函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第一節 戸井館の周辺

 古銭出土のレコードは、長野県の中野の十五万枚であったが、昭和四十三年七月、北海道函館市志海苔(旧銭亀沢村字志海苔(しのり))から一挙に三十七万四千余枚の古銭が掘り出されて中野のレコードを大幅に破った。
 ところが今から一五〇年くらい昔の文政四年に、戸井から六万枚の古銭が出土しているが、蝦夷地の昔のことなので歴史家でも知っている人は少ないようだ。戸井の古銭は日本古銭出土史上第三位の量であろう。
 
   銭亀沢の古銭
 昭和四十三年(一九六八)七月、函館市志海苔町(旧銭亀沢村字志海苔)で道路工事中、古銭がぎっしりつまつている大瓶(おおがめ)が三つ掘り出されて、附近の住民は大騒ぎとなり、ビッグニュースとして新聞やテレビで全国に報道され人々の話題になった。
 この古銭は、そっくり函館博物館に運び込まれ、館員の手で分類され、枚数が集計された結果、種類にして九十四種、枚数の合計三七四、四三六枚と発表された。総重量は約一五〇〇㎏(約四〇〇貫)と発表された。
 これは種類、枚数共に従来の記録を大幅に破ったものである。志海苔から出土した古銭は時代の古いものでは、半両(はんりょう)、五銖(ごしゅ)、貨泉(かせん)もあり、日本の和同開珎の手本になったという唐時代の開元通宝が実に三万余枚含まれていた。又数は少なかったが皇朝十二銭といわれている、日本で鋳造された和同開珎(一)万年通宝(一)神功開宝(四)隆平永宝(二)富寿神宝(四)承和昌宝(一)貞観永宝(一)延嘉通宝(一)等、八種十五枚が混っていた。
 三十七万枚のうちに最も新しい年代の明(みん)時代の洪武通宝(一三六八)が十二枚あった。古銭を入れた大瓶は何れも室町時代前期未のものと推定され、志海苔館と関連づけ、埋められた時代はコシャマインの乱の頃ではないかという推論がなされた。
 文政の昔、戸井から古銭が出土した場所は、岡部館があったという伝説のある附近である。
 
   戸井の古銭
 旧銭亀沢村志海苔から三十七万枚の古銭が出土した昭和四十三年より一四八年前の文政四年(一八二一)に、戸井から六十二貫余(二三三㎏)約六万枚の古銭の外、水晶、メノー、朱砂などの宝石類が一〇〇種余り堀り出されて大騒ぎになった。
 戸井村ではその処置に困り、当時の村役人であった頭取石田半治郎、戸井の小頭藤七(伊勢屋)鎌歌の小頭与八、世話人である戸井の藤吉(金沢)茂八、鎌歌の第吉(近江屋―後の宇美)等が協議の上、場所支配人であった箱館村の新井田金右衛門を通じて、松前藩主松前章広に報告して、その処置についての指示を待った。
 松前藩では、早速役人を戸井に派遣して調査の結果古銭は計量の結果六十二貫余、その種類は開元通宝(六二一年)景徳元宝(一〇〇四)元豊通宝(一〇七八)元符通宝(一〇九八)大観通宝(一一〇七)洪武通宝(一三六八)永楽通宝(一四〇三)などであり、その外に水晶、メノー、朱砂などの宝石類が一〇〇余品あった。約六万枚と推定される古銭なので、銭種毎に分類した数を志海苔古銭のように明らかにすれば貴重な資料になったものと思われるが、当時はそういう時代でなかった。この時の出土品は恐らく松前藩の役人が福山へ持って行ったものと推定されるが、その処置については不明である。

戸井の館跡附近から出土した古銭(文化4年)

 古銭などの出土した場所は、岡部の澗という入江(現在の戸井郵便局の前の入江)のある小沢(宮川)で、この近くの高台に岡部館と呼ばれている所がある。松前の役人がその附近を調べて見たら、古い石碑があり、文字が刻まれているので、解読しようとしたが、石碑の表面が風化磨滅して読みとれなかった。そこで拓本(たくほん)をとらせて見たら「岡部六弥太六代孫岡部六郎左衛門尉季澄」という文字だけが、はっきり判った。岡部季澄は「新羅之記録」にコシャマインの乱の頃の原口の館主と記録されている人である。
 このことから岡部六郎左衛門尉季澄が原口に移る前に戸井に館を築いており、その頃ここにこの石碑を建てたものであろう。
 古銭の出土した岡部の澗の沢は、昔から時々光る物があるという噂があり、この村の和人やアイヌがこの沢の近辺に行くことを昔から固く禁じられていると村人が語っていた。
 この沢の何箇所かを、松前の役人が堀らせたところ、六尺四方もある大きな石柱が一つ出土した。この石櫃は開けても見ず、直ちに船で松前に運ばれたので、この石櫃にどんな物がはいっていたかは、村役人ですら知らなかった。松前藩では石櫃の中にはいっている物を調べて発表するということであったが、その後全然発表がなかったので未だに謎(なぞ)である」
 以上が文政四年に戸井にあった事件として『松風夷談(しょうふういだん)』という古書に書かれている内容を中心として、宮川神社のこの頃の棟札や、昭和四十三年に道路工事中、岡部の澗と呼ばれた附近から出土した古銭などによって筆者が組立てたものである。
 『松風夷談』は松前藩第十七代藩主崇広(たかひろ)が、松前藩の学者蠣崎敏という人に命じて、『蠣崎広時日記』の中から、蝦夷地における珍事、奇談、大事件を抜き出してまとめさせた書である。この書を書いた年代は文政四年から三、四十年後の嘉水、慶応の頃と推定されている。
 筆者が昭和四十一年に発見して「戸井発祥の石碑」と名づけていた石碑が、古い時代の板碑であることがわかり、昭和四十六年三月五日、函館称名寺に保管されている「貞治の碑」と共に、北海道有形文化財に指定された二基の板碑は、文政四年に古銭、岡部の碑、石櫃(いしびつ)などの発堀、発見された岡部の澗附近にあったのである。文化財に指定された二基の板碑は梵字(ぼんじ)などが明瞭に読みとれるのに、「岡部六弥太六代孫、岡部六郎左衛門尉季澄」と判読できるような文字は全然ないので、文政四年に発見解読された石碑ではない。
 文政四年発見の石碑は松前に運ばれたものか、このあたりを念入りにさがして見たが、未だに見当らない。
 『松風夷談』に、古銭の種類を「大観通宝、用、永楽、洪武(こうぶ)銭の由」と僅か四種より書かれていないが、昭和四十八年の道路工事中戸井から『景徳元宝、元豊通宝、元符通宝、洪武通宝」が出土したので、これらのものも含まれていたことは確かである。六万枚もの大量の古銭が出土したのだから、もっと多くの種類があったことは確かであるが、このくわしい調査がなされず、その古銭は行方不明になったので調べる術(すべ)がない。
 文政四年の戸井の古銭出土事件を記録した人は、古銭の知識の浅薄(せんぱく))な人であったらしく「大観、開元、永楽、洪武」と書いていることでもわかる。古銭の知識のある人であれば、年代順に「開元、大観、洪武、永楽」と書いた筈である。
 然も六万枚の中から偶然にも「洪武通宝、と永楽通宝」の二種が記録されていることは、歴史的に志海苔から出土した古銭と比較検討する上に極めて貴重な資料である。特に戸井出土の古銭に「永楽通宝」が含なれていたという記録は貴重である。
 『新羅之記録』にも、戸井館、岡部館の記録は全然ない。戸井に館があったということは、村人が伝承して来たもので、伝説である。
 然し「松風夷談』に記録されている、文政四年に戸井から古銭、石櫃が出土したこと、「岡部季澄」と文字の刻まれた石碑が発見されたことは事実である。又戸井の入江にオカベトノマ、オカベマ、オカベトマリと名づけられてその名が伝承されて来たことも事実である。
 私が発見した二基の板碑も館の存在を証明する遣物である。
 こういうことから、戸井にあった岡部館は『新羅之記録』に書かれているコシャマインの乱以前に蝦夷の襲撃を受けて陥落したことが考えられる。
 後世「岡部館が蝦夷の攻撃を受けて陥落し、館主が井戸の中に財宝を埋めて自刃した」という伝説は文政四年の事蹟から生れて枝葉がついたものとも推定される。