函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第二章 戸井町の沿革

第四節 戸井と近隣の変遷

 古い時代の戸井の変遷については、戸井に残っている記録がないので、くわしいことはわからないが、寛文年間以降いろいろな人が下海岸へ来て、村の名前、村の状況、戸数、人口などを記録した古文書が残っているので、それを見ると大体の変遷がわかる。
 道南の地名は殆んど蝦夷語であり、古い時代の地名はかなで書かれ漢字が当てられていないので、地名の原形を知り、蝦夷語地名の意義を解明するために貴重である。又古書にあって、現在死滅し古老すら知っていない地名もある。
 
  ①寛文十年(一六七〇)『津軽一統志
 津軽一志は、寛文九年六月シブチャリの酋長シャクシャインが蜂起し、松前から派遣された鷹匠(たかしょう)や商人を殺害し船の積荷を奪った事件が発端で、松前藩はこのことを幕府に報告すると同時に、津軽藩の応援を求めた。津軽藩は江戸表にあった藩主信政に急報し、信政は幕府の許可を得て、取敢えず藩士杉山八兵衛に一隊の兵を率いさせ、後詰めとして松前城下に渡航することを命じ、信政は直ちに帰国し、幕府と緊密な連絡をとりながら事態の収拾に努力した。松前城下に派遣された藩士須藤惣右衛門・吉村場左衛門は、松前や蝦夷地で見聞したことを細大もらさず弘前(ひろさき)に報告し、その報告を受けた津軽藩は、飛脚(ひきゃく)を頻繁(ひんぱん)に江戸に送って事件の経過を報告した。
 享保十六年(一七三一)津軽藩史『津軽一統志』が編纂された。寛文十年松前城下に派遣された藩士則田安右衛門の書いた『狄蜂起集書』の中に、下海岸のことが述べられている。寛文十年というと、円空上人が蝦夷地を去ってから三、四年後である。
 
 一、一本木    川あり、狄(てき)おとな(○○○)ヤクイン     家七軒
 一、へきれち   是まで三里あり。狄おとな(○○○)本あみ、是よりとち崎へ出る道あり。  家二十軒
 一、あるう川   川あり
 一、亀 田    川あり、澗あり、古城あり、一重堀あり。     家二百軒余
 一、箱 館    澗あり、古城あり                から家あり
 一、弁才天
 一、亀田崎
 一、しりさっぷ  小船澗あり                     家七軒
 一、大 森                       家十軒但しから家あり
 一、湯の川    小川あり                      家八軒
 一、しのり    澗あり              家二十四、五軒から家あり
 一、黒 岩                              家七軒
 一、塩     川あり、狄おとなコトニ、但しチャシあり       家十軒
 一、石 崎                              家十軒
 一、やちまき   狄おとな(○○○)コトニ持分      家十三軒から家なり
 一、たか屋敷                        家六軒から家なり
 一、おやす                             家十五軒
 一、塩くひ崎   狄おとなオヤワイン                 家六軒
 一、にともない  狄(てき)おとなヤクモイン             家五軒
 一、ひゝら    船澗あり
 一、尻岸ない   小舟澗あり、狄おとな(○○○)ヤクモタイン持分
 一、えきしない  小船澗あり、狄おとな(○○○)アイツライン持分   家五軒
 一、こふい                          から家二、三軒
 一、ねたない   小川あり、狄おとな(○○○)アイツライン
 一、えさんの崎  焼山あり
 一、ととほっけ
 一、やしろの浜  よき澗あり
 一、ふうれへつ  小川あり、澗あり
 一、うたいわれ石
 一、大かち
 一、つきあけ
 一、おさつへ   狄おとな(○○○)アイツライン持分、家二、三軒
 一、かつくみ   小船澗あり
 一、ほろい滝   是まで昆布あり
 一、もり     小川あり
 一、とち崎    狄おとなアイッライン持分。           家四、五軒
 一、おとさつへ  川あり、狄おとな(○○○)アイツライン持分
 一、のたあい   とち崎より八里あり、新井田権之助商場、狄おとな(○○○)サルコ
 一、ゆうらっふ  川あり、青山弥左衛門商場、狄おとな(○○○)ハハ  家七軒
 一、黒 岩    同人商場
 一、くんぬい   川あり、青山弥左衛門商場、狄おとな(○○○)バルフレ
 一、もんへつ   くんぬいより一里、川あり、狄おとな(○○○)マシマ  家五軒
 一、おしゃまんへ是まで一里、川あり、狄おとな(○○○)、アマリ  家五、六軒
 
 『津軽一統志』に載っている戸井地域の地名は、「たか屋敷」「おやす」「塩くひ崎」「にともない」の四ケ所だけで「とい」という地名はない。
 
  ②元禄十三年(一七〇〇)『元緑島郷帳』
 元禄十三年二月四日、松前藩が幕府に提出したもので、これに絵図を添えて出した。この絵図を元禄御国絵図という。『津軽一統志』より三十年後のものである。
 島郷帳の箱館以東の地名は
 
  「箱館村、しりさぶ村、ゆの川村、しのり村、銭神沢村、汐とまり村、石崎村、おやす村、うか川村、汐くび村
    これより夷地
  はらき、しりきし内、えけし内、こぶい、ねた内。」
 
  『元禄御国絵図』
  「こぶい、えさん、さき、ねた内、えけしない、しりきしない、はらき、しおくびのさき、汐くび、おやす村、石崎村、銭亀沢村、ゆの川村、しのり村、しりさぶ村、箱館村。」
 
 『津軽一流志』の、にともない(・・・・・)が、島郷帳や絵図にはなくなりはらき(・・・)という地名に変(かわ)っている。島郷帳にも「とい」という地名はない。
 
  ③元文四年(一七三九)『北海随筆
「東方、亀田を関とすれども、今は箱館を東関とす。然れども、ハラキより夷地たり」とある。
 
  ④宝暦九年(一七五九)『松前蝦夷聞書』
  「箱館、六十五、六戸、問屋小宿あり。
しりさび
大森
いくら前、十二、三戸
銭亀、約二十戸
おやす
塩首
とひ
はらき
えさん、いわうのいきりと浪の泡(あわ)と合して、軽石となり、日本へ渡る。」とある。
 
  ⑤天明元年(一七八一)『松前志第三巻』
  「湯川村、鍛治村、箱館村、えくらまえ、しのり村、黒岩村、銭亀沢村、汐村、石崎村、小安村、しおくび、せたら、しづがうた、よもぎない、かわしり、しすん、よことまり、とい、おかへとのま、くまべつ、むいのしま、かまがうた、はらき、かねがした、ひうら、えぼしがうた、むいのとまり、しりきしない、こぶい、やませどまり、ねたない、ななついし、さつひない、みつない、えさん、とどほつけ、やしろはま。」
 
 『松前志』は松前広長の書いたものであるが現在の地名と大差ない。
 
  ⑥天明六年(一七八六)『蝦夷拾遺
 これは幕吏山口高品が天明五、六年の二ヶ年間で調査した報告書である。
 
「鍛治村、四十戸足らず、   百八十余人
 上湯の川村、三十戸足らず、 百二十余人
 下湯の川村、五十戸足らず、  二百余人
 亀田村、三十戸足らず、   百四十余人
 箱館村、四百五十戸足らず、二千五百余人
 尻沢部村、四十戸足らず、百四十人足らず
 紫海苔村、三十戸足らず、百四十人足らず
 銭亀沢村、十余戸、      五十余人
 潮村、二十戸足らず、  九十人足らず
 石崎村、六十戸足らず、    三百余人
 小安村、四十戸足らず、   百六十余人
 世田良村、十戸足らず、  二十人足らず
    蝦夷地
 トイ、運上屋一戸、世田良村と境を接しこの内海岸里数、三里余。
 シリキシナイ、運上屋一戸、海岸里数、三里余。
   蝦夷地の地名はすべて一村の称にあらず。運上屋という商家あり。」
 
  ⑦天明八年(一七八八)『東遊雑記
 古川古松軒が、天明八年、六十八才の老躯をもつて、幕府の巡見使に随行して書いたもの。
湯の川には温泉があって、湯治客の数が多いこと。汐首の崎から東は蝦夷地であること。黒岩では蝦夷の代表として、男十二人、女五人が巡見使に謁見し、蝦夷の芸術を演じたこと、男は風貌がたくましく、身の丈六尺に及ぶ者がいた」などと書いている。
 
  ⑧寛政元年(一七八九)『ひろめかり
 『ひろめかり』は、寛政元年七月、菅江真澄が下海岸に昆布取りを見に来て書いた紀行文であるが、往路の紀行文は散逸し、帰路も戸井までの分は断片記録である。
 
  内田武志が発見したという『ひろめかり』の断片記録
  「遠つ蝦夷人はめといい、近つ蝦夷人はここ人(・・・)(和人)になれて、昆布とはいえり。山越えればはらき(・・・)の磯に なりて(不明)過しころ宿りやに至る。
  十三日、くもりてけり、今日もここにありて、無意(むい)の島見つつ、(不明)雨一むら過ぎて虹のかかりたる中を(不明)
  海原(うなばら)や限りも波のいく千里(ちさと)いろどりわたる虹(にじ)のかけはし
       (中 欠)
  十五日、波くら渡る海べた、雨つつみに無意の小島を、
                    (以下欠)
 
 この断片記録によって、帰路の日程を推定すれば
 「七月十日、恵山に登り、下山して根田内にり、翌十一日、根田内を出発、古武井を通り尻岸内運上屋に一、十二日、尻岸内を出発、日浦と原木の峠を越えた」という部分から「山(原木峠)越えれば、はらきの磯になりて」という断片記録に続いていることが明らかである。
 「宿りやに至る」と書いている「宿りや」は「戸井の運上屋」である。「十三日、くもりてけり」から後の文章から推定すると、十三日からヤマセの風が吹いて、雨が降り出したため武井の島の見える戸井の運上屋に、七月十二日から十六日まで五日間滞在したのである。
 七月十七日以降、即ち戸井の運上屋を出発してから陸路福山に帰り着くまでの紀行文が残っている。『ひろめかり』は上巻と下巻に分けて書いたらしく上巻が散逸したのである。寛政三年に書いた『えぞのてぶり』に「もや(・・)もなごりなく晴れて、恵山の峰もあらわれていた。この峰は三年前に登って見たところなので、ここまでは見なれている土地である」と書いている。このことから『ひろめかり』紀行は、船で根田内に行き恵山に登り、帰りは陸行したのであるが、戸井の運上屋に七月十二日から十六日まで滞在し「十七日、上風というが吹きて、空も晴れたれば、この運上屋を出(い)で立つ」という文章から下巻が書かれている。関係分を意訳して見ると
 
 「七月十七日、四、五日続いたヤマセが西風に変り、浦人がカミカゼどいっている風が吹いて、空も晴れたので、戸井の運上屋を出発した。入江(オカベトマリ)の近くにおわします観音菩薩のそばの草の中に、転んでいる石文があった。どういう人が書いたものか文字が滅(ほろ)びているのでわからない。
 ここから少し歩いて行くと、浜(館鼻の浜だろう)で、アイヌがメノコと二人で、カガメ(現今ガゴメと称している)というものを刈って持つて来るのを見るとヒロメ(昆布)と似ているが、ヒロメとは違うものである。
 アイヌが一人、この崎の立岩の上に立って、たいそう長い木の竿(さお)(後世シャクデといっているもの)をもって、オソボロスケ(ブリのこと)というチェッフ(魚)を釣るといって、カモシシ(トナカイのこと)の角(つの)をフタキ(二寸)あまりに削りそれにハリをつけ、餌(えさ)の代りにフグの皮をつけ(擬似針)、長い糸をつけて浪の上に投げ、ひたうちに浪の表面を打ちつけていた。その角針が海面に打ちつけられると、鰮がヒレを振るように見えるので、オソボロスケ(ブリ)が引くのだという。しばらく見ていると、大きなオソボロスケを一匹釣って、岩をおりてこちらへ持って来た。(戸井では明治年代頃まで、このアイヌがしたように、鹿や牛の角でつくった擬似(ぎじ)針にフグの皮やニワトリの羽毛をつけ、シャクデでしやくってブリを釣っていた。真澄はこのブリ釣りのところに、アイヌが岩の上に立ってブリ釣りをしている挿し絵を入れている。この岩と思われる岩が今でも館鼻の崎にある。)
 ブリを釣るのを見て、横というところへ来たら、磯辺にたいそう高く積み重なっているものがあった。何だろうと思って、そばへ寄って見ると、大竹を根から引っこ抜いたものであった。浦人たちは「世間でいう大葦というものが、波に流されてどこかの国から来たものだろうか」などといっていた。ここを通る人々も立ち止ってこれを見「これは唐(とう)の国の堤(つつみ)などが、洪水でこわされこの大竹が抜けてここに流れ着いたのだろう。」などと語り合いながらここを過ぎて行った。
 横から弁財間、川尻(かわしり)、斉藤間、水無(みずなし)、しづがうた、よもぎない、せたらいから例の山中にかかると、七之助おとし」「弥八おとし」などという、けわしい断崖の縁を、安全を祈りながら通り過ぎた。
 ここを過ぎて少し行ったところの崖下に「地蔵穴」というところがあった。案内について来た荒男らが、石をころがしてやるとハロバロ(・・・・)と石の落ちてゆく音が聞えた。
 「地蔵穴」の附近には、アワビやガゼ(ウニ)などを焼いて食ったようなカラがいつも散らばっているという。「焼いて食うのだからケモノの仕業(しわざ)とも思われない」と村人がいっている。「とにかく、このあたりには怪しいものが悽んでいる。」といい伝えられている。
 「冬は雪の上に、大きな足跡が地蔵穴のある海辺から山の上まで続いていることがある。」と村人が語り更に「去年(天明八年)の今頃若い者が二人磯舟に乗り地蔵穴のある磯辺で、ヤスをもってアワビを突いていた。
 「つかれたから少し休もう」と、二人は舟を岩岸に寄せ磯に下りて休んだ。ところがその附近の岩の上に高盛りにした強(こわ)飯があった。その附近には人のいるけはいもなかったので「一体これは誰が置いて行ったものだろう。二人で御馳走になろう。」と、腹もへっていたので二人で食べた。
 食べ終って「さあ又仕事にかかろう」と、立上ったところそこからかなり離れたところの大きな岩のところに異様なものが立っているのを見た。それは身の丈七尺以上もあると思われる色の黒い女が、腰のところへだけ衣をまとい髪は長く、大きな二つの乳房は長くフタフタと垂れ、眼をランランと輝かせて二人の方を見ていた。二人の若者は「これはたいへんだ。われわれは、この大女の昼飯とも知らずに食ってしまったのだ。この女はただものではあるまい。飯を盗み食いしたことをとがめられて、この快女に取り殺されてはたいへんだ」と、二人はあわせふためいて、舟に乗り全力でカイをかいて浦へ逃げ帰った。
 二人は「今地蔵穴のところで、かくかくしかじかのことがあった」と、恐怖のために色青ざめて浦人に語った。それを聞いた浦の人々は「それは珍らしいことだわれわれも行って見よう。みんなでその大女を生け捕りにしよう」と、昆布小屋にいた若い元気な男たちが、みな走り出て来て、手に手に昆布取鎌や棒や日本刀などを持ちたくさんの磯舟に分乗して、全力で車ガイを漕いで、その場所へ行って見た。ところがその大女の姿はなく岩の上には、二人の若者が食い残した強飯だけがこぼれていた。」と語った。また、「このあたりの夜道を一人で行くと、この変怪(へんげ)にとられるものか、この崖から落ちて死ぬ人がしばしばある。落ちて死んだ断崖の底の死骸には、必ず怪物の爪跡らしいものが、ところどころに深くついている」などと浦人が語っていた。
 そこから「石子積(いしこずみ)」と浦人が呼んでいるところへ来て見ると石仏(いしぼとけ)の前に、賽(さい)の河原のように石が積み重ねられていた。案内人は
「誰が積み重ねたということはないのだが、昔よりは高くなっている。」などと語った。
 石子積の石仏を拝んでここを過ぎ、ほやから、えぞむら、しおくび、しろいはまを通り過ぎ運荷(うんか)川を渡り石崎へ来て宿をとった。
 十八日、風邪のここちがしたので、同じ宿にって漁師の情を受けた。
 十九日、石崎を出発して銭神沢の名主、姥子太郎左衛門の家に滞留し、その後、箱館、亀田、有川などで遊んだ」
 
と書いている。
 寛政元年七月に、菅江真澄は戸井の運上屋に五もしているので、「戸井館の伝説」などもくわしく採録したものと思うが「ひろめかり」の上巻が散逸したことは残念なことである。然し、石子積、ほやから、えぞむら、しろいはまなどの地名が一八〇年も昔からあったことがわかり、現在死滅して村人の知らない「七之助落し」「弥八落し」「地蔵穴」などの地名とその伝説が採録されていることは貴重である。「地蔵穴」の怪女の話は「去年」と村人が語っているので、天明八年の実見談である。
 
  ⑨寛政三年(一七九一)『えぞのてぶり』
 『えぞのてぶり』は、真澄が有珠登山を思い立って舟で下海岸を通過した時の紀行文である。この中から、下海岸の部分を抜き出して意訳して見ると、
 
 「五月二十六日、ウスンゲツ(箱館)を漕ぎめぐらして、この島の姿を見るとワニなどが海の上をはいのたくつているようである。シノリ浜、銭神沢、石崎の白石にあった日持上人の遺跡も遠くよそに見渡し漕ぎ進んでいるうちに海の上で日が暮れかかったので、ヤケマキの浜にイカリをおろして舟からおりた。
 丸小屋を組んでそれにると、アイロリという虫がたいそう多く、またヨコノミという虫もたくさん集ってきてうるさいので、アシでふいたささやかな家に行って宿をたのんだ。
 その家の中にはいると、菅ごもを新しく敷き重ねて短かい着物を着た女が『ここは蚊のなく声こそ聞かないところだが、ノミがたいそう多く、さぞ寝苦しいでしょう』などと言いながら寝る場所を掃き清めてくれた。
 われわれが寝た後火たき屋(かまど場)がハラハラと鳴った。『何の音ですか』と聞くと、この家の主人が『やがて雨が降ってこようという夜は、このように屋根に葺(ふ)いたカヤが鳴るのです。夜が明けるときっとヤマセが吹くでしょう』といいながら床についた。
 二十七日、日が高くのぼったがつかれているので、みなぐっすりど朝寝して誰ひとり起きてくるけはいがない。然し、この朝なぎのうちに行こうと、眠っている人をも起してヤケマキを船出した。
 小安(おやす)の浦も漕ぎ過ぎ、釜屋(かまや)の磯を経て汐首の崎に漕ぎ入れるあたりで舟は行きなやんだ。この灘(なだ)の間は、竜飛、中の潮、白神の三つの潮瀬以上である。波の激しさはいいようもなくみなぎり落ちるさまは滝などのようで、重なり合った波が雲のようにたち、霧のようになびき、雪のように砕(くだ)け散っている。これを潮おこりといっており、その音は雷鳴と同じである。この高波の中をかろうじてセタライ、ヨモギナイも乗り過ぎ、トユイ(戸井)の浦についた。
 トユイの浦で蝦夷舟に乗りかえ船出して、ムイの小島が近くなると、汐首で難渋した潮瀬よりもさらに速く流れて、荒川の川波が寄せてくるような音がしてたいそう不安な気分になった。ここはムイの黒潮といって、先年(寛政元年)ひろめ刈りを見に来て苦しい目に遇(あ)ったが、その時はこれ程ではなかった。なおも漕きかねているので海神に次の歌を捧(ささ)げた。
  あら潮の潮の八百路に神まさば
       みそない給へ波のはや舟
 ムイは蝦夷語で、穀物をひる箕(み)のことをいう。その形に似た島が海中にあるのでそのようにいうのである。ここにミオとアワビが戦ったという昔話があるが、この昔話は『ひろめかり』という冊子に載せておいた。
 海神の加護があったものかムイの島もようやく過ぎ鎌うた(○○○)、原木(はらき)を経て、日浦の山陰を漕ぎ行くと、切り立った岩の間にナデシコの花がたくさん咲いていた。
 「烏(からす)がうた」というところに、高さはどれほどあろうか大岩が立ちならびそれを雲が深く覆っているので、そこを見ようと岩の間を漕ぎ出させて、しばらくここに舟をとどめさせふり仰いで見た。
 
   註「真澄のこの部分の地名の順序は誤っている。原文はトユイ、鎌うた、原木、日浦、烏がうた、ムイの島となっているが、トユイの次がムイ島であることは明瞭である。ムイの島とムイを誤ったものであろう。この部分は書き直しておいた。」
 
  烏がうた、ムイも過ぎシリキシナイについた。ここでまたコタン蝦夷舟に乗りかえてコブイのコタンを経て、ネタナイというコタンにつきここに宿した。
 二十八日、朝早くこの浦のアイノにカンジ(かじ)をとらせて舟を乗りだした。ウラリ(もや)のたいそう深い波路をたどりたどって行くと、七つ石という大岩がそびえているところに、白鷲(しろわし)、黒鷲(くろわし)が居ならんで競い鳴く声が凄まじい。
 〓山(えさん)(恵山)の麓を漕ぎめぐって行くと、いで湯の流れがあった。この山は湧山(ゆさん)、夷山(いさん)、あるいは恵(え)山などと、さだかでないのでここでは〓山と書いておいた。
 この山に温泉があり硫黄を産し、山の中腹にエノミコトンという植物がある。このあたりの人々は、これをコケノミといって採って食べている。これは七、八月のころに熟す。又山茶というものがあり、疝気をいやす薬という。この植物は一種の臭気がある。その茎(くき)の図は『ひろめかり』という日記にのせておいた。
 ウラリ(もや)もなごりなくはれて、恵山の峰もあらわれた。三年前(寛政元年)この峰にのぼって見たところなので、ここまでは見なれた土地であるが、これから行く先は未知の世界なので、何となく不安な気持で、波と空とが一つになって見はるかす彼方をさして、ただ舟の漕ぐのにまかせて行った。
 海上がたいそう暗く、雲のようにかかり霞(かすみ)のように流れ霧(きり)のように立ちこめているのは、この恵山の噴火する煙である。赤ハゲといって、その高さのはかり知れないような高い岩の上に鵜(う)(ウミウ)が巣をつくっているのか、雛鳥(ひなどり)がたいそう多く羽をバタバタさせて群(むら)がり小さなからだで魚をとり食い親鳥のまねをしていた。
 トドホッケのコタンについて、休むまもなくまた舟に乗って進んだ。左手にアイノの家が七、八軒ばかりたっていて、木立のたいそうおもしろいところがある。名を尋ねると『矢尻浜』と答えた。銚子(ちょうし)の崎という岩の上に、五尺ばかりの高さのアイノが立っているように見える自然石があった。この立石をアイノたちはカムイといって恐れ尊んでいた。
 そのいわれは、昔九郎判官義経がこの石のかげにかくれていたのを大ぜいのアイノが見ておどろき、弓矢を舟に投げすてて、身をふるわしてウムシャ(礼儀)して逃げ去ったという伝説によるという。カンジをとるアイノが『今でも夜(よる)舟に乗っていて、ウラリがたいそう深い時、方向がわからなくなった舟路では、イナオ(木幣)をつくってシュマカムイ(石神)に祈るとシュマカムイのシャバ(石頭)にアベ(火)がたつ。それをしるべにして舟を進めるのだ』と語った。
 フルベの大滝というのが十尋(ひろ)あまりもあろうか、茂りたつ木の中から岩面にかかっているさまは、綿がくり出しているのか、雪をこぼしているのかと思われた。滝の上に穴が二つありそれはチラマンデ(羆(ひぐま))の古穴だという。
 その左手に判官殿の屋形石という窟がある。そこから少し離れたところに、三段にかかって落ちる滝がある。獅子鼻、小滝、判官の兜(かぶと)石、立岩などというのを見て通り過ぎヌイナイ、白井(しろい)川、キナオシ、中崎を漕いでいくと、ピルカ浜というところがあった。
 近ごろ、ひろめ刈りなどで、小舟がいくつか漕ぎ出しているが、漁師たちは潮に目をぬらすほどのぞいて見て歩き、みな波の上に額(ひたい)をさしあてるように、海中をのぞき込みながら『ことしは昆布が少ないようだ』と心配顔で憂え、また、舟もくつがえりそうになるほど傾けて、体を海に乗り出しながら『来年はよかろう。このミズの多いこと』とよろこんでいた。
 ケニウチ、ヤギなどという沖を漕ぎ進んで、オサツベのコタンについて運上屋というこの島の国守(松前侯)がおかれた役所にった。
 西磯にもケニウチコタンというところがあり、和人は訛ってケニウチといっている。ケニウチというのはハンの木のことである。里人はこの木をヤチグワといっている。谷地桑の意であろうか。
 暁が近い頃であろうか波の音に夢がさめて、軒近くのクイナ、梁(はり)の上の鶏が競い合って鳴いているのを聞いた。
 二十九日、早朝出発しようというと、イナオをつけた小さなチイツフ(夷舟)をアイノたちが磯辺にひきおろしたが、岸の波がたいそう荒くうちあげるので、運上屋の役人が
 『今日は波が高いのではないか。』と蝦夷語(アイノイタク)でいうと、アイノは『ピルカ・レプタノトアン』といった。通訳する人がいうには『沖はたいそうよいなぎだ』どいう意味だというので、安心して舟を乗出していくと、ツキヤンゲというところがあった。ツキというのはシャモ(和人)のことばで、雪がくずれ落ちたり山のくずれ落ちることをいう・ヤンゲはアイノのイタク(言語)である。
 こうしてチュッフオマナイを漕ぎ行くと、カックミというコタンがある。この山の奥にはよい温泉があるという。カックミとは、アイノのコタンで使う水柄杓(ひしゃく)をいう。
 チュッフシャクベツという水流がある。舟をチィッフといい、魚をチュッフという夷語である。チュッフシャクベツというのは『魚の夏川』という夷語で、夏の魚をとる川という名であろうか。遠いコタンにシヤクコタン(夏浦)といって班竹(シャコタン竹)を出すところがある。シヤクコタンは鱒の網引きをして、夏季だけ住居のあるコタンの名である。和人はここをシャコタン(積丹)といっている。
 チュッフシャクベツの川底は、石だたみのようにかたく、いで湯の流れだからか、石脳油(石油)がわき出るためか魚がすんでいない。それでシャモは精進(しょうじん)川というのをソウズ川といっている。この川の流れこむ磯の地名も同じに呼んでいる。『この小川の中に人の足跡がついているから渡ってみなさい』と里人がいう。この川の川底が泥であった昔、踏んた人の足跡が、そのまま潮水でかたまりいで湯のために化石になったのであろう。砂をかき分け水底をうかがい見ると、里人がいうように足型がところどころにあった。
 この川をさかのぼると窟(いわや)があり、そのほとりに石積みの塚がある。修行僧がこのあたりに住んでいたという。この川は鮭ものぼらず、イシフシ(カジカ)も棲(す)まないという。
 やがてチィッフ(蝦夷舟)に乗って垣根シュマというところを行った。これも例のアイノのイタクとシャモのことばをいい混(ま)ぜた名である。シュマは石の夷語で、垣根のように岩礁が沖合によこたわっている。また、これを垣根島ともいう。ここにイタンギというコタンがある。イタンギは飯椀(めしわん)をいう。その昔、源九郎義経の水を汲んだ椀が、波に流されてここに打ち寄せられたという伝説がある。
 判官義経公をアイノたちはオキクルミといって、今の世までも敬いかしこみ尊んでいる。あるいは、アイノが判官といっておそれかしこみ神としていただきまつるのは、小山悪四郎判官隆政という名高い武士であろうか。隆政は蝦夷の国の戦いで、鬼神のようなふるまいをして、軍功が少なくなかった。小山統の家では、巴(ともえ)の紋を家紋としているので、巴の型を蝦夷たちは判官の御しるしとして、あれこれの器物に彫(ほ)り自分の家宝とするいわれであろう。小山四郎判官隆政は下野大掾義政の子である。源九郎義経がこの島に渡ったということは決してあるまいが、義経の有名な名をかり、それをおもてに立てて、蝦夷人らをおびやかした。名もない武人たちのおろかなふるまいであったのであろう。思うに、小山判官と九郎判官とを、蝦夷人が混同した結果であろうか。
 西の浦、江差の磯辺に『小山の観音』といって、その観音 薩の堂を神社につくって、隆政の脛巻(はばき)を秘め祀っているという・小山悪四郎の勲功はこのことでも知られよう。江差の港のすぐ近くにある小山観音は、あらはばきの神である。四郎隆政が武将として勲(いさお)をあらわし、はばきが一つ落ちたのをここに祀るという。また津軽の郡、青森の郷堤川の岸に、九郎義経の片方のはばきを祀っている。そこをシリベツの林という。また三河の国、とがの社のほとりにも、あらはばきの神という神社がある。おなじ神をところどころに祀り奉ったものであろう。
 舟がなお進んで行くと、リブンシリという小さな島に、鳥居が立っていて弁財天という額が掲げられていた。この浦をウシジリという。舟をおりて運上屋にはいり、また、このコタンのアイノの舟に乗りつぎして、モウセジリというところをやや過ぎて、オイガラドマリという海岸に葛葉(くずは)が生いまつわっているのを見た。アイノはこの葛葉をオイガラといった。これは『葛の』という意であろう。
 阿袁(あを)という魚が、荒波をのり切ってたくさん群れて行くのを、舳にいたアイノがそれといって知らせると、カンジをとっていたアイノがハナリ(銛(もり))をとり、立ってねらいを定め他の一人に漕ぐのをまかせておいて、『やっ』とかけ声もろとも投げてやったが、ねらいが外れてしまい魚に立たなかったので、舟の中で足ぶみをして残念がり『ウコラモコラ』といった。これは『ああ残念だと腹を立てる時に使う夷語』だという。
 クマオ、ピルカ、ホカイカイ、イソヤも過ぎた。ホカイカイというのは、路の曲ったところ即ち曲路などをいう夷語である。イソヤは石のさし出た崎などをもっぱらいう。イソヤという名は南部路にもある。
 舟の中にみな足を投げて、後ざまにばかり漕いで行くうちに車ガイを捨てて着物をぬぎ、海にザンブリともぐってノナをたくさん抱(かか)えてあがり、石でわって『これを食べなさい』と他の一人にもすすめ自分も食いしばらく休んでまた漕ぎだした。
 ウムシャといって、三つの石が海岸に立っているところを通った。その有様は、アイノが三人背中をまるめておじぎをし、何かものをいっている姿に似ている。それをウムシャ(礼儀)といったのであろう。
 このあたりの浜は、むかし昆布がたいそう多くあったので、人も大ぜい集ってきたが、あるとき海が荒れに荒れて昆布をまったく刈ることができずみなむなしく帰って行ったので、シャモはこのコタンをケガズ浜とよんだが、今は海もおだやかで、昆布も少なくなくこれを刈れば人は飢えることもない。このごろは浜の名をケガズ浜とよんでいない。
 見物するところがあるというので、岸に舟を寄せると、ボオロ(岩穴)といって広い窟(いわや)があった。身をかがめて穴の中へはいって行くと中は広くニイガリ(段)をおりたりのぼったりして、この窟を出て、坂を越えると、アイノが海岸の草むらに舟をつけて待っていた。
 高い草の中にアイノのチセイ(家)がある。大ぜいのアイノが寄り集って酒をのんで歌い、外ではメノコが集ってあやムシロを織っていた。このムシロは、蒲の葉に木の皮、カズラの皮などを模様に染めまぜて、どこのコタンでも織っているものである。そこのヘカチ(男児)カナチ(女児)が歌をうたい、軒のした草にまじって咲いているナデシコの花を祈ってたわむれ遊んでいた。
 ここからまた、舟にのった。滝の落ちてくるもとに、老いたアイノが小さなシントクを持ってきて水を汲もうとして、アツシの袖もグッショリと濡らして帰って行った。トコロという磯に舟をつけた。トコロのかずらが多いのでその名があるのであろう。
 このコタンからメノコ二人に漕がせて行こうということになりカンジをなおしている間に、ここの運上屋の近くのアイノのチセイにはいると、セタ(犬)の大きさほどのビヤウレップ(小熊)が一匹、家屋の隅々をはい歩きヘカチ(男児)にひかれて、いっこうあばれる様子もない。親のヒグマを慕うのであろう、突然『ウ、ウ』とうなって物を嗅(か)ぎあるき、外に出るとヘカチがさっさと抱いて自分の家にはいって行った。
 そこから又舟出して、ザルイシを経て、シュシュベツのコタンの沖を通った。シュシュというのは柳をいいベツは川であるので、柳の生えている川があるのであろう。シュシュベツを越えると、深い森かげに鳥居がたっているが、そこはカムイドマリ(神)というところだという。海岸に温泉があって、湯煙がたちのぼっているのをカンジをとるメノコたちが指さして『ナシュピルカ』といった。そして『ナシュは疝(せん)気のことで、ピルカはよいということばで、疝気によいということばです。この山奥にもトメの湯(留の湯)といってよい温泉があります』などと、シャモのイタク(言語)もまぜながらメノコが語った。こうして夕ぐれ時にシカリベツのについた。
 シャモはこのコタンをシカベといっている。このあたりはどこもよい昆布がとれるのであろう、世間にもてはやされている『宇賀の昆布』というのは、ここの雲川の流れこむ磯で採ったものと名が広まっている。今も昆布はこの浦以上の優良品はないと、もっぱら人がいっている。
 海岸の草むらにむらがるホタルが星かと見まがうように、浜風にさそわれて、苫(とま)でふいた家の軒近くとびめぐり、窓の内まではいってくる。この島で三、四年も過してきたが、こんなにたくさんのホタルが群れているのを見たのは、はじめてなのでたいそう珍らしく外にでてしばらく眺めながらたたずんだ。
 三十日、朝から雨雲がたちこめて、やがて小雨(こさめ)がシトシトと降ってきた。今日は徒歩で行くことにした。昨日、今日たどってきた道は、シリベツの岳(羊蹄山)がよく見えるところと、近くのスクノヘの山さえ雲が深くて、そこと知ることのできないところがあった。「空はまだ暗いし雨も降ろう。川の水も深いでしょう。今日一日はとどまったらどうですか」と運上屋の主人がいうので、笠をぬぎ、脚絆もとってふたたび家にはいって休んだ。
 ここへはいって来る人はみな『今日の鎌おろしは海が荒れに荒れて、ジリ(霧のこと)ばかり降って』と、アイノにまじって住むこの浦の人々は、すっかり嫌気がさしてひげをかきなでながらあくびをしたりしてこのしけ続きを嘆いていた。
 その時『めぐらし文』がきた。運上屋の主人はこれを聞いて見て『このごろヤマセの風ばかり吹き続き、出漁した船が遅れて浦々に到着したので、鎌おろしの日は六月二日と定めることにする』と書いているめぐらし文をみんなに読み聞かせた。浦人らは、『それはよかった』と喜び合い『うれしいことだ』と口々にいいながらみな去って行った。
 風が吹いて来て空が晴れたので、昼ごろこの宿を出発した。スクノヘの川岸に、今朝はみちあふれていた潮もみな引いて、たいそう浅いので越えて行った。南部の田名部のあたりにもスクノヘという地名がある。ところの人は宿野辺という文字を当てている
 堤のようなところに家が五、六軒たちならんでいるが、ここをポンベツという。小川を夷語でポンベツというので小川があればたいていポンベツという名がある。
 もろめ浜というところに、ヒトツ石といっていわれのある岩がある。急に風がでて雨が降ってきた。行くほどもなく空は晴れて、出来間という森の下道をふみ分けて山路にはいると朴(ほお)の木の林があったので、この林で休んだ。デキマという名は、内浦の岳(駒ガ岳)がはじめて噴火した時にできたというのでつけられた地名と伝えられている。
 アイドマリ(相)にきた。このあたりはヒグマがたいそうあばれて、放牧している馬を片っぱしから捕りさいて食うなどと、行く道すがら案内の者が語るのを聞いて、身の毛もよたち肌寒いここちがした。」
 
  ⑩寛政九年(一七九七)『松前地誌』
 寛政九年二月に松前藩士四人が、松前藩主から領内の地誌作成を命じられ村々の役人や住民に尋問して書いたものである。
 
 一、箱館村、馬あり、十二月より一月までは冬鰊。四季雑魚、水悪し、番所あり、松前より東方第一の船着大村なり。
 一、尻沢辺、正月より四月までフノリ。五月から八月までは昆布、水よし。
 一、大森、水悪し、川橋あり。
 一、下湯の川、雑穀、水悪し。
 一、志苔、水悪し
 一、銭亀沢、石崎、水よし。
   以上五月から八月まで昆布、引網にて雑魚。
 一、小安運上屋あり、一月から五月までノリ、八月まで昆布、冬鰊、水よし。
 一、戸井、運上屋あり、フノリ、昆布、水よし。
 一、尻岸内運上屋あり、フノリ、昆布、水よし。
 一、尾札部運上屋あり、鰊、フノリ、昆布、ナマコ、水よし。
 
  ⑪天保九年(一八三八)『松前国中記』
 亀田、以前この村に御番所あり、今は箱館に引移る。
  然れども、下夷地又は箱館地廻り御判、亀田番所にて今も出す。氏神正八幡宮折々御代参(ごだいさん)立つ。
箱館、御番所あり奉行城下(福山)より下る。長折御用昆布、イリコここにて船積みす。寺社町家およそ三、四百軒。
シイサワベ (尻沢辺)、大森湯の川尻、
  産物長折昆布、フノリその外口黒鱒あり。
ゼニカミサワ、御巡見、この村限り見分済むなり。
イクラマイ、シノリ、オオマ、アカシ、ゼニカミサワ、クロイワ
  産物昆布なり。春はソウ前昆布といいて、若昆布取るなり。これは三、四、五月まで。六月になり土用入には、元揃昆布又は折昆布などといいて五尋(ひろ)、七尋(ひろ)くらいまでなり。その外赤昆布取るなりいずれも上々の昆布なり。シオトマリ、
フルカワシリ
  昆布、秋味(あきあじ)(鮭)
イシサキ
  昆布、秋はブリ、サメ。但し汐首までのうちにて漁す。
オヤス
  城下より追放人ここへ送るなり。
ウンカ川、カルヤラヤス、シオクビ、ユムキナイ、メッタマチ
  いずれも昆布、ブリ、サメ、フノリ。雑木なども出る。
トイノカワシリ
  昆布、ブリ、
シスン、オカベトマリ、トイ、ムイノトマリ、ハラキ、カネカシタ、
  春はフノリ、夏は昆布、秋はブリ、サメ。
  御百姓入り交り昆布その外取るなり。夷どもを抱えて取るもあり。御運上場所は、惣名、戸井の名前にて御判申し請ける。
ヒウラ
  フノリ、昆布、ブリ、
ムイトマリ、アカシノマ
  フノリ、昆布、ブリ、サメ、口黒鱒、
シリキシナイ、イキシナイ、コフイ、ネタナイ、サフナイ、
  惣じて産物は昆布、フノリなり。昆布取竿長さ七尋より十尋余まであり、是にて、昆布の根元見わけ、ネジリ、ネジリ切取るなり。舟は磯舟といいて、甚だ小さき舟なり、一人づつ乗る外、海へくぐり入り取るもあり。又鎌がり取といいて柄の長さ四、五尋あり、この先へ鎌をつけ刈り取るもあり。
エサン崎
  いわうたくさんあり。運上屋にて取る。昔より今にいたるまでいわうの煙たち、温泉などもあり。
 
  ⑫安政三年(一八五六)『蝦夷行程記』
 『蝦夷行程記』は、阿部喜任が書いたもので、松浦武四郎の校訂を経て刊行されたものである。
 
 「箱館を出(い)で、東在一本木七戸。大野会所あり。商人多くカワタビという妓女あり。峠の下に旅館あり。宿野辺には、松前藩の建てし腰掛茶屋、中食所あり。森には人家商人も多くハヤウマという妓女あり。
  海浜をたどれば、湯川尻は砂底にてぬかり渡渉困難なり。志苔、銭亀沢辺より長崎御用昆布を出す。
  汐十戸余、八木巻十戸余、小安六、七戸、汐首十戸余、瀬田内、蓬田、戸井、釜ウタ、原木、知岸内、コンブイに人家あり。
  恵山噴煙上り、山上に石造りの宮あり鳥居木造、椴法華約五十戸
 
 以上戸井関係のことの書かれている古文書十二を選んで、年代の順に並べて隣接町村或は蔭海岸の分も含めて採録した。これによって寛文十年(一六七〇)以降即ち、三百年前からの戸井の地名、戸数、人口、産物などの概要を知ることができる。寛文十年の『津軽一統志』時代と安政三年(一八五六)の『蝦夷行程記』時代の戸数を比較して見ても二百年後の安政年間に戸井の戸数、人口はふえていない。僻地であり加えて蝦夷の住む地であったために和人が定住しなかったのである。
 永仁四年(一二九六)に日持上人が石崎に滞留したという伝説があり、元弘四年(一三三四)に書かれた『庭訓往来(ていきんおうらい)』に「宇賀昆布(うがこんぶ)」の名が書かれたり、十四世紀の中頃に戸井館があったという事蹟があったとしても戸井を含めた下海岸の歴史時代は十六世紀以降である。