函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第三章 伝説と逸話

第一節 戸井館の周辺

(1) 戸井館の伝説
 戸井に和人の館が存在したということは、古書、古記録にはないが、「旧役場跡の高台に和人の館があり、岡部某が館主であった。館とは名のみで、ごく粗末なもので、僅かに土畳を築き、蝦夷の家屋と異なる建物があっただけである。長禄元年(一四五七)五月の蝦夷の大乱以前に、戸井館がコシャマインの挑戦を受けた。館主岡部某は、兵を浜中に出して抗戦した。然し衆寡敵せず、更に蝦夷の放つ毒矢にあたって死するものが数多かった。館主は、『今はこれまで』と覚悟し、己が財宝を館の附近にあった井戸に入れて蓋をし、出でて奮戦して死し、館が陥落した」。以上が戸井館の伝説である。
和人が戸井に渡った事蹟を考証するには、遠く源平合戦の時代に遡らなければならない。
 
○寿永三年(一一八四)一の谷の合戦。この戦で、義経軍に加わった岡部六弥太忠澄が、薩摩守、平忠度を討取った。
○元暦元年(一一八四)屋島、壇の浦の合戦。安徳天皇が入水し、平氏が滅亡した。
○文治元年(一一八五)義経、行家の請により、頼朝追討の宣旨が下り、次いで頼朝に対して、義経、行家追討の院宣が下った。
○文治五年(一一八九)義経は逃れて、奥州の豪族藤原氏に身を寄せていたが、泰衡が義経を殺した。頼朝は泰衡を討ち、奥州を平定した。泰衡は蝦夷地へ逃れようとして途中で部下に殺され、泰衡の従者は散り散りになって蝦夷地に逃れた。
  義経の残党及び泰衡の残党の蝦夷渡りが考えられる。源平合戦 頼朝の奥州征伐以後の和人の蝦夷地渡りは次の事蹟が考えられる。吾妻鏡の記録
○建保四年(一二一六)六月十四日、東寺を襲った凶賊、海賊の類五十余人を、一度奥州に遣わし、夷島に放った。
○文暦二年(一二三五)七月二十三日(九月十七日嘉禎と改元)「夜討強盗の張本人は直ちに断罪、枝葉罪者(従犯者)は関東に召し集め、夷島に遣わすべし」と改めた。
建保年間以降、単なる強盗、海賊以外に、平家の残党、義経の残党、藤原氏の残党が乱を企て、捕えられて蝦夷地に流された者の数が、多かったものと思われる。
 これらの流人の流所は汐首岬以東であった。
当時は汐首岬以東は蝦夷が多かったので、自衛上、和人は一ケ所に集まって館を構築して居住していたことが想像される。
 戸井に館を築いていた和人は、康正、長禄のコシャマインの大乱以前に亡び、それ以来和人の居ない時代が永く続いたのである。
 館主岡部という伝説から、義経に恩顧を受けた者の残党が戸井の和人を統率していたことが推定される。岡部六太忠澄の所領は、武蔵国(今の埼玉県)大里郡岡部村で、ここには岡部家の墓所もある。
 
(2) 板碑の発見
 館の伝説に附加されて、次のような伝説がある。
 
  「館主岡部氏は、館の東の島(砂で出来たもの)にある三基の石に対して、毎朝礼拝していた。その石がどんな由緒あるものか、又何を祈願したものか不明であった。
  館が陥落してから年経て、村人は昔を偲び、神社(祠)を建て、宮川の流れから、宮川神社と名づけ、村人が崇拝するようになった」
 
 戸井の宮川神社の創建は、明和二年(一七六五)と伝えられている。創建当時の宮川神社の位置は、法泉寺の下、現在の登記所のあたりであった。
 館主が毎朝礼拝したという伝説の三基の石が、どこかにあるだろうと考え、さがした結果、昭和四十二年もと〓宇美家が三号漁場の後に祀っていた海津社(祭神稲荷大明神と竜神)の跡にコンクリートでつながれた、二基の石を発見した。発見当時は、文字が刻まれていることに気づかず、自然石だと思っていた。
 昭和四十三年夏、文字の刻まれていることを河村武男が知らせてくれた。昭和四十三年十一月四日、函館大学教授白山友正氏が、「古銭出土の戸井町を考察」という論文を発表した中に、「管江真澄が寛政元年『十七日、上風というが吹きて、空の晴れたれば、此の運上屋を出たつ。ここにおましある、観音菩薩のほとりの草の中に、まろびたる石ふみあり、いかなる人のしるししか、文字ほろびたれば知らず』と書いている、その石碑を三十二年経過した文政四年岡部館という所で、地元の村民が、再発見し、文字が摩滅しているので公儀に届け出たところ、役人が職人に申しつけて磨いて見たら、岡部六弥太の六代の孫岡部六郎左衛門季澄というところだけ、はっきりわかった」と書いていたので、若しやその石碑ではないかと考え、拓本をとって見た。

刻面の略図

 拓本をとった結果「岡部六弥太云々」という文字はなかったが、板碑らしいと考え、その道の研究者須藤隆仙に手紙で照会した。その結果「南北朝時代に造られた板碑に間違いない」という鑑定を受けた。
 もう一基のものも、堀り出して調べたところ板碑であった。板碑というのは、板状の石に梵字、仏像、経文の文字などを刻んだ、供養のための卒塔婆である。現在までに北海道で発見された板碑は函館市の称名寺に保存されている貞治の碑と、網走博物館に保存されている応永年号のある板碑と二ケのみである。戸井から発見されたものはこの二つの板碑とは全然様式の異った貴重なものである。
 この二基の板碑は刻面が、風化摩滅して年号、建立者名等を読みとることが出来ないが、関東系の古い様式の板碑であるので、戸井に和人の渡来した年代や、館の存在年代等を推定出来る貴重な文化財である。
 三基のうちの一基も、伝説の宮川の川口附近にあるものと思い、さがした結果、鰮大漁時代に〓宇美家が、海岸に築いた石垣の下に割られて積まれているのを発見した。
 これも板碑である。板碑の上部四分の一位の部分が刻面を正面にして積まれている。四つ乃至五つ位に割られたらしく、この破片と思われるものが附近に積まれている。
 三基の板碑は何れも、戸井地方にある輝石安山岩である。
大きさは、A碑高さ約一米五糎巾下が三十八糎上三十三糎。B碑は高さ約一米二十糎巾四十糎石垣に積まれたものもA、B碑と同じ位の大きさと思われる。
 この板碑について〓宇美家の子孫は、「大正六年(一九一七)〓安達家から、三号漁場を買収した頃、川尻から拾って祠の側に祀ったものである」と語っている。宮川と称した川も、ミツコの沢と称せられる川も、「〓家が買収してから川筋も川口も切り替えられたのである。この石は昔から「法華の石」と称して、信者が参詣したと伝えられている。
 割られて、石垣に積まれた板碑は、石垣を取除く時に、取出して、継ぎ合わせて大事に、保存すべきものと思う。何年後に石垣が取除かれるか予測出来ないが、このことを後世に伝えるべきであろう。とにかくこの板碑は「戸井発祥の石」として永く伝えるべきである。
 
(3) 館の伝説のある附近の入江の名(オカベトノマ)
 トイという地名の記録されている最も古い文献は、宝暦九年(一七五九)の松前エゾ聞書であり「塩首、とひ、はらき」とある。
 その後、文献で細かな地名まで記録したものは、天明元年(一七八一)の松前志で「よことまり、とひ、おかべとのま」とある。その後の古書に「オカベマ」と書かれたものがあり、天保九年(一八三八)の松前国中記に「シスン、ヲカベトマリ、トイ、ムイノトマリ」とある。
 オカベトノマからオカベマ、ヲカベトマリと変化したことがわかるが、最初の名はオカベトノマであった。下海岸の地名は殆んど、和人が渡来する以前に蝦夷が名づけたものである。
 岡部某が戸井に館を築いていた時代に、附近の蝦夷は岡郎殿と称し、附近の入江を岡部殿澗と名づけ、館が滅びた後も、オカベトノマの名が後世に伝えられたのである。
 アイヌは豪族や館主をマツマイトノ、オヤマ(小山)トノなどと称した。
 現今はオカベトノマ、オカベマ、オカベトマリの名は死滅し、伝えられていない。
 松前志と松前国中記では、オカベトノマとトイの順序が逆になっているが、オカベトノマは館のあった附近の入江につけられたものであり、トイの地名は、館のあった高台の崖に赤土が露出していたことから名づけられたものである。トイはトユイ、トヨイなどと発音された時代もあるが、アイヌ語で「土」の意である。同じ地域の海岸の入江と崖につけられた名であるので、松前志と松前国中記の何れが正しいとは言われない。厳密に言えばオカベトマリ、トイと言う国中記の順序が正しいだろう。死滅したが古書に記録されているオカベトノマの地名から、岡部某が館を築いていたことが証明されると思う。
 岡部館が滅びてから、蝦夷がここにチャシを築いていたものと思われる。館のあったと思われる場所にエゾ館と記録した古書がある。
 「戸井発祥の石」と名づけていた石が、「板碑らしい」ということに気づき、函館市の須藤隆仙氏にその調査を依頼した。須藤氏来町調査の結果「板碑である」となり、史家の注目を集めた。『新発見の板碑』と題した、須藤隆仙氏の第一回の報告書を次に載せた。
 戸井の板碑は、昭和四十六年三月五日付で北海道有形文化財に指定された。