函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第二章 戸井町の沿革

第三節 戸井への和人移住

 十八世紀の後半といえば、宝暦元年(一七五一)から寛政十年(一七九八年)までで、松前時代前期の終る時代までである。
 この時代の下海岸は、まだ小安村の汐首が和人と蝦夷の居住地の境界になっており、汐首岬以西が和人地で、以東が蝦夷地であった。蝦夷地に享保年間から「場所請負制度」がつくられ、それが定着し、軌道に乗って来た時代であるが、和人の人口は、和人地蝦夷地共に極めて少なかった。宝暦九年(一七五九)で「箱館六十五戸くらい、銭亀二十戸くらい」であった。これから二十八年後の天明六年(一七八六)でも「石崎約六十戸、三百余人、小安約四十戸、百六十人、瀬田来約十戸、二十人くらい」という状態で、瀬田来以東原木までの戸数、人口は推して知るべしという状態であった。
 天明六年以降、戸数人口が漸増したかというと、そうでもなかった。五十三年後の天保九年(一八三八)箱館の戸数が三、四百軒であり、戸井の地名をくわしく書いているが戸口は全然書いていない。然し箱館の戸数から推定すると多くはなかったことがわかる。
 天明六年から七十一年後の安政三年(一八五六)の記録では、「小安六、七戸、汐首十戸余り」とかえって減っている。こういうことから、定着する和人が少なく、幕末の頃になっても戸口の増減が繰り返されたということがわかる。
 小安と戸井に運上屋(うんじょうや)が置かれ、幕府や松前藩は主産物の昆布を物納(ぶつのう)させたり、その他の海産物に運上金(うんじょうきん)と称する租税を課していたのである。昆布以外の海産物としては、ブリ、サメ、フノリなどであった。カワシリから原木までの蝦夷地では、アイヌを雇(やと)って昆布や魚をとっている家もあった。 蝦夷地に和人の家が五、六戸定着すれば、神社を建てるという和人の慣習(かんしゅう)から十六世紀末から十七世紀の始めに各部落に神社が創建された。蝦夷地では、元禄四年(一六九一)に汐首神社、瀬田来稲荷神社、それより少しおくれて明和二年(一七六五)戸井の宮川神社、明和四年に鎌歌稲荷神社、明和六年に原木稲荷神社が創建されている。
 神社といっても創建された当時の建物は、小さな祠(ほこら)であったものと思われる。戸井に神社の創建された年代がその部落に和人が定着しだした年代と考えて誤りはないと思う。
 但し宮川神社は岡部館のあった頃に宮川という小川のほとりにあった祠の跡に神社を建て、宮川の名をとって宮川神社と名づけたという伝説がある。
 寛永十年(一六三三)七月第一回目の、幕府の巡見使一行が小安の近くの石崎まで来、天明八年(一七八八)七月にも来て、僻村にいろいろは刺激(しげき)を与えた。
 寛政年間(一七八一―一八〇〇)に書かれた『松前随商録(ずいしょうろく)』という古書に、戸井の小字名、産物、場所請負人運上金などのことを簡単に書いているが、当時の戸井の事情のわかる記録なので書いて見たい。
 
   ヲヤス  高橋宗二郎支配
   小家   ヤクノマ、タカヤスキ、ウガ、カマヤ、シラハマ、シオクビ、ヨモキナイ、エヅムラ、セタライ、サイトマ
 この地、日本人と蝦夷との境なり。役所(運上屋)あり。三月より八月まで、境役人護る。領主より仰せつけられ、罪科の者を流人す。
 この地ウガという所、昆布名代赤昆布という。
 シオクビ、鰤場所なり。汐地甚だ荒し。
 運上金、宝暦年中、二十七両二分。その節は領主支配、其の後高橋氏へ下しおかれ、それより安永年中、運上金五十九両位。
 但しこの蝦夷地境川あり。
   トヰ   佐藤権左衛門支配
   出産   昆布、布苔(ふのり)、鮫(さめ)、鰤(ぶり)、魚油、鮭秋味(さけあきあじ)。
   小名   カワシリ、シスン、ヲカベマ、トヰ、クマベツ、ヲヨリ、ムイノシマ、カマウタ、ハラキ、カネカシタ。
 この地、百姓昔に入り込み漁す。春は支配、夏は御蔵納め、運上金三十五両位
 
 小字名は村人のいうままに書いたようだ。村人はタカヤシキをタカヤスキといい、エゾムラをエヅムラと発音していたものであろう。
 シオクビが和人と蝦夷との境であり、境役人が三月から八月まで護(まも)っていたこと、和夷境界の川があるなどと書かれている。シオクビには川がないので境の川というのは運賀川であろう。
 領主の指示で「罪科の者を流人す」と書かれているので、この頃も汐首以東の蝦夷地は流刑地であったことがわかり、天保九年(一八三八)の『松前国中記』に「オヤス 城下より追放人ここへ送るなり」とあるので近世まで流刑地であったことがわかる。然しオヤスといっても和人地のオヤスではなく、オヤス村内の蝦夷地シオクビを指していることが明らかである。
 「この地ウガ(○○)という所、昆布名代赤昆布という」という記録は、宇賀昆布は銭亀沢の宇賀の昆布ではなく、運賀川附近即ち釜谷、白浜(しろいはま)の沿岸でとれる昆布であるという一つの証拠である。
 トヰの項では現在死滅しているヲカベマという字名が書かれている。ヲヨリという地名は、現在のオツケノハマ附近の地名と思われるが、現在この地名は死滅し、その意味も不明である。現在カネシタと呼び金下の漢字を当てている地名がカネカシタとなっている。恐らくカネカシタがカネシタの原名であろう。
 現代では、秋味(あきあじ)は鮭(さけ)の方言といわれているが、鮭秋味(さけあきあじ)という書き方をしていることは興味あることである。
 「百姓昔に入り込み漁す」と書かれているが、現代のわれわれの常識では、農民を百姓と考えているが、古書を読んで見ると農民、漁民共に百姓と称していたことがわかる。