、「寛文七年頃、北海道と本州の最短距離の汐首から船出して、対岸の異国間か大畑に渡ったのではないか」と推定している。
 現在までに北海道と青森県で発見された円空仏を列挙して見ると次の通りである。然し神仏分離令によって、円空が納めた場所から移されているものが相当数ある。
 又寛文九年のシャクシャインの乱の二、三年前であったため、蝦夷地が険悪な空気に包まれており、円空は有珠から奥地にはいることをあきらめ、有珠の善光寺や礼文華の洞窟にこもって仏像を刻み、背面に納めたい「権現」の名を刻んだ。即ち「うちうらのたけごんげん」「ゆうらっぷみたらしのたけごんげん」「うすおくのいん小島」「たろまえのたけごんげん」「のぼりべつゆのごんげん」「くすりのたけごんげん」「いわうのたけごんげん」「いそやのたけ」などである。
 寛政十一年(一七九九)幕吏松田伝十郎が、蝦夷地調査の幕命を受けて渡島した途次、背面に刻まれた場所に運び円空の願望が叶えられたのである。
 
 (参考)北海道と青森県の円空
①北海道の円空
場所像の種類摘要
熊石川 北山神社観音像
熊石川 根崎神社聖観音立像台座共九二、五センチ、身高五九センチ
乙部町花磯(旧蚊柱村) 本誓寺観音像昭和三一年発見。台座共二一センチ
〃三ツ谷 吉祥寺観音像台座共二五センチ。近世になって金泥がぬられた。昭和四二年発見。
〃元和 元和八幡宮観音像台座共四四、五センチ。
〃〃 鳥山観音堂観音像台座共四五センチ
江差町 観音寺阿弥陀像台座共三ハセンチ
江差町五勝手 柏森神社観音像衣冠束帯を着けている。海岸に漂着し、当初無住の澄源庵に祀られていた。三八センチ。
上の国村北村 地蔵庵観音像赤や緑の着物を着せられ、頭布やよだれ掛を着けている。
〃 観音堂十一面観音立像海岸に漂着したもの。台座共一四五、七センチ
〃木の子 光明寺観音像この村の稲荷社にあったもの。台座共五一、ハセンチ。
石崎 石崎八幡宮観音像台座共四七センチ
石崎 西村初男宅観音像久遠から奥尻島へ行く途中の海上で拾って自宅に祀ったもの。台座共三九、五センチ。
福島町吉岡(旧吉岡村) 吉野教会観音像背面に梵字が書かれている。昭和三五年発見。函館称名寺のものと同型。五一センチ。
木古内町 佐女川(さめがわ)神社観音像衣冠束帯をつけている。漂流仏らしい。みそぎ祭りの御神体
〃泉沢 古泉神社観音像
上磯町茂辺地 曹溪(そうけい)寺観音像享保十一年以前は茂辺地観音堂にあったもので昭和三年まで宝樹庵にあった。三六センチ。
〃富川 富川八幡宮観音像
〃上磯 八幡宮観音像戸切地(へきれち)観音堂にあったものを移した。
函館市船見町 称名寺観音像福島町吉岡の住吉氏所蔵のものを称名寺に寄贈した。出所は吉岡。吉野教会のものと同型、四三センチ
七飯町大中山 富原喜久夫宅観音像上の国村木の子の光明寺のものと同型。台座共六六、五センチ。祖先より伝承のもの。
戸井町汐首 観音堂観音像台座とも四五センチ。昭和四二年八月一日発見。昭和三六年容姿を変え金泥をぬった。
砂原町 内浦権現社観音像寛文六年七月、礼文華の窟で作った。背銘「うちうらのたけごんげん」
八雲町山越 諏訪(すわ)神社観音像寛文六年七月、礼文華の窟で作った。背銘「ゆうらっぷみたらしのたけごんげん」
洞爺湖中の島 観音堂観音像寛文七年七月二十八日礼文華の窟で作った。背銘「うすおくのいんの小島」
登別、登別温泉 権現堂観音像有珠の善光寺で作る。背銘「のぼりべつゆのごんげん」
苫小牧市錦岡 樽前神社観音像礼文華の窟で作る。背銘「たろまへのたけごんげん」
寿都町磯谷 能津登海神社観音像二体あり。一体の背銘「いそやのたけ、寛文六年八月十一日」
広尾町 禅林寺観音像「寛文六年六月」の背銘あり。
釧路市米町 厳島神社観音像礼文華の窟で作る。背銘「くすりのたけごんげん」
豊浦町礼文華 ケポロイ観音堂観音像

 
  北海道では以上三十二体の円空仏が発見されている。
 文政五年(一八二二)の記録に「福山馬形神社に円空作の十一面観音、荒谷神社に円空作の木像がある」とあり、文久年間に書いた松浦武四郎の紀行文に「恵山にも円空仏がある」と書かれているが、現在はない。
 
②青森県の円空
 昔、南部、津軽と呼ばれた地域で、現在までに十一体の円空仏が発見されている。円空蝦夷地を去ってから約二ヶ年即ち寛文七、八年に津軽、南部を行脚(あんぎゃ)しているので、もっと多くの円空仏が存在するものと思われる。但し、油川の浄満寺や三厩の義経寺等にある円空仏は、渡島前の作仏と思われる。
 
②青森県の円空
場所像の種類摘要
三厩村 義経(ぎけい)寺観音像背面に朝岳遊楽という雲水が書いた偈(げ)がある。年号は寛文七年となっている。
寛文五年頃の作払と思われる。
蓬田(よもぎだ)村阿弥陀川 正法院観音像
青森市油川 浄満寺阿弥陀像江差町の観音寺のものと同型で、梵字の背銘がある。
田舎館村 弁天堂十一面観音立像
弘前市 西福寺十一面観音立像佐井村長福寺のものと同型
 〃   〃地蔵菩蔭立像円空作のこの種の仏像の優作である。
鰺ヶ沢町 延寿庵観音像漂流仏で「海上激流黒本尊」として漁民の信仰を集め薬師如来として祀られている。
佐井村 長福寺十一面観音立像もとは真言宗の庵寺六角堂にあったという。総立一八〇センチ。上の国のものと同型。
むつ市恐山片足倚座の聖観音像この仏像は田名部の熊谷家に寄宿して作り熊谷家に与え、熊谷家はこれを万人堂に納め、
万人堂退転の時、熊谷家の檀那寺であった田名部の円通寺に移り、その後恐山に運ばれたものである。
円空が熊谷家に寄宿したのは寛文八年と伝えられている。
むつ市大湊 常楽寺阿弥陀如来立像常楽寺はもと田名部にあり神宮寺と称していた。総高一四六センチ。
平館村 福昌寺観音像

 
 北海道と青森県に現存する円空仏や背銘の年号などから円空上人の足跡の概要を推定すれば次の通りである。
 円空は寛文四年(一六六四)岐阜県美並の白山神社に阿弥陀如来像を納めてから、北国への行脚を思い立ち、船で日本海を北上し、寛文五年鰺ケ沢に上陸し、岩木山に登り、弘前、田舎館、油川、蓬田、平館、今別などの名越派の庵寺にりを重ねて仏像を納めながら三厩に着いた。
 三厩蝦夷地渡りを思い立ち、ここから松前に渡り、松前から久遠まで行き、太田山の洞窟にこもって数体の仏像を刻んでここに納め、寛文六年、久遠を出発して乙部、江差、上の国石崎、江良町などにりを重ねて松前に戻り、ここで有珠登山を志し、荒谷、礼髭(れひげ)、吉岡、福島、知内、木古内、茂辺地、上磯を経て大川村(大中山)に滞留した。ここから亀田、箱館、銭亀沢、石崎小安りを重ね、小安から蝦夷舟に身を托して恵山に着き、ここから蝦夷船に乗じて蔭海岸に越え、運上屋のある浦々にりを重ねて六月に有珠の善光寺に滞留して数体の仏像を刻み、有珠岳に登った。
 有珠の善光寺を立って帰途についた円空は、舟で礼文華に着き、礼文華の窟にこもって七月二十八日過ぎまでに五体の仏像を刻んでここに納め、八月に内浦岳(駒ケ岳)に登り、大沼を経て汐首に着き九月か十月頃、汐首から下北の異国間か大畑に渡ったものと思う。
 これは推定であるが下北へ渡ったのは寛文六年の秋か、円空が途中長逗留(ながとうりゅう)した場所があるとすれば寛文七年の春頃ではないかと考えられる。円空が寛文五年の後半から寛文六年の八月まで蝦夷地にいたことは確かであるが。
 寛文八年九月に田名部の熊谷家の当主が書いた『万人堂縁起』の中に「沙門円空なる者が来て、予の宅に寄宿すること一ヶ月余り、自ら大士観自在の尊像一躯を彫刻して予に授けた」という意味のことが書かれているし、佐井村誌に「長福寺の十一面観音像は、寛文八年北海道から渡った円空上人が作ったものである」と書かれている。これらのことから円空が寛文八年には下北地方にいたことは確実である。
 寛文七年の足跡が不明なので、寛文七年の春から秋までの間に下北へ渡ったという推定も成り立つと思う。とにかく寛文六年八月以降寛文七年までの間の円空の足跡は、北海道にいたものか、下北地方にいたものか、今までのところ不明である。
 円空は寛文九年には郷国に帰っているので、青森県と北海道にいたのは寛文五年から八年までの四ヶ年である。