函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第二章 戸井町の沿革

第二節 道南への和人移住

 『新羅之記録』は松前景広(かげひろ)が松前家の家譜や諸記録を整理し、まとめて集大成したものであるが、参考文献にしたものの一つ『松前年代記』に「文治五年(一一八九)より嘉吉二年(一四四二)までの二五〇余年間は種々のことがあるが、不明分(○○○)があるので省いた」と書かれている。
 したがって松前家の記録だけでは、嘉吉二年以前のことはわからない。不明分(○○○)があるので省いたということは蠣崎信広の前身前歴をかくすために故意(こい)に省いたことも想像される。嘉吉二年以前の事蹟を調べるためには南部氏や安東氏の記録を調べなければならない。
 道南に和人の館が築かれたのは、永享、嘉吉年間頃と思われるので、南部、安東、松前三者の記録を検討して見なければならない。
 三者の記録から道南に来た豪族を年代順に挙げて見ると
 
①永享四年(一四三二)
  十三湊の下国安東盛季(もりすえ)が、南部義政に攻められ、敗れて蝦夷地に逃れ、茂別に館を築いた。この年書かれた『満済准后日記』に「下国氏南部氏と戦い、蝦夷島に没落せしに付、幕府より再び(○○)和睦(わぼく)の事申し遣(つか)わす」という記録から盛季の渡島は永享四年以後ではない。
  松前氏の記録は「盛季の渡島は嘉吉三年(○○○○)(一四四三)」となっており、南部記録の十一年後になっているが、盛季渡島前後の事蹟から嘉吉三年説は誤りであると思う。
②嘉吉元年(一四四三)五月十八日
  畠山重忠の末孫、厚谷重政が蝦夷地に渡り、比石(ひいし)に館を築いた。
③嘉吉三年(一四四三)
  小山四郎隆政が一族の者八人を引連れて、南部の野辺地から上の国に渡って館を築いたという。
④嘉吉三年(一四四三)
  蠣崎修理大夫季繁が渡島し、上の国に館を築いたという。季繁が若狭国から渡島したというのは誤りであろう。安東政季の聟になったり、政季の女を養子として蠣崎信広にめあわせた(○○○○○)などということから、恐らく下北地方から渡島したものであろう。嘉吉三年渡島ということも信じられない。南部側の記録によると、蠣崎蔵人信純が下北蠣崎の錦帯域(きんたいじょう)にいた康正三年以前に下北の蛇浦(へびうら)、異国間(いこくま)附近を蠣崎主税(ちから)が領し、下風呂附近を蠣崎三郎右衛門という者が領し、ここに館を築いているので季繁はこの二人のうちの何れか、でなければこれらの者の親族と思われる。
  季繁の渡島は、安東盛季と南部義政との戦い、或は蠣崎信純と南部政経との戦いの何れかに関係があるものと推定される。
⑤康正三年(一四五七)
  下北蠣崎の錦帯域主蠣崎蔵人信純(後の武田信広といわれる人物)が、北部王家(きたべおうけ)義純を殺したため、根城(ねじょう)南部 政経に攻められ大畑から蝦夷地に逃れ、上の国に拠った。この時安東政季も別な船で同時に大畑を船出した。
 
 (南部側の記録)
  松前側の記録には「享徳三年(一四五四)八月二十八日、大畑を出船して狄(てき)の島に渡る」とある。
  蠣崎信純、安東政季渡島は南部側の記録の康正三年(一四五七)が確かであろう。
 
 長禄元年(一四五七)コシャマインの乱の時の箱館館主河野政通(まさみち)、相原政胤(まさたね)、蠣崎信広などは安東政季に従って渡島した者である。又茂別の安東家政は政季の弟、松前の安東定季は安東氏の一族である。
 こういうことを総合して考えて見ると、安東盛季渡島する前に安東氏の一族や義経に味方した関東豪族の末孫、南北朝の争乱に敗れた豪族が館を築いており、その後、蝦夷管領であった安東盛季が南部義政に追われ、蝦夷地に逃れて茂別に拠り、その一族や郎党を道南に配したことがわかる。
 コシャマインの乱の起ったのは「長禄元年(一四五七)五月十四日」と、安東政季が本州へ帰還した時に報告したという記録は大体信じていいようだ。
 康正三年(一四五七)五月二十八日に長禄(○○)と改元されているので、コシャマインの乱の起ったのは、正しくは康正三年五月十四日である。このことから安東政季、蠣崎信純(後の武田信広)等の渡島は、康正三年五月十四日以前ということが推定される。
 南部側の記録では「安東政季、蠣崎信純等が大畑から蝦夷地へ逃れたのは、康正三年二月二十五日(○○○○○○)」となっている。蠣崎信純等が渡島してから三ケ月後にコシャマインの乱が起ったことになる。「康正三年二月二十五日渡島」ということは信じていいようだ。したがって松前史の「享徳三年(一四五四)八月二十八日)は誤りであろう。