函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第3編 行政

第5章 現在の郷土の行政

第2節 現在の郷土の行政

2、民選首長と郷土の行政

(1)前田・三好町長時代

 昭和29年から34年までの6年間、経済状況の厳しい時代、尻岸内・戸井・椴法華の3村は、神戸委員会の町村合併構想を受けた北海道知事の合併勧告に大きく揺れた。
 神戸委員会の町村合併構想 昭和25年12月22日「地方行政組織調査会議・委員長が神戸正雄であったので俗に神戸委員会といわれた」は、時の吉田首相及び原衆議院議長、佐藤参議院議長に行政事務再配分に関する勧告書を提出した。これは、国と地方公共団体との間における事務の再配分に関する意見を述べたものである。
 事務再配分の前提として町村の適正化(町村合併)を強く要望した。
 神戸委員会の町村合併の構想は、当時の町村は全国1万2千、平均人口5千人、しかも平均人口に達していない町村が全体の66パーセントに上る実情であった。このため小規模町村を合併して人口7~8千人を標準とすることとした。
 合併に当たっての考慮する点は、
 
①人口と面積について配慮する。人口密度の高い地方を除いては、余りに広大な面積の町村を設置しない。教育施設など能率的な経営を困難にしない。
②学校・土木・産業・社会・福祉・公衆衛生・国民健康保険・消防等、町村の重要な事務が能率的に処理できる可能な規模、あるいは組合などによる共同処理を考慮する。
③町村職員の最も能率的・経済的な定員の配置可能な規模とする。
④農村の都市への編入については利害得失を慎重に比較衡量する。
⑤基本的な要件として住民の共同意識を培養することができるかどうか。
 
 この神戸委員会の勧告要旨に基づき、昭和28年10月1日から31年9月30日の2カ年を期間とする、いわゆる時限法として『町村合併促進法』(昭和28年9月1日法律第258号)が制定され、北海道知事はこれを受け、北海道における町村合併計画を策定、町村に示した。
 
 昭和二十九年九月十九日     北海道知事 田中敏文
 北海道における町村規模の適正化の促進を図るために、地方自治法第八条の二の規定により、北海道町村合併促進審議会の答申を基礎とし……中略……町村合併計画を次のとおり策定する。
                 昭和二十五年  昭和二十九年
 渡島支庁管内  戸井村 人口  七、八三四人  八、一七〇人
         尻岸内村 〃  八、三八六人  九、五〇九人
         椴法華村 〃  三、六二六人  三、七七〇人
          計   〃 一九、八四六人 二一、四四九人
 
 この勧告を受けた尻岸内村は、神戸委員会の勧告を熟慮するとともに、自治体の将来あるべき姿を展望し、道の策定を受け入れることを前提に住民の理解を得ることとした。
 このことは、享和元年(1801)尻岸内場所が幕府より日本人村並と認可されて以来、150余年の歴史を刻む尻岸内村が合併により消滅するということであり、村は、各部落ごとに懇談会を開き、その趣旨や将来の展望について住民1人1人と膝を交えて話し合い説得を続けた。また、各種団体代表にも理解を求め、ようやく合併賛成への動向が鮮明となり、議会は住民の意志が固まったと判断し勧告を受けることに賛成の決議をし、その旨を知事に答申した。しかし、隣接の戸井村・椴法華村は合併に難色を示し、合併協議会を設け調整を図ったものの協議は進まず、道、支庁よりの推奨があって懇談会を開いたが、情勢には進展が見られなかった。そうこうする内に、「町村合併促進法」の期限は迫り、漫然と推移することが許されず、合併協議会としては、知事に対して「尻岸内村賛成、戸井村・椴法華村反対」の意思表示をせざるを得なかった。
 結局、この町村合併促進法(時限法)は効力を失ったが、新たに立法された『新市町村建設促進法』(この法律も昭和31年6月30日より36年6月29日までの5年間存続するという時限法であった)に引継がれ、3村の合併にはより強い勧告が出された。
 
 町村合併に関する知事勧告
   勧 告 書
 新市町村建設促進法第二八条第一項の規定により、北海道市町村建設促進審議会の意見をきき、内閣総理大臣に協議して、別紙(省略)のように貴村に係る町村合併を行うよう、同法同条同項の規定に基づき勧告する。
 昭和三二年六月三〇日
 北海道知事 田中敏文
 
 この勧告を機として、道、支庁の強い呼び掛けが頻繁になされたことは勿論であるが、尻岸内村民の合併に対する熱意や賛意は次第に薄らいでいき、また勧告は、椴法華尾札部間の道路開通の見通しを示すなどの、いわゆる“アメ”も提示したが戸井村・椴法華村の反対意見を翻すことはできなかった。
 
 『町村合併の必要性より』−抜粋−
……この昭和の合併前の地方団体は、明治二二年、当時七〇、四三二あった町村が大合併し一五、二七六町村に統合されつくられたものである。当時の、交通・通信も現代に比べたら極めて幼稚な時代であったが、その後六〇数年を経過した今日では、電信電話・鉄道・バス自動車等の発達によって、住民の日常のつながりは、近隣の町村と密接な関係を有するようになっていているし、自治体の使命・在り方も大きく変わってきている。
 現代の住民生活と自治体の在り方から見ると、住民福祉のためには自治体の規模をより一層大きく力強いものにする必要がある。
 以下、『町村合併促進法』・『新市町村建設促進法』により合併した町村を記す。
 昭和二九年合併  松前町(松前町・大島村・小島村・大沢村)
 〃 三〇年 〃  上磯町(上磯町・茂別村) 福島町(福島町・吉岡村)
 〃 三二年 〃  八雲町(八雲町・落部村)
 〃 三四年 〃  南茅部町(尾札部村・臼尻村)
 
 戸井・尻岸内椴法華の3村が、この昭和の町村合併を選択しなかったことの評価は、当該の町村、個々の立場や視点、あるいは歴史的観点などから、さまざまであろう。
 ただ、先に述べている町村合併の必要性が“住民福祉のために”という大前提に立つならば、(これも先に記したが)40年代以降の経済成長・国家予算の大幅増、それに伴う地方交付金の増額と国庫支出金(起債)により、少なくとも、この3村の地域住民の生活環境・産業基盤は著しく整ったであろうし、住民サービスも広がったといえるであろう。