函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第5編 交通・通信

第1章 交通

第7節 明治・大正期の交通

3、明治初期の尻岸内村の道路行政

 開拓使が拓殖計画の第一に取り上げた道路開削、札幌本道(函館・札幌間陸路177キロメートル)の開削が、巨額の資金と御雇外国人の力を借り多くの労働力の投入により、工事開始以降、わずか1年3か月余りのスピード完成をみせるが、一方、集落の多い地方道については手付かずの状態が長く続いた。とりわけ原木の岸壁・柱状節理に阻まれる郷土尻岸内村については、昭和の世まで日浦峠の山越えや寄貝歌のハナコグリ(急斜面のためハナをこするの意)の道など、松浦武四郎が辿った道、そのままの状態であったといっても過言ではなかった。
 開拓使の行政は、地方の人々が1番期待する道路の開削はなかなか進まなかったが、制度上の改正−施設の名称変更等は何度か行っている。これらについて『新撰北海道史』には〈明治2年〉「これまでの通行関係の制度、旅人通行のための責任所であった運上所を本陣と運上所脇の宿所を脇本陣と改め、交通上の一切の世話はここで行う」とある。
 この運上所は松前藩時代、運上屋と称されており幕領時代に運上所と改められた。箱館奉行直轄の村々では、運上所会所と呼び「名主事務所が置かれ行政の中心」であった事は先述の通りである。明治初年の頃の郷土尻岸内村の実態はどうであったろうか。
 尻岸内運上所会所、本陣と改称されたが従来通り名主事務所がおかれ、名主増輪半兵衛が村政を司っていたし、脇本陣に当たる宿所については、尻岸内本村の野呂利喜松が管理経営していたものと、根田内村の淡路屋三好又右ヱ門が管理経営していたもの2か所となっており、これらも従来から存在していたものである。
 この脇本陣も明治2年5月には「旅籠屋」、1年後にはさらに「駅場」と改めている。名称の変更のねらいは定かではないが、北海道開拓の重要課題として新道の開削・旧道の改修を進めていた開拓使は、併せて、制度改革ー施設の改称を通し、開拓使の行政を意識化させる狙いがあったのではないかと推測する。
 
 尻岸内駅・駅逓制度の実態
 
 尻岸内
  渡島茅部尻岸内村、函館ヨリ森駅ニ至ル東海岸ノ道路ナリ。
 ・本駅設置年号不詳、松前藩支配ノ節ヨリ村役人自宅ニテ取扱、諸入費村費トス。
 ・隣駅へ達する距離
  本駅ヨリ渡島茅部椴法華駅江三里弐拾七町拾六間、山道ニシテ嶮難ナリ。同国同郡戸井村駅弐里拾四丁三拾間、内二里ハ山道ニシテ其余ハ海浜又ハ平野トス。本駅設置以降道路修繕等不詳、只明治七年中道路ヲ実測シ明治八年三月、椴法華村江ノ山道ヲ修繕ス、但シ尻岸内椴法華ノ民費ヲ以テ支払ス。
 ・駅逓取扱人並給料
  松前家支配ノ節ヨリ本村書記役ヲシテ兼務セシムヲ以テ別役手当給料等ヲ給スルナシ、其沿革ハ詳ナラザルヲ以テ記載スル能ハズ。
 ・駅馬
  従来ヨリ村民所有馬ヲ以テ継立別ニ駅馬ノ備ナシ。
 ・人馬賃銭
  明治三年二年公私用人賃銭ノ区別ヲ立テ、公用ハ人足壱人壱里弐百三拾文、馬壱疋壱里弐百五拾文。其後ハ相対人足壱人壱里五百七拾五文、馬壱疋壱里六百弐拾五文トシ、其後人足平常壱里金四銭、至急ハ金六銭昼夜兼行ハ金八銭、馬ハ壱疋金六銭山道嶮難ノ場所ハ低賃銭江五割ヲ増ス。
 ・荷物貫目(一貫は三・七五キログラム)
  明治二年十月馬壱疋荷物拾八貫ヲ限リ、其後人足壱人七貫目、壱疋ハ弐拾貫目トス。明治十二年十月以後ハ前駅ト異ナルナシ。(明治十二年十月以後、馬壱疋弐拾五貫目マデトシ、弐貫目毎ニ一割ヲ増シ。人足壱人持ヲ七貫目トシ、七百目毎ニ一割ヲ増ス。其毎年十一月十五日ヨリ翌年三月十五日マデハ五分ヨリ少ナカラズ五割ヨリ多カラズ割 増ヲ収入ス)
 
 舟渡場
  本駅ヨリ里程凡拾五丁ニアリ。女ノ子内川戸云ウ、渡頭凡拾五間(二七メートル)ナルモ、出水ノ節ハ殆ド之ニ倍ス、椴法華村江ノ通路ニ関ル渡舟ヲ営業スルモノアリ。男女共壱人ニ付金八厘トス。
 ◎この尻岸内川の舟渡場について『現今北海道要覧』(明治十三年刊・村尾元長編)には「メノコ内川渡賃、人八厘、馬四銭」と記されている。
 ◎また、この舟渡場を渡った時の状況について『平野弥十郎幕末・維新日記』東京丸の遭難の項には次のように記している。
 「…猶六七町地方へはしり行けるに、一筋の川有りて、丸木舟一艘有りて、アイノ(ママ)の親父一人居り、依て地名を問うに尻岸内なりと言により…中略…其川を丸木舟にのり、向の岸より此方の岸へ引張り有る藤づるをば、手繰りて向へ渡り越し…」
 
 古武井駅(船着き場)
 ◎明治五年、録 古武井駅と記した榎本武揚の漢詩が残る。

[詩]

 
 郵便局
  五等郵便局アリ、明治十年二月中開設ス。また本駅所管ノ中、支村根田内村ニアリ明治八年開局ス、但五等郵便局ナリ。