函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第二章 戸井町の沿革

第六節 松浦武四郎の『蝦夷日誌』(嘉永三年)

 弘化二年八月、松浦武四郎が森村を出発して砂原臼尻尾札部の村々を経て、椴法華を越え、下海岸の諸村を巡視して箱館に達した時のことを『蝦夷日誌巻の五』にくわしく書いている。この日誌から下海岸の部分を抜粋し意訳して記述する。
 この日誌はこの時代のものとしては、最もくわしい文献である。
 地名などで松浦の書き誤りか、筆写した人の誤りか若干の誤りがあるので訂正しておいた。
 
 尾札部
  川汲村から三十町余り。浜続きで平場である。人家は八十軒ばかりで小商人の家が二、三軒ある。他はすべて漁師の家である。畑は多くはないが少しづつ耕している。
 神社や制札場があり、村内に会所がある。飯田助五右衛門の宅に宿した。この家は二代程会所の役人を勤め、家も富み栄えているということで、庭に泉水や築山(つきやま)を造っているが頗るよい風景であった。この家の兄の飯田隼太(はやた)なるものは東都の岡田十松の門人で、剣法の名人だという。その後数度この人と会い、剣法の話をいろいろ聞いた。
  「寛政十二申年改」には次のように記されている。
 
  一、金百十五両  尾札部村(四月一分、九月九分)
    三十五両村割 十二両二分夷人歩役
  但し夷人歩役十二両二分のところ、文化六巳年、疱瘡(ほうそう)流行につき、夷人吉卜死に失せ候に付、願に依って翌年より八両づつ相納め候ところ、その後又々夷人死に失せ、残り夷人子どものみにて、稼方致し候者一向不足に候由、依って五両宛納め
  一、金六十両 新鱈冥加(みょうが) 其の余は豊凶
   右の外鱈釣一般に付、二人乗五束づつ前の如し。
 
  蝦夷行程記
   一、臼尻出口より    カクネシュマへ     二町五十六間
   一、カクネシュマより  冷水へ         六町十間
   一、冷水より      イタンキへ       四町二十間
   一、イタンキより    ショウシ川へ    二十二町十三間
   一、ショウシ川より   明神川及へ
   一、川汲より      ツキアゲへ       七町三十三間
   一、ツキアゲより    チョボナイ川へ     三町十間
   一、チョボナイ川より  尾札部へ        八町四十間
 是までは海岸で、道のない所は野を廻りなどして馬で行けるが、これから先へは馬は行けない。
  産物  鱈、昆布、鰊、数の子、鰮、鰤、アブラコ、ホッケ、ヒラメ、ナマコ、椎茸、カスペ、鱒、その他海草類が大いそう多い。水はよい。
 この村の会所の近くが船澗である。船澗には、五、六百石位の船が七、八艘もかかれる。
 然し、附近には暗礁が多く非常に危険なところだという。然し、山には木が繁っているため西の風にはよい船澗だという。
 
 椴法華村へ
 さて、尾札部村から船を雇って出立しようと別れを告げると、飯田家の老婆が「椴法華は恵山の下にあるので若し、山焼けなどがあれば大変なので、決して、椴法華の村にはらないように」と幾度も念を入れて言った。
 私は始めは少しおかしく思ったが、この五月(弘化二年)に恵山が焼け出して、椴法華村の子どもや老人は船で他村へ逃れたということを聞いて驚いた。ところが、翌年七月にも恵山が焼け崩れて多くの人が死に、人家が倒潰したことを後日思い合わせて、この時老婆の言ったことをおかしく思ったことは、私の血気のあやまちであると思った。
 尾札部を出発して右の方の海岸を眺望しながら崖になっている小さな岬を廻り、クロワシサキとケンニチの岬を越えた。ケンニチの岬は小さな岩岬でこのあたり一帯に木が繁っていた。ケンニチ岬からシマリウシを越えた。シマリウシは大岩が立ち重なりこの岩の上に道がついていた。ここからバンノサワを越えた。ここには坂を越えて出る道があり非常に嶮(けわ)しい道だという。バンノサワのあたりを海上から見ると奇岩怪石が重畳している。やがてヒカタドマリの沖を通った。ここには人家が一軒あり、小さな船澗がある。これはヒカタ風(南西風)によい船澗だという。ヒカタドマリを過ぎてポンキナウシにかかった。坂を下りたところに夷人の家が二軒あるという話だが、その家が船上から見えた。白い川の沖にかかった。この川は温泉まじりの小流だという。船上から見ると両岸は絶壁で奇巌が重なって山になっており、雑木が陰森(いんしん)として茂っている。ここからテカツにかかった。ここは山の縁につけられた道で、非常に難所だという。次にソイクチという一歩過つと海岸に落ちるような所を見、立岩の沖を通った。ここは奇岩怪石が立ち並んでおり、近くに小さな沢があり、滝のような急流がある。樹木が海岸を覆うように生えており、海上から見ると人の住めそうな場所ではない。やがて古部沖にさしかかった。古部までは尾札部から海上で一里、陸路で二里あり非常な難所である。海上からここを見ると、山の間のわずかな土地に人家が六、七軒建っているが人の住むべき場所とは思われない。ここから一歩も先へ行かれないという。御用状などは皆、風のない日にこの村から送るという。岩岬を廻ると大滝というあまり大きくない滝がある。バンノサワを越えてしばらく行くと屏風岩がある。この岩は高さ数十丈もあり岩面は屏風を立てたようで、岩は紫、赤、青、黄等の色を現わし、岩の岸に白浪が寄せる様は絶景である。このあたりは暗礁が多く、昆布やその他の海草が多いという。少し行くとウノドリ岩という岩がある。この岩の頂上附近は海鵜(うみう)の糞(ふん)で真白くなっている。ウノトリの集る岩というので名づけたものであろう。このあたりは南西の岬の突端なので、波浪が激しく、辛(かろ)うじて船が岬を廻った。ここまでは南東に向って船を進めるのである。
 ウノトリ岩を廻ってヒカタドマリの沖にかかった。ここまでは船を南西に向けて進めるのである。又ここの岩陰に図合船(づあいせん)のかかり澗がある。ここからは北に船を向ける。ヒカタドマリを廻ってアイドマリの沖へかかる。ここはアイの風の時にかかる入江である。ここまでは岬から岩壁続きで、仰ぎ見るような高竣な岩ばかりである。アイドマリから浜道があり矢尻浜にかかる。この浜は砂の浜で山の根まで三、四町ある。矢尻白浜に上陸して徒歩で行くのである。浜道のあたりから矢の根岩が多く出るという。しばらく行くと矢尻川という小川がある、この川は恵山の北の方から流れて来るので硫気を含み小魚一匹棲んでいない。又この沢目を上ると明礬(みょうばん)取りがいるという。又ここに夷人の住んだ跡がある。しばらく行くとスノ川という小川がある。この川はその名のように川水が酸(す)っぱい。これも恵山から流れ落ちる川である。次にシュマトマリに至る。(現今は島と書いている)ここには人家が二十余軒あり、小商人の家一軒の外はすべて漁家である。家は海岸に臨んで建ち並び、皆イタドリの茎を垣にしている。尾札部村からここまでは海上四里あるという。この村の村端れに三軒屋というところがある。昔人家が三軒あったので名づけたということだが、今は六軒ある。ここは皆小石の浜である。ここから十七町余り行ったところに宮ノ下という村がある。ここの浜はゴロダ石で、上に氏神を祀る社がある。この村には出羽の国から明礬取りに来た者が住んでいる。その人々の話では「ここからは他の国のものと比べて、最も品質のよい明礬が出る」とのことである。これは盧が肥えているからだといっていた。又蓋眼石というものも出るというが、実物を見ないので書かない。その外、丹朱砂、白石英の類も多いということである。
 
 椴法華
 シュマトマリから半里程で椴法華村に至る。浜はゴロダ石浜で歩きにくい。人家は二十余軒あり、小商人の家一軒の外は皆漁家である。少しの畑もない。制札場がある。この村には昆布並に新鱈帳面等があるものと思われるが、これを見ることができなかったので記さない。実に残念である。
  産物  鱈、昆布、鰊、数の子、アブラコ、カスペ、ヒラメ、ホッケ、鱒、鰤、硫黄、明礬、海草、ナマコ、鉛も多いという馬なし。水はよくない。
 
  蝦夷行程記
   一、尾札部より、    カケへ         四町四十間
   一、カケより、     クロワシサキへ     三町二十二間
   一、クロワシサキより、 ケンニチへ       二町四十三間
   一、ケンニチより、   シマリウシへ      十町五十二間
   一、シマリウシより、  ハンノ沢へ       六町二十四間
   一、ハンノ沢より、   ヒカタ浜へ       一町五十間
   一、ヒカタ浜より、   ポンキナウシへ     三町三十六間
   一、ポンキナウシより、 クロイワへ       二町五十一間
   一、クロイワより、   キナウシへ       七町四十二間
   一、キナウシより、   クロイワ崎へ      四町二十二間
   一、クロイワ崎より、  シロイ川へ       八町二十九間
   一、シロイ川より、   テカツへ        四町
   一、テカツより、    ソイクチへ       三町二十間
   一、ソイクチより、   立岩へ         一町
   一、立岩より、     小滝へ         五町五間
   一、小滝より、     シシハナへ       六町七間
   一、シシハナより、   フルベへ       十三町二十間
   一、フルベより、    大滝へ         二町二十間
   一、大滝より、     バンノ沢へ       二町二十間
   一、バンノ沢より、   屏風岩へ        二町五十間
   一、屏風岩より、    ウノドリ岩へ      六町三十間
   一、ウノドリ岩より、  ヒカタドマリへ     十町四十間
   一、ヒカタドマリより、 矢尻浜へ        一町十六間
   一、矢尻.浜より、   矢尻川へ       十一町四十間
   一、矢尻川より、    スノ川へ        四町二十間
   一、スノ川より、    シュマトマリへ     三町四十間
   一、シュマトマリより、 同宮ノ下へ      十七町十八間
   一、宮ノ下より、    トドホッケへ      八町
 
 さて土人のいうには「峠法華」は、近来の字で「唐法華」と書くとのことである。そのわけは日持上人がここから唐に渡ったからだという。ここに日持上人の古跡があるという。又ホッケという魚は、この村からとれ始めて、他国にはなかった魚だという。日持上人の加持祈祷によって、この地でこの魚が成仏したと言い伝えられてりる。
 椴法華から恵山に登るには、村中にある鳥居からつづら析れしてしばらく登り、嶮しい坂や岩角を攀(よ)じ登ると又鳥居がある。ここを越えて又つづら析れに登ることしばらくにして、礁石が累々(るいるい)として岩山になり、岩と岩の間にツツジの僅か一尺ばかりのものが、一面に生えている。草類は皆本邦にあるものだが、岩石に生えているので、様子が異なり、皆おもしろい形をしている。又コケという木の実がある。その葉は檍(あおき)に類し、高さ僅かに六、七寸で皆岩石を伝わって生えている。そのあたりはただこの木だけで、外の木はない。七月になると熟してその実を食うことができる。
 峠というところがある。中宮の鳥居から五町ばかりのところである。ここから北は平山で南は上宮である。硫黄のかたまった岩道の上を半町ばかり行くと西院川原(さいのかわら)に至る。各地にあるように、たくさんの石を積み上げている。ここから又上宮に行く道がある。細い鳥居を越えて登ると恵山上宮に達する。
 上宮には石の小祠がある。ここに登ると、西の方は汐首岬を越えて箱館山、木子内(きこない)浜までも一望であり、東方はエトモ岬、南方は南部尻矢岬、大畑、下風呂岬などが一々手にとるように見えた。そのそばに硫黄が燃え出て四時絶えることなく、黒煙が天にのぼり、その様は筆舌に尽し難い。
 ここから、二、三町下ると追分というところがあり、道が左右に分れている。左の道をつづら折れして浜の方へ下ると、二十五町程でイソヤに至る。右の道をしばらく行くと平野になっており、約二十町四方の広さがある。ここの山際で明礬を製している。ここからしばらく行くと湯の川(ゆのかわ)に達する。ここは湯元(ゆもと)とも言われており、笹小屋が二、三軒あり人々はここに宿して湯治をする。ここの湯は非常に熱(あつ)く、湯二分、水八分位である。この川の末が酸(す)ノ川になり、アイドマリから海に注いでいる。
 温泉の功能は、疥癬(かいせん)、切疵(きりきず)、疝気(せんき)、腰下(こしけ)、〓〓、その他腫物(はれもの)一切に効くという。然し今年の夏の山焼後はまだ小屋もなく、湯治人も一人もいなかったので、私も一度はいりたいと思ったが、はいらずに根田内に下った。
 さて焼(やけ)のことを少しここに書いておく。
 
 弘化二年の恵山の山焼
 弘化二年六月十一日夜、恵山の西方に火が燃え上り、それが半天に映(は)え輝き、山鳴りや地震などもなかったのに、火光が焰々として上り、麓のシマドマリ、椴法華、根田内の三ケ村は大騒ぎになった。
 この頃山上の湯治場に、七、八人の湯治人が上っていたが、湯小屋から五町ばかり隔った卯の方角が、夜ハツ時ごろに燃え出したので、湯治人は驚ろきあわてて早々に逃げ下り、村役人にこのことを知らせた。村継ぎ村継ぎして知らせて来た。
 私どもは直ちに下役二人を召し連れ急いで恵山にかけつけ、十三日の九ツ過ぎに到着した。湯治場まで登って見ると、人足が二百人ばかりで湯水をかけていたが、凸凹たる焼石山の上でしかも嶮岨なので、水の運送に困難していた。この状態を見て、硫黄の多い上宮の方向へ延焼したら手がつけられないだろう、北方へ延焼すれば赤土なので消口(けしぐち)になるだろう、然し東方へ延焼して山の方へ焼え広がったらどうなるだろうなどと考えていた。とにかく手の施しようのない状態であった。
 ところが十五日の朝から雲行が悪くなり、東風が激しく吹いて来て雨をつけた。その雨が次第に大雨になり、九ツ前には車軸(しゃじく)を流すような豪雨になった。この豪雨のためさしもの山焼けも納った。
 さてこの時の火は地底から燃え出した火ではなく、表面にある硫黄に火が燃えついたものなので、地鳴や山震などがなかったのだという。
 これは島(シュマドマリ)にいた秋田生れの徳右衛門が語ったことだが、大体恵山の硫黄は深さ三尺から四尺のところにあり、深いところで八尺位のところにあるというので、徳右衛門の言う通りだと思われる。
 この山焼けで椴法華、根田内、シュマドマリ村の昆布稼の者は皆船で逃げ去った。時節柄とはいいながら、大いに漁猟の妨げになることである。下略
  月  日    何 某
 この書状は私が東部蝦夷地にいた頃、親しくしていた人から知らせて来たものなので、当時の実状を知らせるためにここに載せたのである。この度ここを通り、その焼跡を見ると巾が約十七、八間、長さ二十四、五間の間が焼けて凹地になっていた。
 
 恵山のツツジのこと
 この山にエソツツジというツツジがある。その丈は二尺から三尺位で、山の北西の方にある。南東の方にあるものは丈低く、花をつけているものは皆サツキの類である。この向いにあるものは白、薄紫、赤色の多いツツジでその花は皆下向きに垂れている。これは多分肥前の国島原、温泉ケ岳のヨウラクツツジと思われる。その名はヨウラクのように美しく垂れるので名づけたものか。この山のエソツツジという名はどういうわけで名づけたものだろうか。一般に高山にはツツジが多いものである。薩摩の霧島山、阿波の剣山等にはサツキが多い。ここから北へ五、六丁程行くと、周囲六、七寸のツツジの木もあるという。五寸位のツツジは箱館で見た。ツツジの木は拍子木によいといって使う。
 さて恵山を越えて、四、五町もだらだら坂を下ると小川がある。この小川を越えてしばらく行くと絶壁がある。ここの道をつづら折れして下ると、数百尋の断崖があり、この崖は砂層の断崖である。道の西側は赤はげになっていて、恐ろしいところには桟道をかけてここに通じている。しばらく下ると左方の溪谷(けいこく)に雑木が繁茂している。少し道もおだやかになり、下って行くと広い野原に出た。野道に出ると間もなく鳥居があり、そこを下ると根田内村の中程のところに出た。
 
  蝦夷行程記
   一、椴法華より、    峠下へ           三町
   一、峠下より、     峠上追分へ         五町(これよりイソヤへ二十三町)
   一、追分より、     湯泉川(ゆのかわ)へ   二十町
   一、湯泉川(ゆのかわ)より、    エサン下へ 二十七町
   一、エサン下より、   ネタナイへ         七町
 
 船でこの海岸を来る時は、椴法華村を船出して二、三町過ぎるとヒカタトマリがある。この岬を廻るとミズナシ浜である。ここは狭い砂浜で、水が無いので名づけられたものと思う。ここには昆布取小屋があり人家も二、三軒ある。村の西側には怪岩の重畳した絶壁がある。ここはフノリ、ノリ、トロロが多いという。ここの岩角を廻るとカジカゾリがある。この浜は恵山の南東に当っている。岩磯が平坦でカジカが多くとれるので名づけられたものであろう。二、三十間沖合にトド岩という岩がある。トドがこの岩にたくさん寄るという。この岩は根田内と尾札部の村境だという。トド岩を越えると赤ハゲ岬がある。この岬は恵山第一の岬で、波荒く小舟で越えるのは危険である。
 岩崖伝いにしばらく行くと礒屋(いそや)村に達する。ここには浜が少しある。石は皆礁石ばかりである。ここは恵山の南の直下にある。人家は十二、三軒ですべて漁家である。ここから恵山の峠はつづら折れの大難所だが道路があるという。昆布取小屋もあり、ここから根田内へは海岸の岩角道があるという。ここは雨が降り続く時は、時々岩が崩れて怪我(けが)人が出るという。前に図合船(つあいせん)がかりの澗がある。村内に清水の出るところが一ケ所ある。この一滴一滴の水でようやく村内の人々が生を全うしている。小川があり、この小川を越えると温泉下に至る。ここの少し上に温泉があり湯小屋が一軒ある。この湯は疝気によく効くという。少し行くと小滝がある。山岸にかかっている小さな滝だが、恵山の硫気があってくさい。サブナイの岬の海中に七ッ岩という岩がある。同じような岩が七つ並んでいる。
 (これは松浦竹四郎が丙午の崩跡を見るため、下未の五月に船で椴法華から根田内へ越えた時の紀行文である)
 
 根田内村
 七ッ石の東端を廻って根田内村の東端に上陸した。土人のいうには椴法華から海上五十町、山越六十町とのことである。
 ここには人家が四十軒あり、小商人の家が四、五軒あるが酒、米、紙、煙草、ワラジだけを売っている店である。村のうちは皆焼石で、浜は小石又はゴロダ石である。村内に酸(す)川という小川がある。恵山の湯元から流れ落ちる川で魚類は一匹も棲んでいない。その水は硫黄の気が多くてかたい(・・・)。ここに庵寺がある。村の上に氏神の社と制札場がある。
 産物は椴法華と同じなので記さない。又昆布、鱈の運上もその帳面を見ることができなかったので書かない。
 
  蝦夷行程記
   一、椴法華より、    ミズナシへ      十三町余
   一、ミズナシより、   カジカゾリへ      二町
   一、カジカソリより、  トド岩へ        二町
   一、トド岩より、    赤ハゲへ      凡そ二町
   一、赤ハゲより、    イソヤへ        四町四十間
   一、イソヤより、    温泉下(ゆのした)へ  四町十間
   一、ユノ下より、    サブナイへ       五町二十間
   一、サブナイより、   根田内入口へ      十町四十間
   一、ネタナイ入口より、 ネタナイ出口へ     十町人家三十五軒
 
 又一本に箱館より根田内まで八里十二町とあるものがある。
 この村は去る丙午七月晦日夕七ツ頃から大雨で崖崩れがあり、死亡者や倒潰家屋があったことを友人たちが、くわしく書き取ってくれたものを記しておいたものである。
 弘化三年七月晦日夕七ツ過ぎに雨が降り出し、風がなくて大雨が車軸を流すように少しの暇もなく降り続いた。夜九ツ頃になって山や谷が鳴動して地震の様に思われた。家にいても居心地が悪く、皆みの笠をつけて外に出てどうしようと狼狽(ろうばい)していると、間もなく夜ハツ半頃になると、崖が崩壊して家が潰れ、怪我人死亡者がたくさん出た。右の届書は右三ケ村ともに同じような事なので略し、人数だけを記す。
 
 古武井村 死亡者十三人
  総家数二十三軒のうち倒壊九軒、半壊一軒。漁船は二十九艘。近在から昆布取に来た丸小屋二十三軒が倒壊した。
 根田内村(サフナイ、湯の下、礒谷(いそや))死亡者十五人 怪我人十二人
  総家数四十三軒のうち、全壊九軒、半壊一軒 漁船大般
 椴法華村(水無浜、中浜、島)死亡者二十五人 怪我人二十四人
  総家数四十一軒のうち、全壊三十軒、半壊七軒 船数十三艘
 尚この外、潰れ家、潰れ船、昆布取丸小屋多数のよしだが、追って報告次第申し上げる。
 
 さてこの度の変事は、椴法華から島、根田内、古武井と恵山を中心にして二里余りも隔っているのに、同じ時刻に崩壊したことは実に不思議なことである。椴法華から根田内までは裏山が屏風のように切立っているが、古武井、島はこういう場所ではない。特にサフナイ、湯の下の二ケ所は崩壊した土砂が二十間も海中に突出した。平生住居するところは地理を十分考えなければならないと思う。
 なおその節、昆布漁のことや運上金取立てのことで出張していた役人の白鳥孫三郎という人が、椴法華村に止宿していて、潰(つぶ)れた家の梁(はり)に打たれて死亡したという知らせがあったが、それは不確実なようで、白鳥はまだ死なないという噂もある。医師が二人即刻出発した。
 その翌春箱館に来て白鳥某のことを聞くと、その時は全快したそうだが、春になってから死去したとのことである。
 根田内からは砂浜で、左の方は二町ばかりづつ広野があって、その上の方は木立原である。浜には昆布小屋が多い。マル石というところがある。丸い石がたくさんあるので、このように名づけたものであろう。
 土人の語るところによるとシュマトマリ、椴法華辺からこのあたりまでは鰤(ぶり)が多い海だという。秋の中程から冬の中程まで鰤網をかけ、新鱈の時期にやめるという。
 この村でシャチという魚を大そう尊敬し、エビス様といっている。そのわけはこの魚が鰤を大洋から岸に追い寄せるためだろうか。鰮の多い浜で鯨をエビス様というのと同じであろう。然し隣村ではこのシャチを皆捕るのである。海辺の人情というものは実におかしなものである。その魚は九州ではタカマツというものである。マル石を越えてヤマセドマリに至る。ヤマセ風によい入江なのでこのようにいうのである。ここにも昆布小屋がある。
 
 古武井
 人家がヤマセドマリから部落続きになっている。人家は五十軒もあるとのことである。小商人の家二軒、他は漁家だけである。村内に庵寺、氏神社、制札場がある。又近くに小川がある。産物は前と同じなので記さない。
 
  蝦夷行程記
   一、根田内村から、   コブイ入口まで    十二町五十間
   一、古武井村分                 八町四十間
 
 古武井村を出てオタ浜を通る。ここは砂浜で道がよい。ここを越えてヨリキウタに達する。流れ木の寄って来る浜の意味で、寄木ウタである。ここからメノコナイに越える。ここは平磯である。昆布取小屋がある。この辺から箱館までの間でとれる昆布は、みな砂浜に干(ほ)すので砂が多くて品質が下る。ここから少し坂になっており、ここを越えるとイキシナイに出る。ここには小川があり平磯である。ここを越えるとサッカイオタに達する。ここには小さい沢があり、昆布小屋がある。この上に蝦夷の大王が昔住んでいたという館跡があるということを聞いた。そこから今でも古器物を堀出すことがあるという。
 
 尻岸内
 サッカイオタから浜つづきになっており、やがて尻岸内村に至る。ここは古武井村から一里あるという。人家は十余軒、村内に小川がある。小商人の家一軒、他は皆漁家である。
 上に畑が少しあり村内に氏神社、制札場、会所がある。
  産物  鱈、鰮、鰊、数の子、昆布、アブラコ、ホッケ、カスペ、ムイ、その他海草類が多い。水はよい。
 
  蝦夷行程記
   一、 コブイより、   オタハマへ      十六町五十間
   一、オタハマより、   黒岩崎へ        七町二十間
   一、黒岩崎より、    ヨリキウタへ      七町
   一、ヨリキウタより、  メイコナイへ      四町四十間
   一、メノコナイより、  同峠へ         二町三十一間
   一、峠より、      イキシナイ川へ     三町三十間
   一、イキシナイ川より、 サッカイオタへ     十町四十一間
   一、サッカイオタより、 尻岸内へ        九町五十一間
 
尻岸内村の村端れに左右の追分がある。ここから左が浜道で、汐の干る時には浜道を行くことができる。汐が満つると峠の道を行くのである。海岸は道程もかなり近く、途中に千畳敷という広い場所もあり、非常に風景のよいところである。私はこの海岸を乙巳の秋に通り、峠を丁未の五月に通ったことがある。然し峠の方は樹木が繁茂していて道も甚だよくない。然し馬で往来する人は必ず峠を通らなければならないので、二つの道があるのである。重畳たる怪岩続きの浜を通って立岩というところに至る。ここは岩面五十余丈の断崖絶壁が、幅およそ四町に亘って続き、岩面は屏風のように平面である。この下には千畳敷という平磯で、汐満つる時は一面に水となり、汐干る時は平岩磯になるのでムイ、昆布、フノリ、ヒジキ、ノリなどが多い。眼をあげて仰げば百尋の絶壁、後をふり返ると数万里の大洋、この絶景は筆舌の及ぶところではない。又少し行ってゴロダ石の多いところに出ると、小石をたくさん積んで、西院川原(さいのかわら)ともいうべきところがある。これは往来の人々が皆この絶景をめでて杖をとどめる間になす業であろう。ここからしばらく行くとコウタというところがある。ここの岩の上には樹木が茂っている。ついでカラスガウタに至る。ここは砂浜が少しある。昆布小屋が二、三軒あり、小川がある。ここを越えてしばらく行くと上下に道がある。小さな坂を越えると日浦村に至る。古武井村境から日浦村の入口まで一里二十町三十七間三尺ある。
 又山越道を行くには、尻岸内村から右の方へ上り、少しの坂を上って広野に出、しばらく行くと木立原があり峠に達する。ここからだらだら下りに下ると、日浦村に至る。
 土人が言うには山道一里、海岸半里とのことである。
 
 日浦村
 ここには人家が七、八軒あり、昆布小屋あり、村内に小川がある。小商人の家一軒。皆漁家であるが、漁仕事の暇には皆山稼ぎをしている。川端に薪をたくさん切出している。山の上に畑がある。冬分(ふゆぶん)は村の者が皆山にはいって冬木を切る。浜辺に冬木を山のように積んでいる。
 
  蝦夷行程記
   一、尻岸内村より、   日浦峠へ       十三町二十間
   一、峠より、      日浦村へ        七町三十間(峠道)
   一、尻岸内村より、   立岩へ         三町四十間
   一、立岩より、     カラスガウタヘ     八町十二間
   一、カラスガウタより、 ヒウラヘ        六町四十三間(海岸道)
 
 日浦村から小川を越えて浜道を少し行くと砂浜である。ここを越えてつづら折れの山道を上る。大そう難所である。峠に達しここから木立原をしばらく行き、下って峠下に至る。この峠の上は尻岸村と原木村の村境である。浜道をしばらく行くと、この間の海岸は波が岩石を打ちつけて道がない。この下は鰊の群来(くき)るところだと聞いている。この坂の上は尾札部境から九里二十七町十八間あるという。
 
 原木村
 人家が六、七軒ある。昔は僅か二軒よりなかったという。小川があり、昆布小屋がある。この辺の昆布は巾広く丈が長い。花折りにするのであろう。ウタハマには人家が一、二軒あり小さい砂浜である。中ウタには人家が少しづつあり、小川があり、山が近くて樹木がない。中ウタを越えてカマウタに至る。ここはゴロダ石の浜で、人家が十二、三軒ある。小商人の家が一軒あり、皆昆布をとっている。漁家だけである。村端(むらはし)から又坂を上り、つづら折れの道をしばらく上って行くと樹木が多い。ここを過ぎて行くと草原がある、坂を下るとクマベツという小川の傍に出る。小さな沢で昆布小屋などが左右にある。ここを過ぎて戸井村に至る。
 ここを船で通ると数十丈の絶壁があり、風景が非常によいと聞いている。ここの海岸の地名を記すと次のようになる
 
  蝦夷行程記
   一、カマウタより、   ハッコ澗へ         四十間
   一、ハッコ澗より、   ムイ島へ        三町
   一、ムイ島より、    鷹(たか)の巣へ    二町十間
   一、鷹の巣より、    コブタヘ        三町二十間
   一、コブタより、    クマベツヘ       三町
 
 このムイ島というのは多分ムイ崎の誤りと思う。今は皆ムイ崎といっている。土人が言うには、この崎の西にはアワビが多く、ここから東にはムイが多いという。昔この崎でアワビとムイとが合戦をしたといい伝えている。あまりには愚かなことだが、そこを境にしてムイとアワビの棲まないのは不思議である。
 
 戸井村
 原木村から二十町という。人家二十余軒、小商人の家二軒あり、この外は皆漁家である。畑が少しあり、漁時の暇に耕作をし、そのかたわら山稼ぎをするという。村内に小川がある。氏神社、庵寺、制札場があり、会所もある。
 
 寛政十二申年改
  一、金四十五両、戸井村八月納八分、十一月納二分
    但し三十五両村割 十両豊凶
 
  産物  昆布、鰊、数の子、鱈、アブラコ、ホッケ、カスペ、海草、薪、野菜もの、鉄砂多し、又近年炭を多く焼き出すという。水はよい。
 
 戸井村から少し行くと館鼻というところがある。ここは小さな岬で、この岬を廻ると横に至る。ここは又ヨコマともいう。人家が一、二軒あり、昆布小屋がある。又この上に古城跡というものがある。何人(なにびと)が住んだものだろうか。この先の川尻沢は平磯で川がある。海岸から少し上に橋がある。ここは冬に薪をたくさん出すところで畑も少しある。この川の傍に戸井村と小安村の境の杭(くい)がある。東根田内村より三里二十町と記している。ここを又弁才澗(べんざいま)ともいう。ここを越えて斉藤澗に至る。ここは平磯で小川が上にある。図合船がかりによい澗である。人家が二軒ある。その先に水無(みずなし)浜がある。ここも平磯で昆布小屋があり、ここを越えると砂浜が続き新三(しんぞう)ウタに至る。ここも砂浜でこの先にヨモギナイがある。ここには人家が七、八軒あり砂浜である。ここから左右に道があり、下の方は浜通り、上の方は野通りで、上道を行くと台場がある。
 台場はヨモギナイから坂を上ってしばらく行くとあり遠見の番所がある。徒士一人、足軽一人出張、三百目筒一挺、百匁筒一挺、三匁五分筒二挺を備えている。この崎は南方に最も突き出ている。南部の蛇浦(へびうら)と相対している。(「註」汐首岬の突端に台場があったという古老の伝えは誤りである)
 さてヨモギナイから浜通りを行くと、浜が続いて所々に人家がある。セタライは左が海でゴロダ浜である。右は岩崖で人家がある。ここを越えてヒヤミズに至ると山際から清水が流れ出ている。ヒヤミズという名はこの清水によって名づけたものであろう。やがて立石というところに至る。ここを地獄穴(じごくあな)ともいう。また近来は地蔵穴ともいう。ここは奇岩怪石が立ち重っている。やがて石子浜(いしこはま)にかかる。ここを西院(さい)の川原といっている。ゴロダ石をたくさん積み重ねている。ここを越えてタチマチに至る。ここに高さ三丈、巾二、三尺の滝がある。樹木の間から落ちる光景は見事である。ここから少し上に登れば御台場に至る。下道を行って汐首岬に達する。
 
 汐首岬
 ここを廻ると人家が十四、五軒ある。皆漁家である。異国(いこく)船が渡来する時は、この村から諸方へ知らせを出すのである。ここを越えて釜谷に至る。人家が二軒あり、陸通りもここへ下るのである。小川がありこれをウンカ川という。この川を渡る。雨で大水が出た時は上を廻って小安村に達する。
 
  蝦夷行程記
   一、戸井より      館鼻(たてはな)へ   一町十間
   一、館鼻より、     横澗へ         二町四十間
   一、横澗より、     ベンザイ澗へ      六町二十間
   一、ベンザイ澗より、  サイトウマへ      二町二十三間
   一、サイトウマより、  水ナシへ        三町
   一、シンゾウウタより、 ヨモギナイ       七町十間
   一、ヨモギナイより、  瀬田来へ     家続き二町
   一、瀬田来より、    ヒヤミズへ       三町三十間
   一、ヒヤミズより、   立石へ         三町
   一、立石より、     石子積へ        二町五十間
   一、石子積より、    タチマチへ       二町
   一、タチマチより、   瀬口(せぐち)へ    八町五十間
   一、瀬口より、     汐首へ           四十間
   一、汐首より、     釜谷へ       二十一町四十間
   一、釜谷より、     サイトウ川へ      七町
   一、サイトウ川より、  小安村へ        四町二十五間
 
 小安
 釜谷からサイトウ川を経て小安村に至る。ここには人家が三十軒あり、小商人の家が二軒あり、他は皆漁家である。ここにはハタゴ屋もある。村内に小川がある。十三ケ所のうちであるという。氏神社、庵寺があり、浦高札もある。福山城下大川からここまで二十九里ある。
 
 寛政十二申年改帳
  一、金七十両、小安村八月納七分、十一月納三分、
  但し内六十両村割、十両豊凶
  産物  昆布、鰊、数の子、鱈、鰮、アブラコ、ホッケ、ヒラメ、カスペ、その外海草が多い。この辺からの昆布は皆、折りにする。シノリ村と同じである。薪は少い。
 
 小安村を過ぎてヤギノマに至る。小川があり砂浜である。ここは石崎村との村境である。戸井境からここまで二十二町二十六間とある。鉄砂が多い。ここを越えると浜続きになっておりヤゲマキに至る。ここまでヤギノマから砂浜が続いている。このあたりは山が近いが樹木がない。ここを越えて石崎村に至る。
 
 石崎
 人家が五十余軒あり、小商人の家が二、三軒ある。外は漁家だけである。この村の昆布は皆長崎屋に納める。この昆布は御物(献上昆布)になるという。他への売買をきびしく禁じている。庵寺があり、氏神社もあり、高札場もある。村内に小川がある。
 この村の庵寺は法華宗で、日蓮上人の弟子日持上人という者が、ここに渡海し漁者を教化したと寺の縁起(えんぎ)等にいい伝えている。あまりの妄説(もうせつ)であったので、耳にも留めなかったが、勝左卿の『福山竹枝詞』にもこのことが書かれているので、思い出してここに書いておくものである。この『竹枝詞』の中にホッケのことを黄銅魚と書いているが、どんなものであろうか。このことは物産志に書いているので記さない。
  産物  小安村と同じなので略した。
 
 さて村内にある小川をウンカガワといっていることを聞いたが、『庭訓(ていきん)往来』に「宇賀の昆布」と書いているものの外にウカという地名はない。おそらくこのあたりを指したものであろう。その味はともかくとし、昆布の大きなことは、この村からシノリ辺の昆布以上のものはない。その巾は一尺から一尺五寸もあり、長さは二間から三間のものまであるという。昔高田屋が繁昌した頃は、昆布の幟(のぼり)を立てたといういい伝えも聞いたが、もっともなことだと思われる。
 それから宇賀の字が出たものか、箱館高竜寺の鏡の銘に「宇賀の浦高竜寺」と刻まれている。これは多分その場所をきめて、物好きの者が奇を好んで書いたものと思われるが、甚だもって愚かな事だと思う。後日になって「宇賀の村名」の村でも、はっきり知れた時には、その村に宇賀という村名を奪(うば)われても致し方のないことだろう。
 蝦夷草紙に「このあたり白い浜という所に硯石が出る」と書かれているが、場所はどこか私にもわからない。
 石崎村から山道を銭亀沢村に至るには峠まで八町二十間あり、そこから村の入口まで二十七町ある。川があり、巾が十間あるという。
 浜道を行くと宮の沢へ出る。ここは小さな沢で、広いゴロダ浜である。昆布小屋が多い。ここを越えると沢口に至る。ここの銭亀沢村境に杭(くい)がある。杭には東小安村境より二十三町二十六間と書いている。ここを越えると古川尻村である。ここには人家が二十二、三軒小商人の家が一軒あり、外は皆漁家である。川があり橋もあって小さな舟澗になっている。この沢は奥が深い。この沢のことは連理木のところで書くのでここでは略す。さてこの川を越えるとミオドマリに至る。ここに細い川があり沢もある。又小さな岬を越えると人家が二、三軒ある。この岬を廻るとミナトに至る。ここには人家が二、三軒あり昆布取小屋がある。海岸は皆磯砂である。この奥をメナの沢という。次にセバマという小さな岩岬のところがある細い川があり、この川を越えると大きな黒い岩がある。この岩の岬を黒岩岬という。巡見使はここまで来て駕を帰すのである。これより奥へ行くにはこの黒岩が第一番目の険路である。そこで「ここからは馬は通れない」といって、巡見使をここから帰したのが今でも例になっているものと思われる。黒岩はその高さ二丈ばかりもあり、海岸に突き出ており、その廻りに桟道を架け、ここを廻って行くのである。ここを越えて五、六十間ばかりで銭亀沢村の入口に達する。城下大川からここまで二十六里二十五町十八間ある。
 
  蝦夷行程記
   一、小安より、     ヤギノマへ       八町五十間
   一、ヤギノマより、   ヤゲマキへ       十町五十間
   一、ヤゲマキより、   石崎へ        十四町五十六間   ここから銭亀沢へ出る馬道がある。
   一、石崎より、     鳥子澗へ        五町十間
   一、鳥子澗より、    沢口へ         三町
   一、沢口より、     古川尻へ        六町
   一、古川尻より、    汐へ         九町三十八間
   一、汐より、     ミナトへ        二町二十八間
   一、ミナトより、    黒岩へ         九町四十間
   一、黒岩より、     セバ澗へ        二町五十間
   一、セバ澗より、    銭亀沢へ        一町  (この間人家続きである。)
 
 銭亀沢村
 人家が三十余軒、小商人の家が二、三軒あり外は漁家だけである。村内に氏神社があり小川がある。後は平山だが樹木はない。村の下は砂浜で鉄砂が多い。浦高札があり、会所がある。ここには長崎役人が出張するという。巡見使もここで昼支度をするという。
  産物  昆布、鰮、鰊、数の子、ナマコ、アワビ、ホッケ、アブラコ、フノリ、ノリ、カスペ、その外雑魚が多い。馬があり、畑ものがよくできる。
      昆布、総水揚高は一ヶ年二千石の見積りである。
 
 銭亀沢村の中程から上に、草深い細道がありこのあたりは平山で樹木がない。ここからおよそ十二、三町で石倉稲荷社に至る。このあたりも樹木のない所だが、このお宮の側には木が少し生えていた。宮地というところは、巨岩がたくさん山の端に重畳して奇景をなしている。巨岩の上に小さな祠がある。拝殿が美々しく建っている。その傍に籠堂(こもりどう)がある。心願の人がここに籠るのである。又後の方の巨岩をたたみ重ねた下に大きな空洞がある。ここに白狐が住んでいると伝えられている。その岩洞は入口の高さがおよそ六、七丈もあるだろう。実に珍らしい岩窟である。ここから二、三町沢に下り、更に一、二町上ると連理木がある。この木のある沢をメナの沢という。この川は古川尻に落ちる。ここにおよそ七抱もあると思われる七葉樹(トチノキ)の連理している木がある。二本のうち一本はおよそ五抱ばかりと思われる。このあたりの山には七葉樹が多いが、このように連理している木は珍らしいので、近在の者は皆見物に行くのである。その枝が四方に垂れている様は前に図した通りである。又この木の名をめでて、縁結びなどを願う人もあるのであろう。側に棚をつくってこれに「願成就」の幟(のぼり)などがたくさん建っている。一方の木の根に大きな朽ち洞がある。ここに蛇が多く棲んでいる。どういうわけかと思ったが、高山や巨木には蛇の棲んでいる木がまま(・・)あるものである。私がここを訪れたのは乙酉の五月であったが、この連理木の繁茂している様は、筆舌に尽したがい。
 この沢をメナの沢というのは、何によるのであろう。多分夷言だと思う。西部乙部村ににも海岸から一里ばかりの陸にメナという村があり、又西部上の国にも山の方にメナという村がある。その名はどういう由来なのであろろう。この奥に舟木という所がある。ここに人家が七、八軒あるという。皆畑作りばかりで漁時には海岸に出るのである。又その奥に丸山という所がある。形が丸いのでその名にしたものと思われる。この川の両側の広野や畑になったところを皆田地にしたら、およそ二万石の土地があるだろうと思われる。土地が肥沃で野菜がよく繁茂している。
 銭亀沢村を過ぎて、小石浜の続いているところを行くと、人家が続いている。昆布取ごろは大そうにぎやかである。小石浜を過ぎて摺鉢(すりばち)石に至る。ここは銭亀沢とシノリの村境である。沢口境の杭(くい)から三十四町五十八間である。ここは鉄砂が多い。ここを過ぎてシノリ村に至る。
 
 志苔(しのり)村
 人家五十余軒、小商人の家がある。外は皆漁家である。このあたりは昆布漁を第一としている。山はあるが近くには樹木がなく、村人はみなメナの沢に行って木を切り出すのである。村内に氏神社、制札場がある。小川があり、この村の上に小林氏の古城跡というものがある。いささかの城あとである。然し土人はここを堀ったり、草を苅ったりするとたたりがあるといって、そのような事をせず尊崇している。
 ここを去ってセト川に至る。ここは湯の川村との境である。摺鉢石からここまで、八町十三間あり、昆布小屋が多い。又鰮漁もよい。浜は鉄砂浜である。ここを過ぎてオフンサキという岬に至る。ここには鰮小屋がある。ここからネサキを過ぎ、ヨクラマイに至る。ここから上湯の川村への道がある。ここを越えてヤムカイに至る。ここは平磯で浜には鉄砂が多い。ここから下湯の川への道があり、ここから左右に分れるのである。然し汐が満つる時は上をまわる方がよい。
 
  蝦夷行程記
   一、銭亀沢村より、   摺鉢石へ        七町
   一、摺鉢石より、    志苔村へ        二町 (村続きである)
   一、人家四十六軒    これより上湯の川村へ  二十九町
   一、上湯の川村より、  川へ         七町
   一、川より、     下湯の川村へ      十三町
   一、下湯の川村より、  下湯の川尻へ      十六町余 (この通りは馬道である)
 
 (附)日浦村の孝女レン
弘化二年(一八四五)八月、松浦武四郎が日浦村を通った時に、箱館奉行羽太正養(はぶとまさやす)の著『休明光記巻之五』に採録されている「日浦村の孝女レン」のことについて、『蝦夷日誌巻之五』に記録している。
 この話は、日浦村の嫁レンが、若くして夫に死別し三児を抱えながら、病気の舅(しゅうと)に孝養を尽し一家の生計を立てていた篤行が、時の箱館奉行羽太正養に報告され、奉行が実地調査の結果レン女の孝養に感銘し、幕府に上申し、文化二年(一八〇五)七月、将軍から褒美(ほうび)を賜わったという事蹟で、羽太正養自ら『休明光記』に記録したものである。
 この事蹟は、松浦武四郎が日浦を訪れた弘化二年より四十年も遡る昔のことであるが、松浦は孝道地におちた当時の世情を憂え且つ歎き、日浦村の紀行文の後に挿入(そうにゅう)したのである。『休明光記』の記録を意訳すると。
 
  「寛政、文化の昔、亀田郡尻岸内町字日浦(当時は日浦村と称した)に、清十郎という漁師が住んでいた。この頃の日浦村は海岸線の東西を峻険な絶壁に夾まれた僻村で、人家が七、八軒あり、そのうち小さな商店が一軒あり、他はすべて漁家で昆布その他の魚介を漁して生計を立てている貧しい村であった。
  清十郎の妻は年若くしてこの世を去り、長男伊之助が青年になり、石崎村(現函館市石崎町)の漁師長四郎の娘レンを娶った。レンは伊之助に嫁(とつ)いで、次々と三人の男子を生んだが、不幸にして宝暦十一年生れの伊之助が寛政十一年(一七九九)三十九才の若さで病死した。
  この時明和三年生れのレンは三十四才で、いとけない子ども三人を残され、加えて享保七年生れの舅清十郎は七十七才で、数年前から中風にかかり歩行もできないという状態であった。
  レンは三人の子と年老いた病気の舅を抱え一時は途方にくれたが、けなげにも気を取り直し舅に少しも暗い顔を見せず、老舅の介抱と三人の子どもの養育に精を出したのである。
  伊之助の生前でさえ、一家の生計は楽ではなかったのに、柱と頼む伊之助に死なれた一家の貧窮は、レン一人が艱難辛苦(かんなんしんく)して働いても日に三度の食事すら容易でないという状態であった。
  石崎のレンの父長四郎は既に死去し、現在はレンの兄が長四郎を襲名して後を継いでいるが、実家も貧しく、ようやくその日その日を送るという状態であったので、実家の援助を受けることも不可能であった。
  夫伊之助に死なれたレンは当時三十四才という若さであったので、村の人々が『後添えの夫を迎えて、現在の苦しみを逃れたらいいだろう』と挙(こぞ)ってすすめると、レンは『私は既に子どもが三人もあるので、今さら別の夫を迎えて操を破ろうとは思わない。別な夫を迎えても、若しその男への仕(つか)え方がよくない場合、男が妻を離別することは簡単だろうが、女の方から夫を離別することはできないだろう。そのようになれば亡き夫に対しては不貞の女となり、舅に対しては不孝この上もないことになる。御親切は有難いが、どんな苦労があろうとも、亡き夫への操(みさお)を守り、三人の子を育て上げ病父に対して孝養を尽したいので、別な夫を迎えることだけは勘弁して下さい』といって、村人が何といってもそのすすめに従わなかったのである。
  日浦というところは、この海岸でも特に辺鄙(へんぴ)な寒村で、田はもちろんなく、少しばかりの畑があるだけで、村人は皆漁業をもって生活していた。波の荒い磯辺なので女では漁ができず、レンは海岸に打ち寄せられる昆布を拾ったり、磯辺からノリやフノリをとってこれを売って金に替えたり、食の糧(かて)にしたりした。又春は裏山に生えるフキ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜を採って売ったりして、その金で米やその他の穀物を買い求めた。薪は海岸へ流れ寄る流木を拾い集めて干しておくなどして、かろうじてその日その日を送っていた。こういう苦労を重ねながらも老いた舅へは少しもその苦しみを見せず、一家は至ってむつまじく、嫁と舅には見えず、実の親子よりも打ちとけて隔(へだ)てなく見えた。
  レンは老人の心に少しも違わず、親切に介抱しながら三人の幼ない子を育てる有様は、昼夜の区別のない位の苦斗の連続であった。
  舅清十郎もレンの孝養に満足し、近所隣の人々に会う毎に「自分はどのような果報か知らないが、こんな心の美しくやさしい嫁をとり、年老いて中風にかかっても少しも心配なく毎日を送っているが、ほんとうに有難いことだ。これはひとえにレンのお陰である」と喜び、口をきわめて嫁をほめていた。
  こうして近村にもレンの至孝、篤行が評判になり嫁の鑑(かがみ)とされるようになった。村の人々は清十郎一家の困窮を見るに見かね、食糧や衣服などを少しづつ出し合って清十郎一家を助けていたが、伊之助が死去してから七年もたつ頃は、貧しい村なので、それも叶わない状態になっていた。
  こういう状態を見た日浦の村長(むらおさ)が文化二年に、場所掛(ばしょがか)りの小川喜兵衛にこのことを訴え出た。小川は早速箱館奉行にこのことを上申した。この時の箱館奉行羽太正養であった。上申を受けた羽太正養は改ねて調査させて見ると場所掛りの上申通りであった。
  羽太正養もレン女の至孝にはいたく感動した。この時男清十郎は八十三才の老令で、レンは四十才であった。羽太正養はレンの孝養と一家の窮乏の有様をくわしく書き記し、この年羽太が任満ちて江戸へ帰ってから、即ち文化二年六月二十九日に、下野守忠裕に書を呈し、『レンに御褒美を』と願い出た。
  同年七月十九日、羽太の願いが聞き届けられ『レンに対して褒美として白銀七枚、清十郎への孝養の扶持として生涯一人扶持を賜わる旨』の達しが箱館奉行に届いた。
  この時の箱館奉行は戸川安倫であった。箱館奉行から清十郎とレンに台命の旨が伝えられ、褒美受領のため清十郎共々奉行所に出頭するようにという達しがあった。清十郎は病気のため出頭できず代理の者とレンが箱館奉行所に出頭した。
  箱館奉行戸川安倫は直々(じきじき)に台命の旨を伝え、レンに対しては、その孝養をほめたたえ、懇篤なねぎらいのことばがあり、今後も一層孝養を励むようにということばがあった。その後台命による賜わり物の白銀七枚と米穀を下賜され、感激して帰村したのである。
  帰村した代理の者が、清十郎に対してその顛末(てんまつ)を伝えると、清十郎は感激の涙にむせび、しばらくの間人心地(ひとここち)もない位に泣き続けたという。
 清十郎とレンは『このような有難い御恵みを賜わったのは皆様のお陰である』と、白銀と米穀を近所隣へ少しづつ配り、お上の恵みの有難さを人々に語った。レンは深く孝道の有難さを知り、益々老父に対する孝養を怠らず、近隣の模範とされたという。」
 
 以上が羽太正養の『休明光記』に採録されている『日浦の孝女』を意訳したものであるが、羽太はこの後に次のように書いている。
 
  「梶村(かじむら)(鍛治村)の条にも書いておいたので、あまりくどくどしく書くことを避けたいが、文化年間はこのような有難い恵みも時々あって、時々このような孝子も出たのであろう。然し現今はこのような政事(まつりごと)が行われないので、悪事を犯す者、不人情な者が多く、このような孝子は少なくなった。
  近年箱館在亀田村から梶村へ嫁入りした女があったが、嫁に行って一年ばかりたってから眼病にかかり四、五ヶ月も床についていた。すると舅と聟が相談してその嫁を離縁した。嫁はやむなく親元に帰り現在まで五年程も寝ているという。
  この女の嫁入先は船もあり、漁具等もたくさんある網元で、その上畑なども多くある裕福な家であり、嫁の実家は、親も兄弟もその日暮しの日雇いをしている極めて貧しい家であるという。このことを聞いた私の知人がこの家を訪ねて行ってその様子を見たら、あまりの不憫(ふびん)さに同情の涙にくれ、健胃剤を二廻(ふたまわ)り程をおいて来たと話してくれた。
  眼を患って離縁された嫁は、姿かたちのよい美人であったので、富裕な家の息子に見染(みそ)められて、貧家から嫁いだということである。
  こういう不人情なことは、寛政、文化の頃ならば、役人たちが聞きのがしたり、見逃したりする筈はないのだが、現今はこういうことが屡々(しばしば)ある。」と結んでいる。