函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第二章 戸井町の沿革

第八節 行政区画と行政の変遷

 寛政十一年(一七九九)に、幕府はロシヤの南侵に備えるため、松前領の東蝦夷地を幕府の直轄とし、道路の開削(かいさく)をし、沿岸の防備を固めることにした。
 幕府は直轄直後、松前藩のつくった場所請負制度を廃し、場所毎に宿所を設け、始めはこれを会所と称していたが後には旧運上屋だけを会所と称し、宿所を旅宿又は通行屋と称した。この時小安と戸井の運上屋はそのままの建物を会所とした。
 会所や通行屋には番人をおき、人馬や船の継立てのことを行い、急ぎの場合は早走、早馬、早船などの御用をつとめ、番人の外、蝦夷をも人足(にんそく)として使った。
 八王子千人同心隊が蝦夷地警備のために渡島したのはこの時代である。
 会所時代は寛政十一年(一七九九)から明治十一年(一八七八)に戸長役場がおかれるまでの間で、約八十年間続いたのである。東蝦夷地の六ケ場所にも和人の移住者が増加したので幕府は小安、戸井を含めた六ケ場所を「村並」とし、和人地蝦夷地の境界を山越内に移し、ここに関所を設けた。

戸井会所跡(〓谷藤家のところ)

 会所時代の村役人は嘉永時代までは頭取、小頭、百姓代などと称していたが、それ以後明治十一年に戸長役場になるまでは名主、年寄、百姓代と称した。
 会所時代の戸井の村役人を神社の棟札で調べて見ると、
 
  ○文政六年(一八二三)戸井村頭取・石田半治郎、小頭藤七、同・鎌歌与八
  ○天保二年(一八三二)八月神直日、戸井頭取(とうどり)・米松、同小頭・庄兵衛、原木、小頭・庄右衛門、鎌歌小頭・与八
  ○天保十二年(一八四一)九月四日、戸井村頭取・藤七、小頭・弁吉
  ○嘉永元年(一八四八)八月十二日、戸井村頭取・藤七、小頭・文吉、鎌歌小頭・辰五郎、百姓代・藤五郎、世話人・音松
  ○元治元年(一八六四)七月二十八日、戸井村名主・六助、年寄・文吉
  ○慶応元年(一八六五)八月、戸井村名主・六助、年寄・文吉、百姓代・忠吉
  ○慶応三年(一八六七)八月十六日、戸井村名主・助、年寄・文吉、百姓代・忠吉
  ○明治六年(一八七三)九月七日、小安名主・藤吉、年寄・源右衛門、百姓代・権八、組合頭・平内、同・久五郎、若者頭・福治郎、
 
 以上頭取、小頭時代と、名主、年寄、百姓代時代のものがある。明治時代以前の棟札が保存されているのは、宮川神社だけで、創建の古い小安八幡神社始め他の神社の棟札は明治以後のものよりないことは誠に残念なことである。記録のない町村の歴史を調べる根本資料の一つは神社の棟札である。
 明治以前の棟札には、民百姓に姓(○)を許されなかった時代であったので、頭取、名主なども名(○)だけであるが、その子孫のわかる名も若干ある。
 会所時代の村役人は、松前藩や幕府の指示、命令を受けてもろもろの村行政を司(つかさ)どっていたのである。
 慶応四年(一八六八)四月十二日に設置された箱館裁判所を、明治元年(一八六八)七月十七日に箱館府と改称し、明治二年七月八日に開拓使が設置され、九月二十六日(旧暦)蝦夷地を改めて北海道とし、十一国、八十六郡に分けた。
 戸井村と小安村は、渡島茅部郡に属した。
 開拓使庁は東京においていたが、明治二年(一八六九)九月三十日、開拓使出張所を函館においた。
 明治三年(一八七〇)十月九日、東京の開拓使庁を廃止し、函館の出張所を本庁としたが、翌明治四年(一八七一)五月、本庁を函館から札幌に移転し、函館と根室に支庁をおいた。戸井村と小安村は函館支庁の管轄になった。
 明治五年(一八七二)全道を六つに分け、札幌支庁を本庁とし、函館、根室宗谷、浦河、樺太の五支庁を設け、維新後青森県に属していた福島、津軽、尓志(にし)、檜山の四郡を開拓使の管轄とした。
 開拓使になってからも、戸井村、小安村は会所時代が続き、明治十一年(一八七八)に、戸長役場がおかれるようになってから会所が廃止された。