函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第5編 交通・通信

第1章 交通

第7節 明治・大正期の交通

2、開拓使の道路建設

 戊辰戦争後の処理も何とか果たし、開拓使が北海道の行政府としての最初の事業が『札幌本道』の建設であった。すなわち、これは、ただ単に開拓使が建設する道路ということだけではなく、新政府が国民にその威信を示す一大事業でなければならなかった。
 札幌本道の計画は、明治4年1月開拓次官黒田清隆自らが渡米、グラント大統領に直接交渉し招聘した時の農務長官ホーレス・ケプロンの意見−「東路ハ速ニ築造セラレンコトヲ勧ム」(報文)−を受入れたことからも、その意気込みが読み取れる。
 この道路建設の当初は、亀田一本木(現在の函館市若松町)を起点に、軍川(七飯町字軍川)を経て砂原に至る陸路と、砂原から室蘭に至る海路、室蘭から有珠(伊達市有珠町)、定山渓を経て札幌に至る陸路という構想を持った。
 前項(1)で述べた明治3年7月の東本願寺大谷派門徒らによる、軍川・砂原間、平岸・伊達間の新道切開は、この構想を先取りしたものではないかと推察する。
 明治4年(1871年)9月、ケプロンと同時に招聘された地質・化学技師アンチセル、測量・道路築造長ワーフィールドらによって、函館から札幌間の地形や港湾(予定地)の踏査が行われ、〈第1工区〉函館から森までの陸路、〈第2工区〉森から室蘭までの海路、〈第3工区〉室蘭から鷲別、豊平を経て札幌までの陸路、とすることに決定し、着工されることになった。

完成した札幌本道(現国道5号線) 亀田橋より函館山を望む(明治6年)(北大図書館蔵)


札幌本道 亀田・桔梗野の埋立てのようす(明治5年)(北大図書館蔵)


峠、無沢の山道堅石切崩工事(明治5年)(北大図書館蔵)


峠下旧本陣(旅館)(明治5年)(北大図書館蔵)


無沢茶屋付近から嶺(峠)へむかう計画線(北大図書館蔵)


馬立場旅舎(赤井川)(明治5年)(北大図書館蔵)

 明治5年1月、芝増上寺内の開拓使において、開拓少判官榎本道章を総括責任者(同年3月より函館・札幌間新道建築掛長)とし、執行予算、建設資材・用具、各種工事技術者、宿施設、人夫・食料などの準備が整えられた。そして、開拓使北海道新道(札幌新道)建設掛り官員・御雇外国人メジョル・A・G・ワーフイルド(陸地測量兼道路築造長)らの外国人及び諸職人・人夫ら関係者400余名は、同5年2月29日、海軍省所属の東京丸に乗込み、晴天の夕刻東京品川沖を出帆函館へと向かった。船は銚子灘を打過ぎ宮古に入港乗組員一同休憩をとり順調に北上したが、下北半島尻屋崎を回ったあたりから濃霧が発生、東京丸は進路を見失い、3月2日早朝、尻岸内女那川沖に座礁・沈没してしまう。
 しかし、積み荷の殆どは流失したものの幸いにして1人の死者も怪我人も出さず、2,3日後には体制を整え、陸路日浦峠を越え途中1し、3月5・6日には乗員の殆どは函館に到着している。これも東京丸が総トン数1400トン(全長73メートル・幅10メートル)の整備したばかりの船であったこと、座礁した地点が比較的陸地に近かったこと、そして、何よりも郷土尻岸内村の人々の献身的な救助活動があったからと推察する。なお、月日は旧暦である。以下に、東京丸遭難者が避難した家々を記す。

破船東京丸乗組御人数御宿調書

 札幌新道建設掛り官員は、3月5・6日、函館に到着後、直ちに早船、早馬を仕立て東京へ使者を送り遭難の報告、2番3番船(物資の補給)を早急に要望し、寺院や芝居小屋に宿させていた職人・人夫らには土木用具づくりをさせ新道開削の準備に取り掛かった。そんな非常事態の中でも、陸地測量兼道路築造長の御雇外国人メジョルは、3月9日、亀田一本木(現JR函館駅付近)より測量開始を始める。それに触発された官員らは取りあえず市中より必要な農工具を買い集めるなどし、明治5年3月18日、開拓使最初の一大プロジェクト『札幌本道』の開削が亀田一本木壱番杭より着手された。
 そして、明治5年4月には、七重・峠下・宿野辺・森に工事派出所と病院を、峠下には宿所(ホテル)が設けられ、工事は順調に進み、同年7月10日、森村波止場まで開通した。開通した新道の里数は次の通りである。
 第2工区の森から室蘭までの海路、森村波止場築造は、引き続き7月初旬に工事を開始し、同年11月4日に竣工している。この波止場は木製で、全長75間(136メートル)翌年には100間(182メートル)に延長、上幅20尺(6メートル)、杭の間に石を詰め海岸より北北東へ25度の角度で築出させた。ここより、新室蘭(トカラモイ)まで、海上凡10里(約40キロメートル)、小蒸気船の弘明丸・稲川丸が運行した。
 なお、この波止場に用いた木材には、当時、工事視察に訪れた榎本武揚の指導で、森町の鷲の木の沼に湧出している石油を採取し、防腐剤として塗布した、とある(『平野弥十郎幕末・維新日記』桑原真人・田中彰編著・北海道大学図書刊行会 2000・2・29)。
 
 新道地名里数略 〈第1工区〉函館から森までの陸路
 一、函  館
 一、鶴岡町 (現函館市大手町) 函館高札ヨリ 十四丁半
 一、一本木町( 同  若松町) 前所ヨリ   弐十四丁
 一、亀田村 ( 同  亀田町) 同 ヨリ   壱里
 一、石川村 ( 同  石川町) 同 函館ヨリ 壱里三十丁
 一、桔梗野 ( 同  桔梗町) 同 ヨリ   壱里
 一、大川村 (現七飯町大川)  同 ヨリ   三里
 一、七重村 (現七飯町)    同 ヨリ   四里
 一、富士山郷( 同  藤城)  同 ヨリ   五里
 一、峠下村 ( 同  峠下)  同 ヨリ   五里半
 一、無 沢 ( 同   同)  同 ヨリ   六里六丁
 一、山 道 ( 同   同)  同 ヨリ   七里
 一、蓴菜沼 ( 同 西大沼)  同 ヨリ   七里廿丁
 一、宿野辺 (現森町赤井川)  同 ヨリ   八里
 一、赤井川 ( 同   同)  同 ヨリ   八里十二丁
 一、清水川 ( 同   同)  同 ヨリ   九里十二丁
 一、追 分 ( 同   同)  同 ヨリ   十里廿二丁
 一、森 村 (現森町)     同 ヨリ   十壱里十七丁 
                但し波止場マデ(四五キロメートル)
 
 第3工区の室蘭から鷲別、豊平を経て札幌までの陸路は、森村波止場と同じく7月初旬、室蘭壱番杭より工事開始、10月30日には、島松布(しままっぷ)(恵庭市広島町)3千700番まで、里数にして28里5分3厘(約110キロメートル)の開削をし、この年の工事を終える。
 明治5年3月18日、亀田一本木より工事開始し、同年10月30日島松布(しままっぷ)まで、札幌まで6里半を残し札幌本道主要部分の〈陸路〉39里2分6厘(約154キロメートル)が開通した。そして、翌、明治6年工事再開、6月28日、遂に函館と札幌間が結ばれた。
 この工事に従事した諸職工・人夫は、直雇と請負人を通して東京・伊豆・木曽・日光・南部などから雇い入れ、又、土方夫は鹿児島からも集められ、それぞれ技量試験を通し採用された。明治5年の雇人員、5,389人(『開拓使事業報告』)とある。
 函館から島松布の新道建築費用(森波止場を含め)51万3,498円18銭8厘2毛、総工事費、函館・札幌間、森・室蘭の波止場、銭函新道、補修費、84万3千円余である。 明治6年(1873年)7月20日全長開通、およそ45里(約177キロメートル)、開拓使の存在を示すこの新道は『札幌本道』と名付けられ、翌、明治7年には開削を記念して『北海道新道一覧双六』が作られたのである。
 『札幌本道』の開通に当たっては、建設一番船『東京丸』の遭難を、村の総力をあげて救助した尻岸内の人々がいたことを、忘れてはならないであろう。
〈資料編〉1、東京丸遭難顛末書