函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第5編 交通・通信

第1章 交通

第7節 明治・大正期の交通

5、明治末頃の尻岸内村の道路状況

 明治も末ともなれば渡島地方もすでに鉄道建設に突入していた。
 函樽鉄道株式会社の設立が認可されたのが、明治30年4月28日、翌31年1月15日、峠下を起点に線路の実測を開始。不況により起工は明治35年6月にずれ込んだが、同年12月には函館・渡島大野間、36年6月には森まで、明治37年10月15日には、遂に、函館・小樽間が鉄道で結ばれている。
 このような状況の中で、道庁はなおざりにしていた地方道にも着手せざるを得なかった。
 太田留治村長から堀良彦村長への、事務引継書には、函館(湯川村)尻岸内間の道路工事計画について次のように記している。
 
 「湯川村尻岸内間道路開鑿ノ件ニツイテ右測定線路調査トシテ本年(明治四十二年)三月二九日、道庁技手沢連蔵及ビ函館支庁技手佐藤良行出張ノ上、尻岸内ニ係ル線路敷地ニ対シ、建物等ハ工事起工上支障ナキ様取除クニアラザレバ起工不相成旨ヲ告ゲラル。依テ尻岸内有志トシテ高橋常之助及ビ浜田栄助ノ二人ニ対シ意見ヲ徴セシニ、支障物件ハ取除ク事トシ、其旨出張官吏ニ答申、而シテ本線路ニ対シ室蘭出張所ヘ尻岸内部落ニ関スル測量図面回付方及ビ幅員ヲ取調ノ件至急照会之ヲ得テ、右ニヨリ(具体的内容が記されていたと思われるが、その文書は欠落している)、実地ニ徹シ支障建設物ハ除去セシムルニ有之。」
 
 しかしこの計画も変更になったようで、その後、この道路建設に関する記録は見当たらない。理由は不明である。
 そして、当時の下海岸の道−とりわけ尻岸内村近辺−の悪路については変わることなく、新聞にもしばし取り上げられている。
 『函館毎日新聞(現北海道新聞)』明治43年8月20日付のコラム『はがき』
 以下、その一節であるが、悪路の状態と村役場の取組みについて風刺文が載っている。
 
 ▼椴法華尻岸内間の道路の悪かったこと、実に驚かざるを得なかった。数箇所に川が有るのに何れも丸木の一本橋で捨置くので、此間を往復する旅人、逓送人等(郵便配達夫)の困難実に意想外にある。此程、函館司令部の砲兵行軍があるというので、各役場共、今更気付いたように、ソラ大変と村内総出の人夫を以て工事に着手しつつある。此具合なら砲兵の行軍は、何とかして年に一度位あってほしい。(晃星爺)
 
 国・道庁の道路計画は遅々として進まず、また援助も十分でなければ、たとえ村の財政は乏しくとも村内の生活道路の維持は、自分達の手によって行わなければならなかった。
 明治44年8月、湯の川尻岸内村字古武井間の車馬通行が可能になったのを機に、同45年、尻岸内村は道路掃除の細則を定め、道路・橋梁は公の施設であるという意識を喚起し、官民が力を合わせて、組織的日常的に道路の維持に当たることを促した。
 
  『尻岸内村道路掃除規則』(明治四五年)
 第一条 管内道路ノ掃除ハ毎年二回必ズコレヲ施行スル。但シ施行区域ハ左ノ如シ
    第一区 自戸井村境至尻岸内山頂中央
    第二区 自尻岸内山頂至字女那川渡場
    第三区 自字女那川渡場至字古武井境(目下木標の建てある処)
    第四区 自尻岸内小学校裏至字荒砥(現尻岸内川沿林道)
    第五区 自字女那川境至根田内境
    第六区 自字古武井浜中至古武井複線(現古武井川沿林道)
    第七区 自字古武井境至椴法華村境
 第二条 道路掃除区域毎ニ道路掃除組合ヲ設ケ組合員ハ区域内ノ現住者ノ戸主トス。
 第三条 道路掃除受持区域ハ組合毎ニ組長壱名、副組長壱名ヲ置キ村長コレヲ選任ス。
 第四条 組長及副組長ハ名誉職トシ其任期ハ二ケ年トス。但満期後再任スルコトヲ得。
 第五条 道路掃除区域ハ別記様式ノ標杭ヲ建設スベシ。
 第六条 道路掃除ノ仕様ハ汚物及障害物ノ取除雑草ノ刈払、下水ノ排水浚渫等トす。受持区域各戸一人ノ不役ヲ以テ之ヲ執行ス。
 第七条 掃除執行ノ際道路橋梁等ニ破損アリテ修繕ヲ要スルトキハ、其里程ニ対シテハ予算ノ範囲内ニ於テ適宜ノ修繕ヲ為スモノトス。
 第八条 道路掃除ハ毎年春秋二季之ヲ行ウモノトス。但シ本条ノ定季外ト雖モ伝染病流行、其他必要ト認ムル時ハ村長ニ於テ臨時掃除ヲ命ズルコトアルベシ。
 第九条 掃除執行ノ日時ハ村長ニ於テ之ヲ予定シ各受持区域組長ニ通知スルモノトス。但シ通知等ノ為メ使丁ヲ要スルトキハ掃除出役人夫ノ内ヲ以テ充ルコトヲ得。
 別 記 〈様式〉・四角柱  地上三尺以上・地下二尺以上
    〈標柱〉・前 面  尻岸内村字何々掃除区域標
       ・左右両側 方位字何々迄何間
 
 このように市町村は、それぞれ行政区域内の道路改良工事を施行したが、この工事費に補助金が交付されるようになのは、10年以上も経た大正13年からであった。