函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第4編 産業

第2章 漁業

第1節 江戸時代の漁業

 前記の『蝦夷商賈聞書』『松前国中記』『箱館六ケ場所調べ』等に見るように、また、『箱館御収納廉分帳』の「諸役(課税)」が示すように、数ある水産物のなかにおいて、収獲量の多いこと、あるいは価格の高いことから、六ケ場所・郷土の漁業の主体はなんといっても昆布にあった。また、六ケ場所の昆布は常に高い品質をほこってもきた。そして、それは現在でも変わりはない。ここでは、江戸時代、郷土に繁栄をもたらした昆布について取り立てて述べてみたい。
 
昆布の名称
 日本の歴史の上で昆布に関わる文字が出てきたのは、『続日本紀(しょくにほんぎ)(797年、藤原継繩ら一部を撰進)』に715年(霊亀元年)蝦夷の酋長須賀野君古麻比留(すがのきみこまひる)が朝廷に先祖代々夷布(えびすめ)を献上とあるのが最初である。この「夷布」とは「昆布」のことである。また、760年(天平宝字4年)、東大寺正倉院文書『小波女進物啓(おはめしんもつけい)』に「昆布一把」と記されている。昆布の名称については、918年(延喜18年)、唐の「新修本草」を典拠とした植物・薬草辞典『本草和名(ほんぞうわみょう)』に、昆布は『綸布(くわんぷ)』が訛ったもので、この綸とは縄とか青い紐とかいう意味である、とある。また、931~938年(承平元~8年)源順著の『倭名類聚鈔(わめいるいしゅうしょう)』では昆布に「比呂女(ひろめ)・恵比須女(えびすめ)」と万葉仮名を当てている。ヒロメは「広布」エビスメは「夷布」とも表記され、当時、これらの言葉は混同して使われていたようである。広布は葉のひろい形状から、夷布は産地が蝦夷地ということから名付けられたのであろう。
 こんぶが「昆布」と表記され「コンブ」と呼ばれるようになったのは、平安末期以降、今から800年位前からである。
 なお、アイヌ語研究で知られる永田方正(1838~1911年、国文学・歴史家、『北海道蝦夷語地名解』編纂)は、昆布は「コムブ」の転訛で漢名でも和名でもなく「アイヌ語」であるとの説をとっている。永田によれば、水中の石上に生ずる草(昆布)のことを「コムブ」という。また、髪の毛の逆立った状態を「コンブルル」と言い、それは昆布の海中にある状態からの形容であるともいう。また、「引く事」を「コムレ」といい、「昆布を引くこと」からでた言葉だとも言う。有珠郡に「コムブ」という地名がある。
 昆布の生育地が、南部・津軽地方の沿岸以北、主として北海道であること、また、昆布の採取が、まず、先住民族であるアイヌの人々によって行われていたことなどから、「昆布」の語源は、やはりアイヌ語にあるように思われる。また、この名称を探るだけでも、昆布が古い時代から、われわれの生活に深い関わりを持ってきたことが理解できる。
 
古文書・古記録に見る道南の昆布
 昆布に関わる記録について、年代を追って挙げて見る。
 
1334年(元弘4)『庭訓往来(ていきんおうらい)』より
 これは、「往来(おうらい)もの」と称する当時の初等教科書で著者は、建武中興の頃の知識人『僧玄恵(げんえ)』と伝えられている。この書は、正月から12月までの往返の手紙の中に衣食住・職業・日常生活等の知識を盛込む形式で、その中の4月状返に商取引の施設と商品が述べられおり、諸国の産物の1つとして『宇賀(うが)の昆布』が記述されているのである。
 庭訓往来は当時の初等教科書である。といってもこの教科書で学ぶ層は、ごく限られた支配階級や富裕、知識人といった層であった。そして、これらの人々にとって遠い蝦夷地で採れる食材の『宇賀昆布』は、すでに一般的な知識・常識、つまり食べられていたということである。因みに、他の国の名物としては、『越後の塩引・隠岐の鮑・周防の鯖・近江の鮒・淀の鯉・備後の酒・和泉の酢・宰府の栗・松浦の鰯・筑紫の穀』などが挙げられている。この中には現在(いま)でも名物として知られているものもあろう。
 また、この時代の能狂言59番集に『昆布売(こぶう)り』という演目が載っている。これも、『庭訓往来』同様『玄恵(げんえ)』の作といわれている。能は中世芸能で、観阿弥、世阿弥父子により形作られた舞踊と劇の要素を含む象徴的な歌舞劇として、狂言はその滑稽な、あるいは卑俗な部分を劇化したもので、本狂言として能の曲中で上演され人々に広く親しまれた大衆芸能である。能・狂言は今日でも伝統芸能・古典芸能として高い評価を受けている。
 なお、『昆布売(こぶう)り』は現在でも本狂言の演目で上演されている。粗筋を次に記す。
 
 北野の御手水(おちょうず)(京都・北野神社で神前に清水を供える祭礼)に1人出かけた大名は、自身携えた太刀を誰かに持たせようと待っている。そこへ、若狭の小浜(福井県小浜(おばま)市)の昆布売りが通りかかる。大名は昆布売りを道連れにすると、刀の柄に手をかけて強引に太刀を持たせる。ところが、昆布売りは大名の油断を見澄まして急に太刀を抜いて脅し、まず小刀を取り上げてから昆布の荷を突き付け「売れ!」と命じるのである。太刀を目の前に大名はやむをえず昆布売りの言うがままに、謡節・浄瑠璃節・踊り節の売り声で謡い舞い続ける羽目となる。(2001年上演 シテ野村万作・アド野村萬斎より)
 
 庶民である昆布売りが、昆布を食している裕福で権力者の大名に昆布売りをさせ(昆布売りと観客が)溜飲を下げる、という狂言のテーマから当時の昆布の価値が推察され、また、若狭小浜が鎌倉時代からコンブロードの拠点であった事も理解できる内容である。
 
1643年(寛永20)編纂『新羅之記録』より
<当時の昆布漁のようす>
 『新羅之記録』は4代目松前藩主氏広が、幕府の命により叔父の景広に編纂させたものであり、その中に、1640年(寛永17)6月17日に起きた駒ケ岳の噴火と大津波の災害状況が記載されている。世にいう「寛永の噴火・大津波」である。
 この中に、昆布漁に関わる事項が記述されている。以下抜粋する。
 
 「六月十三日、松前之東内浦之東内浦之嶽俄尓焼崩其勢滄海動揺而〓滔來百餘艘之昆布取舟之人残少所〓而〓死畢」とあり、この文書を意訳すると「1640年(寛永17)6月13日、駒ヶ岳が突然噴火して大津波(〓)がおこり、百余隻の昆布取舟に乗っていた人々はことごとく溺死した」となる。
 さらにこれに関連して、『松前年々記』には「津波は商船の和人、蝦夷人合わせて7百人余りが溺死した」と記され、『福山舊記録』にも「津波、商船・夷舶夷船、船人数7百余人溺死」と記されている。文中の商船とは、昆布採取の出稼ぎ、あるいは商(あきな)いに来ている和人の船で、夷舶夷船は、アイヌの船(チップ)と解される。また、両書とも和人、アイヌ合わせて7百余人溺死とある。和人の溺死人数は定かではないが、昆布漁の人々が相当数溺死したことは事実であろう。
 この記録から、昆布漁は、1600年代に入ると下海岸から陰海岸にまで広がり、アイヌの人々と相当数の和人達が盛んに行っていた様子が窺える。
 
1716~36年(享保年間)『蝦夷商賈聞書』より
昆布の生産地>
 享保年間(1716~36)の著作といわれている『蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)』には、下海岸から噴火湾沿岸が昆布の生産地であることが明記されているので、これを抜粋する。
 
一、トヱト申地、佐藤加茂左衛門殿御預り、出物「赤昆布」「ウンカ昆布」と申す大名物(だいめいぶつ)、「黒昆布」「シノリ昆布」、フノリ、秋の猟ハ鮫・鰤……小船ニ而箱館江通由
一、シリキシナイト申地、木村与右衛門殿御預り、出物類、右同断也(産物は戸井と同じで昆布等)……箱館者共支配候、是も小船ニ而度々通由
一、イキシナイ(女那川)并コブイ、この両所、御家老蠣崎内藏丞殿御預り、出物類、右同断也(産物は尻岸内と同じで昆布等)箱館者共運上ニ申請支配
一、トトホッケよりオサツベ迄一〇里バカリ、此間蝦夷村沢山あり、「昆布大出所也」新井田兵内殿御預り……二百石バカリ之小船ニ而度々箱館江通由
一、臼尻よりマツヤト申所迄、志摩守様(藩主)江運上金揚げる、出物は「昆布バカリ」小船ニ而村々より箱館昆布積通由
一、カヤベト申地、北見与五左衛門殿御預り、鯡数子「昆布」夏の出物……亀田村ト申所ノ者共年々商売仕候
 
 以上のように、トイ・シリキシナイ・イキシナイ・コブイの下海岸一帯では、産物「赤昆布・ウンカ昆布・シノリ昆布・黒昆布」と採取されている昆布の銘柄名までも記されており、陰海岸一帯(噴火湾沿岸)のトドホッケからマツヤ(マツヤ崎)までは「昆布大出所也」「出物昆布バカリ」と、銘柄は記されていないが昆布が主産物であることが記録に残されている。また、これらの昆布箱館や亀田の商人たちによって、箱館の港に集荷されていたことも合わせて記されている。
 
1717年(享保2)『松前蝦夷記』より
 昆布の主生産地については、前記の『蝦夷商賈聞書(えぞしょうかもんじょ)』に合わせて、享保2年(1717)に書かれた『松前蝦夷記』にも「昆布は、東郷亀田村の志野利浜(函館市志海苔町)というところから東蝦夷内浦岳(駒ヶ岳)前浜間(鹿部~砂原)までの海辺20里の間で取っている」とある。また、「献上昆布は、志野利浜と宇賀というところから採れるものが特別品質がよいので、そこから採る」となっている。世にいう「宇賀昆布志海苔昆布」のことであるが、このことについては後述する。また、これより20年ほどを経た元文年間(1736~40)に書かれた『蝦夷行記』には、昆布の生育地について「昆布は西海路(日本海側)にはなく、東海路、箱館の外海より蝦夷地(下海岸から陰海岸)へかけて4、50里の間昆布の場所あり」と記しており、昆布の生産地が広がってきていることを示している。
 
昆布の銘柄、赤昆布青昆布
 当時の採取昆布の種類については、赤昆布・本赤昆布青昆布・切昆布・細昆布等の名称をみるが、赤昆布青昆布について『松前蝦夷記』には次のように記述されている。
 「赤昆布は生の内から色が違い、紅ウコンのような色で、両脇(耳)が笹の葉のように青く、赤と青の間で、本(もと)から末まで黄色の筋が通っているという。これを吟味して献上昆布にする」という。「本赤昆布というのは、普通の青昆布のうち千枚に1枚もない。青昆布は沢山あるが、この青昆布もいろいろな段階に分けられている。本の良いところだけを見ると赤昆布のようで、昆布を良く知らない者はこれをも赤昆布だと思う。尤も普通の商売では、これを赤昆布と称している」という。また、「切昆布というのは、本の良いところを除く、末の細く薄いところを切り取ったものをいう」末昆布とも呼ばれていた。
 赤・青昆布が東在(下海岸、陰海岸)で採取されるのに対して、細昆布というのは、西在(日本海側)で採れる、幅が狭く丈が短い下等な昆布で産額も少なく、昆布役も課せられず採取は自由であった。
 
1692年(元録5)8月の亀田奉行定書(松前福山諸掟)より
昆布の保護策と役(課税)>
 上記亀田奉行定書に昆布の保護策として、次の事項が記されている。
 
一、昆布取場江他国より直ち船来候はば、人遣シ其船留置様子早々可申越候……
一、昆布時分より早く新昆布商売候義堅ク命停止
 
 前項は、他国船が来て密採取・密売買をするのを防止し、後項は、いわゆる「走り物」の需要に対して若生昆布の乱獲を防ぐ、あるいは成長を促し良質の昆布生産を図る狙いを持ったものと解される。昆布が松前地住民にとって重要な産物であり、松前藩の主たる財源であることから、藩は早くからその<保護策>をとるとともに、また<税法>も定めた。
 
・1717年(享保2)の『松前蝦夷記』には昆布役(課税)について記述されている。
 亀田地方(東在)の「村民1戸につき、元昆布13駄と定められ、このなかの半駄は献上用の赤昆布。また、西在・松前地方から亀田浜へ出稼ぎする者は、家役として切昆布25駄と赤昆布50枚、船役として、1艘につき切昆布5駄と赤昆布50枚納めることになっていた。これは、家・船の大小に関わらず1律と定められていた。また、昆布は高価な物産であったのでいずれも物納であった。(なお、ここでは長さ3尺、約90センチメートルの昆布50枚を1把とし、4把で「1駄」としている)
 
・1800~1820年(享和・文化・文政年間)・前期幕領時代の昆布役(課税)
 この時代になると昆布役は種類が多く、旧記に散見するのを一括すると次の如くである。
 
尻沢部(函館住吉町)より小安(戸井)まで
 浜 役 七駄  (文化年間より金納を許す・一駄に付 銭一〇〇文)
 家 役 一三駄半(同  ・同銭 八〇文)
 菓子昆布 一駄
瀬田来(戸井)より鹿部まで(尻岸内領、日浦・尻岸内古武井・根田内)
 浜 役 四駄  (同・一駄に付鹿部は一二〇文、その他一五〇文)
 家 役 一三駄半(同  ・一駄に付 銭 八〇文)
 菓子昆布 一駄 (同  ・代銭 八一二文)
 御上り昆布 一把(同  ・同 五二〇文)
砂原より野田追(八雲)まで
 浜 役 四駄  (同  ・一駄に付 銭 八〇文)
 家 役 一三駄半(同  ・同銭 八〇文)
昆布船役 有川(上磯)より木古内まで
 図合船 一艘に付 一貫二〇〇文
 三半船  同     九〇〇文
 持夫船  同     六〇〇文
 中遣船  同     一二〇文
    *船役は規格により定められ金納であった。
 
 昆布に対する役(課税)は、前期幕府領時代も物納が原則であったが文化年間以降、ほとんどが金納化されたようである。課税は地域差、生産性あるいは品質等考慮し定められていたもようである。菓子昆布・御上り昆布とは、ともに最上級の昆布で課税も相当高額である。また、これを見ると、瀬田来(汐首岬以東)から鹿部間での磯はやはり上質の昆布生産地であったことが窺える。船役については、有川から木古内とあるので、いわゆる入稼税のようなものであったと思われる。
 
1804~1817年(文化年間)松前産物大概鑑の記録・価格より
昆布の製品と価格>
 昆布への役は高額であり種類も多く、また、物納が原則であったことはそれだけ昆布の値段が高く、商売上のうまみ、儲けも相当あったからだと思われる。
 『松前産物大概鑑』によれば、昆布の製品と値段について次のように記録されている。
 なお、この文書は1807年(文化4)以降、前期幕領時代の海産物について、阿部屋(あぶや)、村山伝兵衛が松前奉行に報告した内容の控えであり、市立函館図書館の解説書では、文化年間(1804~1817年)の記録とされ、又、下げ札については「松前町史」に弘化2年頃(1845)の加筆とされている。
 
 「昆布類之部」
一、シノリ昆布、直段 壱把に付き 銭百五十文位
 ・是ハ、幅壱尺位長サ四間五間位之昆布五枚結、或者(あるいは)短尺之方者(は)十枚結ニ御座候是を壱把と唱へ申候
一、三ツ石昆布、直段 砂金十匁、此銭六貫文に付 め方八十五貫匁位(三一八・八キログラム)
 場所売付、小判一両ニ付 め方百二十貫匁位(四五〇キログラム)
 ・下げ札 近年者追々高値に相成候間、百石目ニ付金六拾三四両程自五拾六七両 夫より四拾五六両迄ニ売買仕候
 ・是ハ、東蝦夷地ミツイシ・シツナイ・ウラカワ・シヤマニ・ホロイツミ・アツケシ郡而ミツ石昆布ト申銘目ニ御座候、右出高ニ寄直段少々違モ御座候 昆布細ク壱把之め方四貫五百匁位壱丸ニ御座候
一、元揃昆布、直段 壱把に付き 銭弐百文位自弐百五十文位
 ・是ハ、壱把五拾枚結、三所結トモ申、長さ五尺位ニ折五十枚を三所結申候
一、江差昆布、直段 砂金壱匁、此銭六百文に付 八拾駄位迄
 ・是ハ江差近在自出産、壱駄と申ハ小把四把ニ而 め方七〇匁位。東西に出産
一、雑昆布、直段 壱丸め弐貫弐百匁位ニ而 銭ハ拾文位是ハ長崎俵物買込ニ御座候。
 ・下げ札 是者御料中ニ追々唐方向ニ相成候ニ付其後ヨリ当時共に長崎御用買上ケ無御座候。
一、赤昆布、直段 壱把に付き 銭百五十文位
 ・是ハ、五拾枚結、長さ弐尺ニ折弐所結ニ而壱把ニ御座候。
一、若和布(ワカメ)、直段 目形 拾貫匁ニ付 銭四百五拾文位自弐百五十文位迄高下御座候
 
 上記のように昆布の値段については、産地・製品により価格の幅に開きがあり、また、結束法により単位量目も異なるなど単純比較は出来ないが、参考までに比較検討して見る。
 
シノリ昆布1把(長さ24~30尺 5枚)銭150文位(*250文)
赤昆布  1把(長さ2尺位 50枚を2束)銭*150文位
元揃昆布 1把(長さ5尺  50枚)銭*200~250文
三ツ石昆布1把(4貫500匁)銭230~270文(*200~240文)
    *場所売目方120貫 小判1両(六~7貫文)として
昆布  1把の目方に換算して銭20文位
    *1丸 目方2貫200匁 10文として
江差昆布 80駄(1駄は4把 70匁)銭600文
 
 赤昆布と元揃昆布はほぼ同じ量であり、これを基準にすると、シノリ昆布は約60%、三ツ石昆布は約112%余りとなる。同じ量で4種類の価格を比較すると、
 シノリ昆布250文・元揃昆布200~250文・三ツ石昆布200~240文・赤昆布150文となる。なお、江差昆布については種類としては細目昆布であり生産量も少なく、結束法・量目とも異なり、比較できづらいので省くこととする。
 
1854年(嘉永7・安政元)箱館六ケ場所の昆布生産高と価格
 松前蝦夷地に於ける長崎俵物の研究(白山友正、函館大学教授・1961)に、前松前時代末の箱館六ケ場所俵物諸色の生産高と価格が記録されているので、昆布について抜粋する。
 
小安村    折昆布   一三三三把   一把に付き   二〇〇文
 〃 釜谷  元揃昆布  一八〇〇〃     〃     二七〇〃
 〃 瀬田来  〃    三〇〇〇〃     〃     二七〇〃
戸井     元揃昆布  三五〇〇〃     〃     二五〇〃
 〃 釜歌   〃    二五〇〇〃     〃     二五〇〃
尻岸内日浦  元揃昆布  二〇〇〇把   一把に付き   二三〇文
 〃 尻岸内  〃    四九〇〇貫     〃     三〇〇〃
 〃 古武井  〃    四〇〇〇〃     〃     三〇〇〃
 〃 根田内  〃      七二駄     〃     三〇〇〃
   〃   長切昆布 四〇〇〇〇貫    九貫目  金一両に付き
尾札部椴法華 元揃昆布   七〇〇把   一把に付き   三二〇文
 〃  〃  長切昆布   一六〇丸   一丸に付き   二六〇〃
 〃 木直  元揃昆布   三〇〇把   一把に付き   三二〇〃
 〃 尾札部  〃     七五〇〃     〃     三五〇〃
 〃 川汲   〃    三〇〇〇〃     〃     三五〇〃
臼尻 板木   〃    一四〇〇〃     〃     三二〇〃
 〃 臼尻   〃    二〇〇〇〃     〃     三二〇〃
 〃 熊   〃    一二〇〇〃     〃     三二〇〃
鹿部      〃     六〇〇〃     〃     二二〇〃
 
 この時代になると昆布の価格も一応定まってきたようである。なお「真昆布」の価格は、尾札部川汲あたりが最も良質の昆布生育地であり、ここの値段を最高として、産地が戸井方面・鹿部方面にいくにしたがい値段が安く付けられた。この記録にもその傾向が見られる。
 
昆布の生産高と輸出>
 1788年(天明8)の「最上徳内蝦夷地調査記録」によれば、昆布の産出額120万貫、約3万石で、金額にして1万7千6百両とある。また、同時代の「飛騨屋旧記」によると1か年の総産出額、凡そ3万石(これは同じ産出額で)この内、長崎定式買上3千石、長崎臨時買上1万石、残りの1万7千石は全国各地向け移出と記録されている。
 昆布長崎俵物諸色の1つとして高値を呼び、それが郷土への和人移住のきっかけともなったことは先にも述べたが、これらの資料ではこの時代、昆布の総産出額3万石(4500トン)金額1万7千6百両と莫大な数量・金額となり、しかも、その43%余りが中国への輸出で占められているとある。
 昆布の中国輸出について白山友正は『松前蝦夷地に於ける長崎俵物の研究(1959~61)』3・4Pに次のように論じている。
 
二、長崎俵物成立時代
長崎俵物  幕府時代のシナ(中国)との交易は、幕府の官営商業としての「南方の長崎貿易」と、「松前−宗谷−白主(しらぬし)(樺太の南端ノトロ岬の会所)−満州を通ずる北方の山丹(サンタン)人(黒竜江、アムール川下流の住民)を通じての日満貿易(日本・満州、中国東北地方)」とであった。前者の長崎貿易における輸入品の交換物であった銅の国内産出減退の結果、これに代わって登場したのが長崎俵物である。元来は、煎海鼠(いりなまこ)・乾鮑(ほしあわび)二品であるが、筆者の言う第二期に入って一七六四年(明和元)から、魚養鰭(フカヒレ)を加えて三品とした。俵物の称は、他の昆布・鯣・鶏冠草・天草などの諸色と異なって、俵装したため称呼したのである。正確に言えば昆布は諸色であって俵物ではないのであるが、俗に、煎海鼠、乾鮑に加えて長崎俵物三品に入れている。
 ①昆布  昆布俵物諸色による代替物として許可され、公にシナ(中国)に輸出されたのは元禄年間である。それ以前慶長年間から若干の輸出があったようである。その後一七四〇~四一年(元文五~寛保元)にかけて、幕府の命により松前藩は場所請負人を督して、輸出のための昆布六千駄乃至百万斤を長崎に移出したか、もしくは移出せんとしたのである。そして、明和の頃(一七六四~七一年)の移出額は一か年、千三百石を産するに至った。『松前蝦夷記』によれば、享保初年(一七一六年~)には、亀田の志苔から駒ヶ岳前浜まで二十余里の間に多く取れたという。その頃の藩の課税計画によると、昆布役は従来汐首以東の蝦夷地で操業するものであったが、東在木古内から汐首までの役は亀田支配の漁民が居ながら取るものは倍、汐首から下(東)へ昆布取りに行くものは本昆布四駄、志苔浜内で取れるものは七駄、亀田漁民はヤゲナイで取るときは十二駄とし、その他の地方に産するものは細昆布で上等品でないため、従来採取も自由で税金も課されなかった。
 その頃箱館昆布の集散地で、諸国の船はその積出に集まり殊に大阪、下関から差し向けたものは八百石積の大船で、年々八隻くらい来て大阪長崎へ移送したという。大阪へ移送したのは享保(一七一六年~)以前からで、宝暦(一七五一年~)以後からは盛んになり安永(一七七二年~)頃から、荒昆布刻昆布等の加工品は同地に出現したという。一七九一年(寛政三)の「東西蝦夷道中記」によれば、(六ケ場所の)茅部場所の豊年のときは、二、三百石、野田追地方は、六千駄(五〇枚一把、四把で一駄)であった。
 一七八三年(天明三)来遊した平秩東作(へづつとうさく)も『東遊記録(北門叢書三五五P)』に「箱館辺の浦より出るもの上品也、松前、江差より出るもの下品也、志野利浜の昆布は上品にあらざれども長崎俵物にて異国人の懇望する故金高也」と記している。以上松前蝦夷地に於ける長崎俵物の研究より抜粋。
 
 また、『北海道漁業史(1957)』163~165Pには、次のように記述している。
 輸出昆布は本道産と奥羽(主として南部)産とがあったが、本道産昆布の方が数量が多かったことと考えられる。また、仕入れ価格も宝暦11年(1759)、本道産昆布は1斤につき、9厘3毛1糸(百石に付39両永75文)で、南部産の1斤につき、8厘4毛1糸(百石に付35両永4文)より高値であった。尚、この売値は1斤につき、3分4厘3糸(百石に付145両永75文)であったから、仕入れ値の約4倍に達しており、著しい利潤を得ていたことが分かる(『日清貿易北海道重要海産志』による)。
 昆布業発達の後期の明和以降、昆布輸出は東蝦夷奥地開発と相互の発展を示した。この期においても輸出額等について若干の異なる説があるが、これらを綜合した見解によると、1785~1840年の輸出額については次の如くである。
 
一七八五~一七九四年(天明五~寛政六)
 ・四〇〇〇石(箱館三〇〇〇・南部一〇〇〇)・長崎会所仕入高
一七九五~一八〇四年(寛政七~文化元)
 ・五〇〇〇石(箱館三〇〇〇・南部二〇〇〇)
一八〇五~一八〇八年(文化二~文化五)
 ・四〇〇〇石(箱館二〇〇〇・南部二〇〇〇)
一八〇九~一八一二年(文化六~文化九)
 ・五〇〇〇石(箱館三〇〇〇・南部二〇〇〇)
一八一三年     (文化一〇)
 ・三〇〇〇石(箱館二〇〇〇・南部一〇〇〇)
一八一四~一八一九年(文化一一~文政二)
 ・四〇〇〇石(箱館二〇〇〇・南部二〇〇〇)
一八二〇~一八三一年(文政三~天保二)まで漸減し天保二年南部昆布の仕入れ止む。
一八三二~一八四〇年(天保三~天一一)
 ・二〇〇〇石宛、箱館昆布のみ・この間長崎会所専売
 以上(『日清貿易北海道重要海産志』・明治一九年水産共進会審査官 中橋和之講演講演摘録)
 
 このように輸出昆布の5割乃至7割5分を本道産昆布が占め、天保3年(1832)以降は本道産昆布のみが輸出された。もっとも本道産昆布といっても、その種類はしばしば変動し、文化10年(1813)迄は、志苔昆布、翌年から5年間は同地方産、長折昆布(元揃昆布の一種)千石と駄昆布千石づつ計2千石であったが、文化14年、長折昆布清国側に需要がないので三石昆布に代えた。しかし、志苔の昆布業者の願により文政3年(1820)から、長折昆布500石、三石昆布500石、駄昆布千石と決めた。天保3年(1832)に至り三石昆布が払底した上、長折昆布の需要があったので、三石昆布を廃して長折昆布にしたが、天保6年(1835)再び文政3年当時の組み合わせに戻った(三石昆布は三石・静内・浦河・幌泉・十勝の場所等で産した)。このように輸出昆布清国側の需要に応じて以上の3種を適当に買い入れなければならなかったので、俵物役人のもっとも苦心したところである。なお、この50余年間での輸出額は、天保3~11年の奥羽地方天災という特殊事情を除いては、それほどの変化は見られない。
 しかし、安政6年(1859)の開港と共に昆布輸出状況は一変した。
 まず、長崎商人は「長州、下の関に於いて内国の船舶、箱館より積み来るものを買取りこれを長崎に転輸して清国商賈へ売却せり。ここに於いて忽ち価格騰貴勢いとなり、既に昆布百石の価格、百五十両内外に進み、翌万延元年は二百五十両となり、尚、進んで四百三十両余りに騰れり。長崎の商賈は、これを清国商賈へ売却するは金七百両内外にして、大いに利益を得たりと言う『日清貿易北海道重要海産志』」。しかし、昆布輸出の中心は産地である。本道の箱館に急速に移って来た。安政6年(1859)から箱館に多数の外国商船が来航し、主として、清国向海産物の買い入れに従事し価格は暴騰した。箱館に入港した英国船イリサメル号昆布の初取引きをした柳田藤吉翁の経歴談によると、百石に付き百両内外であった昆布相場がたちまち5百両に急騰したという。慶応3年(1867)には清国商人成記号の如く箱館に店舗を設けて、大いに昆布の買入れを営む者が現れた。
 
1859~1863年(安政6~文久3)の昆布輸出額の変遷
 1859年(安政6)6月~12月  ・昆布  1,020,658斤 ……
 1860年(万延元)      ・昆布  1,592,805斤
               ・刻昆布  218,277斤
 1861年(文久元)      ・昆布   48,617把
               ・刻昆布   2,166個
 1862年(文久2)      ・昆布  4,112,076斤 ……
 1863年(文久3)      ・昆布  10,946,322斤
               ・刻昆布   9,722斤
 
 安政6年(1859)の昆布輸出額を石に換算すると4千80余石で、逐年増加し、4年後の、文久3年(1863)には4万3千700余石、実に10倍以上の額に上がったことになる。なお、昆布箱館港最大の輸出品で、万延元年(1860)の同港輸出高、銀(1分銀にして)15万9千488枚5分4厘のうち、その4分の1は昆布で占められていた。
 『北方渡来』(元木省吾著・時事通信社出版局 昭和36)では、箱館港からの昆布直輸出のようすを次のように語っている。
 
イリサーメル号昆布直輸出 箱館開港(安政六年、一八五九年)当日、午前四時、アメリカ帆船モーレー号が入港したことは既述したが、つぎに入港したのがイギリス帆船イリサーメル号で、イギリス商人アストンと番頭の陳玉松が乗って来た。この陳玉松大町柳屋藤吉(後の衆議院議員柳田藤吉)の店に来て、懐から紙を出し、それに張り並べてある一寸四方(三センチメートル四方)ぐらいの色の変わった海帯(昆布)を見せて、買い入れたいという。昆布のようではあるが色も香りもわからないので、当時、箱館一の物知りといわれた龜屋七郎右衛門老に鑑定を請うと、昆布に違いないという。そこで、新鮮な日高と十勝の上等昆布を見せると、見本と違うといって承知しないので、柳屋はこの二種の昆布一四、五本ずつを与えて帰国のうえ確かめて来るように話した。……中略……
 イリサーメル号は七月十六日に出帆したが、早くも八月十四日には再び入港し、柳屋の店に来て、前回持ち帰った見本(昆布)は、上等な海帯(昆布)だからいくらでも買い入れるというので、柳屋は百石、一六〇両で買ったものを二五〇両の値で千石売り渡した。これが清国(中国)への昆布直輸出貿易の初めで、明治時代にかけての函館日支貿易のドル箱となった。アストン陳玉松は、その後も百石、四〇〇両の値(柳屋買入れ三〇〇両のもの)四千石を買い入れるし、また、イギリスのデント商会の支配人ポーターもどしどし昆布を買い付けるので、昆布の値はついに百石、五〇〇両の高値になった。
 
 このように、昆布は、箱館開港以降の直輸出により輸出額は急増し、また価格も数年の間に4、5倍に高騰するが、利益を得たのは仲買人や貿易商たちであり、昆布景気によって村が潤ったという記録は見当たらない。
 この、昆布の輸出による需要の急増は、生産性の向上や加工技術の工夫を促した。
 
<投石による人工繁殖法>
 昆布業の発達は、採取海面の支配・管理(採取期限の設定、昆布役・船役などの)、採取法・用具など、若干の進歩がみられたが、この時代注目を惹くのが、昆布の人工的な繁殖をねらい投石が行われたことである。水産業において資源の増加を人工的に計ったのは、この昆布投石法が最初であった。それも輸出価格の高騰が要因となったものと推察される。
 この人工投石法は、日高の沙流・新冠地方の場所請負人の考案によるものといわれている。従来、同地方は昆布の産出が少なく年間50石未満であった。文右衛門は、1860年頃(万延元~文久2年)海辺で偶然瓦片に昆布が付着し生育しているのを見つけ、昆布が生育するのは天然の岩礁だけではなく、人工の床地にも生育することを察した。そこで、彼は、翌3年(1863)以降毎年その場所一帯の沿岸で、曳網場を除いて、深さ5尋から6尋(10メートルくらい)のところに数万個の石(直径5、60センチメートルくらいのもの)を投入した。石の多くは砂泥に埋没したが、偶然にも3、4個重なり合い海底に露出したものにはすこぶる良質の昆布が付着成長した。彼は翌年以降もこの投石を継続した。
 
山田文右衛門が行った事業、投石数と採取昆布額の記録
 1863~1868年(文久3~明治元)投石数と昆布採取額
 
初年 1863年(文久3) 石2万7千個・沙流川沿海所々に投入する
2 〃 1864年(元治元)〃5万個・沿岸1か所に投入前年の投石多くは砂泥に没す
3 〃 1865年(慶応元)〃5万個・同上、昆布獲得200余石
4 〃 1866年(〃 2) 〃5万個・同上、昆布獲得380石
5 〃 1867年(〃 3) 〃7万個・1か所に投入する、昆布獲得560石
6 〃 1868年(明治元)〃7万個・同上、昆布獲得700余石
 
 以上のように、投石の結果が非常に良好であった。
 
1866年(慶応2)箱館奉行の論告
 山田文右衛門の投石法の成果を重視した箱館奉行は、請負人一同に、文右衛門の投石法を見倣(みならわ)させる論告を行った。これに対する請負人側の請書は次の通りである。
 
 差上申ス御請文之事
一、サル・ユウフツ請負人山田文右衛門儀 請負御場所之内、魚漁障リ無之海岸江 昆布生立のため去る子年(元治元年1864)中、試に数多岩石沈め置キ候処、岩石へ若昆布生立チ、既に当年は別段出荷にも可三相成程に至り、御開拓之御趣旨に対し、一段之事に付、望のもの有之候はば、御場所の内旧来魚漁に差障リ無之海岸江は、右仕法を以て、昆布磯取立、出稼人等繰入方世話可致段、山田文右衛門江被仰付候間、私共に於ても、右仕法承合、銘々昆布磯取開キ追々出稼之者も繰入レ、往々産物出増シ候様、精々世話可致段、被仰渡承知奉畏候、仍て請証文差上申処如件。
 慶応二寅年三月十日 東蝦夷地請負人惣代  権一郎
           西蝦夷地請負人惣代  鍋屋吉兵衛
 
 この昆布の投石繁殖法は、その後各地で採用され現在にまで及んでいる。勿論、わが郷土でも天然昆布繁殖のため継続して行っている。(以上、北海道漁業史160~163Pより)
 
<加工昆布刻昆布)の製造>
 安政6年(1859)箱館開港以降の昆布輸出の中に『刻昆布』名称が見られる。万延元年(1860)の昆布輸出額では、刻昆布218,277斤で13.7%とかなり高い率を占めている。尤も3年後の文久3年には9,722斤で、額・率とも極端に減少しているが。
 『北海道漁業志稿・一九三五年(昭和十)北水協会編』には、この刻昆布について次のように記している。
 
 渡島区に函館区に於いて「刻昆布」を製造せしは、嘉永四年(一八五一)にして、その原料は「長切昆布・棹前昆布・駄昆布・拾昆布」を用い、清国輸出品の一つにして品位本邦中に冠(第一位)たり。明治七年(一八七四)十月、旧開拓使(北海道庁)に於いて、刻昆布を潤飾(光彩を添えること、着色)するに酸化銅(緑青)を用いるは有害に付きこれを禁じ、同九年七月、舶来染粉も砒石(砒(ひ)素を含む鉱石)その他の毒物を含有せしに付き、刻昆布著色(着色)を禁じ、尚、同十一年三月には、染料の性質を問わず、すべて昆布に著色するを禁じたり。今、従来の(禁止前)の製法を示せば次のごとし。
 製法は、昆布二駄(一駄三〇キログラム)を一二、三束に分割し、藁の細縄にて括り釜に入れ、淡水一石五斗(二七〇リットル)に、溶解下等緑青二升(三・六リットル)を混和し(銅製の鍋で熬煮(ごうしゃ)すれば容易に緑色を呈す)およそ三、四〇分間煮てこれを揚げ、乾場に移し束を解き筵の上に散布し、また、竿に掛け微乾して後、一葉づつ皺を伸ばし、土砂を除去し一葉づつ揃え四、四〇葉を以て一束とし、これを一尺五寸(四五センチメートル)位にし切断器(昆布を刻む圧搾器台の名)に積重ね十分に締め、器の側面より鉋(かんな)を以て刻断す。これを、角筵(目の結んだ上等の筵)に配列し、再び日光にて乾かし固結せざるよう両手にて揉むを宜しとす。連雨の節は桶に入れ蓋を密閉し、空気の流通せざるよう保存す。乾燥了れば五〇斤(普通一斤六〇〇gで三〇キログラム)を函に詰め、その四隅に青紙を貼付す。五、六年前は、種々の著色法を施し、あるいは塩水を用い白土を混和し、一時の色澤を添え量目を貪る等の悪弊行われたために腐敗を来し、信用を失い名声を落とせしことあり。
 
 刻昆布の製造については、昆布製品に付加価値を付けることにあったものと推察される。昆布製品は、採取し即晴天2日以上天日で乾燥・夜露に当て皺を伸ばし再度乾燥後、種類あるいは等級別に一定の規格に揃え結束し製品とするといった、手間は掛かるが単純な工程のものである。価格は等級、結束により相当の開きがある。刻昆布の原料となる、長切昆布・棹前昆布・駄昆布・拾昆布は、長切昆布を除いて価格の安いものである。ここで言う棹前昆布は秋・冬に採取し竿にかけ乾燥させたもので、駄昆布は元揃、花折等を製造した不要部分を裁断したもの等、いずれも下等昆布であり、しかも、大量に産出される。
 刻昆布は、これらの、そのまま販売すれば安価な昆布に、若干の上等昆布を混ぜ、着色し煮沸・乾燥・切断・揉み等、加工をし付加価値をつけ製品とし、輸出することにねらいがあったと思われる。刻昆布は、着色材の毒性、不良品の輸出など問題点も多々あったが、昆布製品の付加価値化という思惑通り価格も高く、明治以降一定の輸出額が確保された。なお、明治以降の輸出額等については「第2節、明治・大正の漁業の項」で記述する。