函館市/函館市地域史料アーカイブ

戸井町史

第二章 戸井町の沿革

第一節 石器時代の戸井

 昔から戸井町の畑地の各所から石鏃(せきぞく)、石槍(せきそう)、石斧(せきふ)、石匙(せきひ)、石冠(せきかん)、石錐(せきすい)、石棒(せきぼう)、石錘(せきすい)(石の重り)などの石器や各期の土器の破片、貝塚などが夥(おびた)だしく出土していた。戸井の人々はこれらの石器、土器をアイヌの使用したものと考え、今でもそう信じている人々が多い。
 人々は石鏃、石槍、石斧などの完全な形のもののみを拾い集め、石匙、石錐、石冠、石錘などが出土しても、ただの石ころや石の破片と考え畑のふちに棄てて省みなかった。又土器などは完形品や完形品に近いもののみを集め、復元可能なものも棄て去り、ましてや土器の破片は一顧だもせず、畑のふちに棄てたのである。
 畑から出土する石器や土器は、古書に蝦夷という名で書かれているアイヌの使用したものではなく、今から一千年乃至数千年以前の石器時代人がこれを作り、使用したものである。
 戸井町では繩文早期の遺跡や遺物はまだ発見されていないが、東戸井漁業組合の背後の海岸段丘から、石錘がたくさん出土しているし、東浜町の海岸段丘などから古い形式の石器が若干出土しているので、繩文早期の遺跡、或は無土器時代の遺跡の発見される可能性があるものと思われる。

繩文中期の土器(浜町遺跡出土)

 小安から原木までの海岸段丘の各所に、繩文前期から中期にかけての遺跡がある。海岸段丘の下では、西浜町の〓金沢の畑地附近に繩文中期の貝塚がある。この外中期の遺跡は、原木の左股、鎌歌と東浜町との境にある熊別坂にもある。熊別沢の遺跡から硅藻土層が発見された。又東浜町の海岸段丘一帯に広大な中期の遺跡があり、段丘の突端に層は薄いが貝塚がある。西方では瀬田来の海岸段丘、汐首岬の段丘の畑地、釜谷、小安の海岸段丘にも中期の遺跡が分布している。
 これら繩文中期の土器、石器の形式は、殆んどサイベ沢の円筒上層式と同じである。中期の貝塚からは、鹿の骨や角、鯨その他の海獣の骨、魚類の骨、ウニの殻などが多くの貝類の貝殻の層から出土する。又貝層の中から石器、土器、骨角器なども出土した。極めて小型の土器も若干出土した。
 これら繩文中期の遺跡や弁才町の忠魂碑附近の畑地から後期、晩期の石器、土器が出土する。弁才町の遺跡のある海岸段丘の突端から昔数多くの石鏃を子どもたちが拾ったという。これは峰伝えに段丘に下って来た鹿を崖縁に追いつめて捕った跡と思われる。
 遺跡は町内各所に分布しているが、本格的な調査発掘は、昭和二十六年十一月六日、千代肇の指導による熊別坂の発掘と昭和四十二年秋、千代肇の指導による西浜町〓金沢畑地の貝塚発掘、昭和四十三年夏、千代肇の指導による東浜町海岸段丘の発掘だけである。

戸井の遺跡より出土した各期の石器

 然しこれらの発掘調査は、日数も少なく、小規模な部分的な発掘に終っている。
 昭和四十三年六月、道道の舗装工事のため、道路縁の水道の土管埋替え工事中、宮川神社下から谷藤家の前までに亘って、地下一メートル位の所から、石器や土器の破片が出土し、薄い貝層からは、鹿の骨や角、鯨、魚類の骨が出土した。貝層はアカニシ、ホタテガイ、ホッキガイ、ベンケイガイなどの貝殻であった。この遺跡は続繩文期の恵山式(尾白内式)のものであった。
 又何年か前に東浜町〓金沢家の附近で砂鉄を堀った時に、多数の石器や土器が出土したという話を聞き、これも恵山式のものであろうと予想し、当時の出土品を持っている人を探(さが)した結果、杉山民雄氏の持っているのを見ることができた。予想通り続繩文期の恵山式の石器、土器であった。戸井町では海岸段丘の下、即ち現在人家の建っている地域や道路になっている場所から出土する石器土器は殆んど恵山式の遺跡と見て間違いはない。
 小安、釜谷地域も、海岸段丘上の川沿えの地域に、繩文前期、中期、後期、晩期の遺跡が分布し、段丘の下に続繩文期恵山式の遺跡がある。
 戸井地域の繩文期の石器、土器の型式は、各期とも対岸下北半島のものと類似している。このことは石器時代の大昔から下北地方と交流があったという証拠であろう。下北半島の尻屋から、先繩期、繩文早期、前期の遺跡が発見されており、むつ市の田名部からは繩文前期、中期、晩期の遺跡が発見されている。
 道南では昭和四年に、函館市住吉町、春日町の早期尖底(せんてい)土器時代の石器土器が発掘され、その後桔梗石川野、椴法華、七飯町鳴川の高台等で尖底土器や早期の石器が発掘された。尖底土器の紋様は貝殻文や刻線文であり、大てい扁平隋円(だえん)形の自然石を打ち欠いた石錘が土器に伴出する。
 道南一帯から出土する前期のサイベ沢円筒下層式、中期のサイベ沢円筒上層式の石器、土器及び晩期亀ケ丘式の石器、土器も東北地方のものと同型式である。
 道南の石器時代の遺跡から出土する石器、土器と、青森県のものと比較して見ると、同一文化圏であったことがわかり、石器時代の昔から東北地方との交流が行われていた証拠である。
 戸井町にも道南各地と同様に、数千年以前から石器や土器を作り、使用した人類が住み着いていたのである。
 繩文期と名づけている時代を、大ざっぱに繩文早期、前期、中期、後期、晩期に分けている。繩文時代は晩期亀ケ丘式のもので終り、晩期から繩文がなくなり、次の時代は恵山式に代表される石器、土器の時代に移行した。恵山式土器に伴出する特徴的な石器は、石棒、石劒、魚形石器などであり、石鏃や石斧などは繩文期のものより薄手になる。
 続繩文期の恵山式時代から擦文(さつもん)式時代の移行し、蝦夷時代(アイヌの時代)にはいったのである。擦文式時代の人類は七、八百年乃至一千年以前と推定されているので、擦文式時代の人類は蝦夷との接点の人類であり、〓(かけ)橋になった人類というべきであろう。
 擦文人とアイヌ人とは、人類的にも文化的にも、密接な系統や関連があるということは、考古学界の定説になっている。然し擦文時代以前の繩文人とアイヌ人とは別個な人類であろうといわれている。
 繩文土器や石器を使用した人類はアイヌ人であるという常識は改めるべきであろう。
 道南の人々が、神代の昔のことと考えているコシャマインの乱は僅か五百年以前の事件であったことを考えれば、二千年、三千年の昔、或は数千年昔に、戸井を含めた道南一帯に住んでいた人類が、コシャマイン時代と同じようなアイヌ人であったということは考えられないだろう。
 石器、土器を見せると、殆んどの人々は「これは何年位前のものか」と質問する。「二千年前」とか「三千年前」と答えると、驚いて、信じられないというような顔をする。
 本州方面の遺跡や石器、土器は、考古学者が寄ってたかって調査し、発掘して、層位学的に型式学的に編年を決定し、或はラジオカーボンによる科学的な検査によって、何千何百年前のものと、稍々正確に判定し、各遺跡の編年も整っているが、北海道の石器時代の遺跡は大ざっぱなものであり、本州のものを参考にして編年を作っている。然し東北地方や道南の亀ケ丘式時代には、関西地方即ち都のあった地域は、歴史時代にはいっていたというように、文化は高い地域から低い地域に移行するという原則によって、都から離れている北海道の石器時代の文化も、九州や本州の中央部の文化よりも五百年も千年も遅れていたことが考えられる。したがって本州の石器、土器の層位や型式による編年をそのまま北海道に当てはめることは妥当ではない。
 いろいろな学者の書いたものを参考にして、戸井の遺跡や石器、土器は何年前かということを述べると
 
①早期尖底土器時代  四、五千年乃至六、七千年前。
  戸井からは尖底土器は出土していない。
②前期サイベ沢、円筒下層式時代三千年乃至四千年前。
③中期サイベ沢、円筒上層式時代二千年乃至三千年前。
  この時代の遺跡から出土する土器の型式を見ても、初期のものと末期のものとでは、一千年位の時代差があることは確かである。
④晩期亀ケ丘式時代  一千五百年乃至二千年前。
  繩文中期に続く、繩文後期の野幌式、前北式の時代もあったものと思われるが、その遺跡は戸井では発見されていない。
⑤続繩文期恵山式時代  一千年乃至一千五百年前。
 
 以上の時代推定には異論もあるだろうが、前にも述べたように、道南の晩期亀ケ丘式時代には、本州の中央部は既に歴史時代にはいっており、農耕文化時代にはいり、稲作も行われていた時代なので、本州地方の時代推定や編年を北海道にそのまま当てはめることは妥当ではない。
 石器時代から鉄器時代に移行するまでの北海道と本州との年代の差は、一千年乃至二千年の差のあることを頭に入れて考えなければ誤りを犯すようだ。北海道には青銅器時代がなく、石器時代から鉄器時代に移行した特殊な地域でもあったのである。
 
  〔石器時代の戸井の概観〕
①繩文前期(約三千年乃至四千年前)
 海岸段丘の縁が海岸線で、現在の海岸沿いの道路や人家の建っている地域が海底であった時代である。この時代には原木川、熊別川、戸井川、ヨモギナイ川、ウンカ川小安川、タカ屋敷川等の流域の海岸段丘に小集落をつくり、石器時代人が生活していた。桔梗のサイベ沢に円筒下層式の土器や石器を残した人類と同時代である。
 現在までに出土した土器は数量が少ないが、より糸文でサイベ沢出土のものと同じであり、石冠やその他の石器もサイベ沢の下層式のものと同型式である。前期の遺跡は殆んど中期の遺跡と重複している。サイベ沢は深さ五メートルに亘って発掘され、上層から中期の石器、土器が出土し、その下層から前期の土器、石器が出土したのである。
 東浜町の海岸段丘は前期、中期の複合遺跡であり、住居跡の一部も発掘された。
 
②繩文中期(約二千年乃至三千年前)
 この時代の遺跡も殆んど海岸段丘上にある。この時代は世界的に火山活動の活発な時代であり、徐々に土地の隆起が起り、海底であった沿岸が陸地になり、海岸段丘の下の海辺にも石器時代人が住むようになった。
 昭和二十六年、千代肇が発掘した熊別坂の遺跡は、中期円筒上層式で、貝塚があり、石器、土器の外に骨角器、獣骨などが出土した。なお熊別坂遺跡から硅藻土が発見され、ここが昔海底であったことが証明された。
 永田方正が「トイの語源はチェトイベツで、喰(は)み土のある沢である」という牽強付会(けんきょうふかい)の解釈をして無知な人々を迷わせたが、熊別坂から硅藻土が発見されたことから、「ここがトイの名の生れたチェトイベツだ」という妄説を唱えた者がいた。
 西浜町の〓金沢の畑地も中期の遺跡で、厚い層の貝塚があり、貝塚の端の底から川砂が現われ、この時代の川口と推定された。貝層の中から円筒上層式の土器や石器の外に、鹿の骨や角、鯨やその他の獣類、魚類の骨、ウニの殼などが多数出土した。又若干の骨角器や祭祀に使用したと推定される極めて小型の土器も出土した。
 東浜町の熊別川の左岸の海岸段丘は、昔から畑を耕やす時に多数の石器や土器の破片が出土していた。又段丘の縁から貝塚が露出していた。村人たちは石鏃や石斧などを拾い集め、土器の破片や石冠などは畑の縁に棄てて積み重ねていた。
 この遺跡を二度に亘って小規模な発掘を行ったが、殆んどが中期円筒上層式の土器や石器で、サイベ沢出土のものと同型式のものである。ここから出土した土器は、口縁部に大きな起伏があり、紋様も繩文の外に粘土のひもを口縁部に貼りつけ、竹管文や半さい竹管文をつけた雄大なものである。西浜町の遺跡から出土した土器は、口縁部が平らで変化の少ないものである。東浜町台地の縁の貝塚は、層が薄く貝層に包含されている石器、土器もその数が少ない。
 東浜町と西浜町の遺跡から出土した石器、土器を比較して見ると、同じ繩文中期の遺物だが、東浜町のものは千年程度古いものと思われる。
 
③繩文晩期(約一千五百年乃至二千年前)
 繩文晩期亀ケ丘式の遺跡が弁才町忠魂碑附近の畑地にある。この外、町内の海岸段丘の一段下の川沿いの地帯の各所に晩期亀ケ岡式の遺跡がある。
 繩文中期の末期には、激しかった火山活動が終り、陸地の隆起も終って現在の地形と海岸線になったものと思われる。この時代の後半には、本州西南部地方は既に歴史時代にはいり、弥生式時代に移行し、農耕時代に発展していたのである。
 亀ケ丘式時代は石器土器の製作技術が著しく進歩し、土器などは現代の陶器を思わせるような精巧なものがあり、繩文文化の円熟期と言われている。
 土器は薄手で焼成温度が高く、かめ、つぼ、浅鉢、深鉢、皿、高杯(たかつき)などいろいろあるが、前期や中期の土器と比較して小型である。
 住居は前期、中期は高台であったがこの時代は平地に移っている。
 
④続繩文期(約一千年乃至一千五百年前)
 この時代は道南では、恵山式或いは尾白内式と言われる石器土器である。道南の続縄文時代には、本州は青銅器時代に発展していたのである。
 昭和四十三年六月、道道の舗装工事の際、東浜町の宮川神社下の道路わきから出土した土器石器は続繩文期のものである。この遺跡には薄い貝塚があり、貝層から鹿、鯨、魚類の骨が出土した。
 繩文土器は晩期亀ケ岡式で終り、続繩文期恵山式の土器には数条を一束にした刻文の外に、並行山形文、波状沈線文などの紋様が施されている。恵山式土器は粗製で焼成温度が高く、比較的薄手である。亀ケ岡式の土器と比較すれば大型のかめが多く、考古学者は恵山式土器を堕落(だらく)形と称している。
 何年か前に東浜町の〓金沢家の附近で砂鉄を堀った時に出土した石器、土器も恵山式であった。戸井町の恵山式の石器、土器の出土する遺跡は殆んど海岸の道路沿いにあるが、現在は人家の建っている地域なので発掘不可能である。
 戸井町も恵山式時代から擦文式時代に移り、蝦夷時代に移行したのである。