函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第7編 宗教

第3章 現在の郷土の宗教

第2節 郷土の寺院

 所在地 字豊浦208番地
 宗 派 曹洞宗、本尊・釈迦牟尼仏
     函館市船見町、曹洞宗『高龍寺』末寺 総本山福井県永平寺・横浜市総持寺
 
沿革  高岸寺の創建は、明治21年(1888)10月小さな庵に始まる。
 同年の春、山形県酒田より布教のため来道した大滝孝全は、訪れた尻岸内の村人の余りにも荒んだ状況を憂い、豊浦の住人佐藤久四郎外100余名の信徒の協力を得て同年10月、間口2間、奥行き2間半の庵を建て仏事を行う。この庵は翌年の暴風雨で破壊してしまったが、村民の強い願いを受けた総代の赤井松助は、信徒らの協力を得て堂宇の再建に着手、明治22年6月1日、間口5間、奥行3間半の地蔵堂を再建する。さらに、赤井松助ら中心となった6人が世話役となり、これを機に地蔵堂高龍寺の説教所にすることを協議、函館高龍寺十九世上田大法方丈に願出、『高龍寺説教所』としての認可を得る。
 願いの適った大滝孝全住職は、日夜布教に伝導に、また作務衣を着ては池を掘り地下水を抜き境内の整備をし、村内唯一の精神修行の場にするべく努力を重ね、明治23年10月には、自ら発起人となり「志宗講」を開き永続金の積立をはじめる。そして、明治26年4月には寺号を『東雲山高岸寺』とするべく願出、同年12月3日公認認可を得る。
 大滝孝全住職や信徒ら5年間のひたむきな努力により、漸く諸般の情勢も整い本来の寺務の充実を見る。住職はさらに本堂の本建築を計画、その建築資金の一助にと道内をくまなく托鉢行脚に出、ようやく工事の見通しもたったのも束の間、不幸にもその過労が原因となり、大正7年4月13日享年51歳にて遷化する。遺弟渡会元孝は先師の意志を継ぎ尽力し、大正7年8月本堂建築に着工、11月上棟式を終了直後、台風により甚大な被害を受ける。一時は工事を断念せざるを得ない状況にまで追い込まれたが、信徒の支援と設計の一部を変更(当初の設計より高さを9尺縮小する)し工事を続行、大正8年(1919年)7月、間口8間、奥行6間の堂々たる本堂及び庫裏の新築・改築を完成させる。
 難工事を見事成し遂げた3代住職渡会元孝はその後、寺務に没頭したが師もまた齢若くして、昭和3年10月18日享年42歳で遷化する。4代住職を継いだ渡会仲全は以降、寺門隆盛に献身意を注ぎ、昭和9年9月20日、大滝良全に5代住職を引継ぎ『高岸寺根田内法務所』へと移る。5代住職に就任した大滝良全は平成4年(1992)、6代大滝良孝に引継ぐまで、戦時下・戦後の混乱期を通し、58年間の長きにわたり寺門の隆盛に、寺務に、さらには新たな事業も成し遂げる。以下、それらについて列挙する。
 ・昭和18年(1943) 庫裏の改修をする。
 ・昭和45年(1970)より12年間にわたり保育園を経営(開園当時は80余名の園児、3名の保母が保育に従事する)する。
 ・昭和60年(1985) 庫裏の大改築をする。
 ・昭和62年(1987) 大滝孝全(当山二世開創法地開闢卍宗孝全大和尚)70回遠忌記念に念願の報恩銅像を建立する。
 ・平成5年(1993)4月 寺号公称100周年記念大法要を挙行する。
 平成6年2月6日、5代住職大滝良全遷化、精進教化の生涯を閉じる。享年85歳。

高岸寺
大正7年(1918年)渡島町村誌より


昭和8年(1933)寺の沢に安置された三十三番観音像
昭和62年(1987)裏庭に遷座

 
曹洞宗(宗教編資料2 仏教の宗派参照)
 高岸寺の宗派は曹洞宗である。曹洞宗は臨済宗、黄檗宗とともに禅宗に属する日本仏教の一宗である。臨済宗が中国曹洞宗を受けて、参禅者に示して座禅工夫(公案)させる看話禅(かんなぜん)に対して、日本曹洞宗の開祖道元は、ただひたすら余念を交えず座禅すること(只管打座(しかんたざ))を唱えた。禅の原点に立った教えという点では臨済宗と本質的に異なるものではないという。

高岸寺戦時下の花まつり(新川家所蔵)


昭和30年頃の高岸寺(尻岸内町史より)


高岸寺(平成17年撮影)

 
 住 職
  現住職 六世 大滝良孝
      五世 大滝良全
 
      四世 渡会仲全
      三世 渡会元孝
      二世 大滝孝全(東雲山第二世開創法地開闢卍宗孝全大和尚)
      開山 上田大法(初代東雲山開山 雲林大法大和尚)
 
禅宗・達磨について
 曹洞宗の寺院については一般的に禅寺と呼んでいる。この『禅』とは、座して姿勢を正し雑念を払い心を1つに集中することで、宗教的修業法の1つ、『座禅』という。
 これを『禅宗』として独立、仏教の1宗派として形成したのが、インドのバラモンの家に生まれた達磨(Bodhidharma)である。彼は大乗仏教を志し海路から中国に渡り、北方の魏に行った梁の武帝に召されて金陵に赴き禅を教えたが、機縁がまだ熟していないのを知りただちに立ち去り、洛陽東方、嵩山の少林寺に入り、壁に向かって座禅した(壁観)。慧可がやって来て教えを求め、腕を切取ってその真心を示したので、ついに一宗の心印を授けたという伝説がある。壁観の面壁9年間の伝説から、後世日本では手足のないダルマ像が作られ、七転八起の諺も生まれたという。