函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第7編 宗教

第3章 現在の郷土の宗教

第3節 恵山火口原の霊場

 奇怪な様相を呈する溶岩の数々、噴煙を上げる噴火口(人々は大・小地獄と呼んだ)、水蒸気を吹きだす噴気孔、硫黄臭をただよわす赤褐色の火山石・地表を覆う白い火山砂…訪れた人々は、そこに、幼くして逝ったわが子らの冥界・賽ノ河原を見出した。
 
松浦武四郎も記した賽ノ河原
 「扨(さて)、是より登山するに、村中に華表(鳥居)有。是より九折を上る事しばし嶮坂岩角を攀て上るに、此処村の上凡三、四丁も上りて又華表有。越て九折を上ることしばしにして火焦石畳々として、其間に生ずる躑躅(てきちょく)(ツツジ)纔(さい)(わずかに)壱尺斗(ばかり)にして一面に生ひ、…中略… 峠中宮華表より五丁斗といへり。是より北平山にして南は上宮(恵山権現)なり。硫黄のかたまりし岩道の上行こと半丁斗にして、西院川原、世に云うごとし。多くの石を積み上げたり。此処より上宮に又道有。細き鳥居を越て上なり」
 松浦武四郎蝦夷日誌(巻之五)の恵山登山の記述の一部分(抜粋)である。この文中の西院川原は、現在の『賽の河原』のことである。武四郎が恵山を踏査した弘化3・4年(1846・7)には、この恵山火口原の冥界「賽ノ河原」はすでに存在し、広く人々に知られ訪れる人々も相当数あったと推察される。

賽の河原入口

 
賽の河原とは
 幼くして死んだ子供らの逝くところ(冥界)、三途の川の岸辺にあるという。仏教の経典にはその根拠はない。中世以降の日本人がつくりだした俗説といわれている。賽ノ河原石が幾重にも積み重ねられている。お参りの人々も一様に石を積んでいく。
 この冥界に逝きついた子供(死者)は、父母のために石を積んで塔を造る。すると風が吹いてきてそれを崩してしまう。子供はまた積もうとするが、今度は、傍らから炎が吹き出し石も河原も火の海と変わり子供は燃えて灰となる。そこへ地蔵菩薩が現れ灰を集め経文を唱えると子供はもとの姿に戻り、また、石を積みはじめる。この苦しみが9千年もの間続くという。この思想・宗教観は、子の親にたいする倫理観から生まれたという。子供は母の身体に苦しみを与え生を受けたのに、その恩に報いることなく早死し親を悲しませる。そのような不幸をなくしたいという倫理観から生まれた冥界だと考えられる。

供養の積石

 恵山火口原の賽の河原には、子を亡くした親たちの思いが託された石仏が、思い思いの場所に安置され参拝の人々が絶えない。
 尚、武四郎の前出蝦夷日誌には、日浦海岸にも「小石を多く積みて西院川原とも云うべき処あり」と記している。