函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第7編 宗教

第3章 現在の郷土の宗教

第1節 郷土の神社

 恵山大権現といえば、江戸時代、大成町の太田山・太田神社、伊達市の有珠山・有珠善光寺とともに、幕府・松前藩もその参拝を特別許可していた蝦夷の三霊山の一つである。(第1節1、菅江真澄『ひろめがり・えぞのてぶり』、同2、松浦武四郎蝦夷日誌・巻之五』参照)
 この『権現』については、神道理論・本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)等、縷々(るる)述べられているが、ここでは必要部分のみ記すこととする。「神の本源は(本地)は仏ないしは菩薩で、それが日本の人々を救うために、権(かり)に神の姿となって現(垂迹)れた」という説がある。また柳田国男(1875~1962)監修『民俗学辞典』には「菩薩がかりに人身などに姿を現して衆生を済度することをいい、化現、権者などの意味を含み、多くの霊山霊所では菩薩の化現として説明されており、山嶽崇拝の対象として修験者たちの集団していた山々は、いずれも権現の中心であった」とある。
 
沿革  恵山権現堂は山頂、御殿と呼ばれる僅かな平坦地に存在する。建立した年代については判然としないが、かなり古い時代だったと思われる。これについて今に残る言い伝えや記録・報文など記すこととする。
 残されている中で、いちばん古い話は『北海道の口碑伝説(昭和15年刊・北海道庁編)』に、「恵山権現については、八四代順徳天皇の代、法然上人(浄土宗の開祖)門下四流証空上人の高弟、洛酒南深草真宗院西山派の円空立信が一挺の鉈を携えてこの地に渡り、自作の将軍(ママ)地蔵、秋葉権現、金比羅権現の三体を安置したのであると伝えられている」と記されている。
 これについて、仏教・歴史研究家であり函館市浄土宗称名寺住職の須藤隆仙師は、その著『北海道仏教史辞彙』に、「円空立信については弘安七年(一二八四)七二才を以て寂しており、順徳天皇の代(一二一一~一二二〇)には幼年であるから、この時代に渡来したという説は信憑性がない」と述べており、その説のとおりと考える。また、円空立信が鉈彫りの彫像を残したということも信じがたい。
 時代は隔たるが、「寛文六年(一六六六)頃、円空上人が恵山を訪れ“鉈彫りの仏像”遺して去った」という話が伝えられている。今日までそれらしい仏像は発見されていないが、こちらの円空は、美濃国竹が鼻(岐阜県羽島市)生れ、寛文4年(1664)美濃の美並村、福野の白山神社に御神体を納め、行基(註1)の徳風を慕い仏像12万体彫刻を発願し諸国遍歴の旅に出た僧侶であり、各地にその作品を残している。そして、蝦夷地への渡来・滞在は寛文5,6年(1665・6)の2ケ年道南地方を遍歴した地に仏像を納めている。道南の寺社で寛文5,6年頃の草創の観音堂のほとんどに円空仏が祀られている。
 定説では「円空は下海岸に足を入れなかった」といわれているが、昭和42年(1977)8月1日、戸井町史編集長、野呂進により汐首村(戸井町字汐首)の観音堂から発見された仏像が、前出須藤隆仙師により円空仏と鑑定された。野呂は、この仏像が他から移動されたものではないとの前提から、円空が汐首に来て仏像を納めたのは、寛文6年(1666)と推定している(以上、戸井町史より)。
 とすれば、「寛文六年頃(一六六六)円空上人が恵山を訪れ“鉈彫りの仏像”遺し…」といった言い伝えも、あながち否定できないのではないか。そして「…順徳天皇の代、円空立信が一挺の鉈を携えて…自作の将軍(ママ)地蔵、秋葉権現、金比羅権現の三体を安置…」という話は、むしろ、「円空上人の言い伝えを遠い昔に溯らせたい」という、後の世の人の素朴な思いを考えての、修験者など知恵者の創作のように思われる。
 付け加えるが、活火山恵山が地理的にあるいは、その特異な山容から、先住民族・アイヌの人々はもちろん、13世紀以降、幸を求めて、続々と蝦夷地にやってきた船乗りたちや漁師らの、格好の目印(海のランドマーク)であった。船乗りたちは「岬には神が宿る」と信じているといわれている。その地恵山に、これらの人々が祠を建て神を祀ったとしても、それは自然の行為であったと思われるし、そこへ円空上人が訪れ仏像を遺したということもありえない話とは言えない。戸井町史・野呂進は円空の足跡を「寛文六年(一六六六)八月過ぎ有珠を去り、九月か十月に汐首を訪れ……」と推定している。とすれば、対岸の有珠山から恵山を望んでおり、海路、汐首への途中、恵山に足を止めたと考えても、それは納得がいく。

現在の権現堂


勝軍地蔵尊・秋葉大権現・金比羅大権現の3体が合祀

 別な記録としては、『正光空念納経記』(市立函館図書館蔵)に、元禄17年(1704)「正光空念が江山大権現に参詣して経文を納めた」と記されている。
 また、安政3年(1856)の『権現堂由来記』に、「江山権現様由来根元の義は、往古より同上に勧請し奉りあり候事に御座候。右訳合の儀は、江山頂きに立岩之有、其の前に杭を間違結立候中、何の形とも相分り不申候様の姿之有、神変不思議の御神体にて、何方様御覧被成候ても相成不申候」と、正体不明の御神体が見つかったことが記されているが、ここにも、円空仏については触れていない。(『函館市誌(昭和10年12月発行)』1087ページ)
 
祭神  恵山大権現の御神体は円空が遺したと伝えられている『勝軍(ママ)地蔵・秋葉大権現・金比羅大権現』の三神が合祀されている。
 
 力持ち又右エ門のお話
 江戸末期の根田内の村人、三好又右エ門(実在の人物)の恵山権現にまつわるお話が今に伝わる。「ある日、硫黄運びの仕事に疲れ、うたた寝をしていた又右エ門の夢枕に権現様が立ち“働き者の又右エ門に力を授ける。岩陰に湯がわき出ているので漬かるがよい”と告げました。目覚めた又右エ門は岩陰を見ると、確かに湯が沸いております、半信半疑のまま湯に入った又右エ門は驚きました。何と、いつもの倍以上七俵もの硫黄叺を担ぐことができたのです。それからの又右エ門は磯舟を独りで引き上げるなど、村の力仕事を率先して行い、“力持ち又右エ門”として人々から慕われました。又右エ門は、これは権現様の御利益なのだと感謝し、毎日毎日お参りにいきました。村人たちもそれに習い権現様にお参りにいったということです。」
          『恵山町ふるさと民話』(平成2年・第1集)より
 
勝軍(ママ)地蔵 軍神として尊信される地蔵菩薩。蓮華三昧経に説かれ、鎌倉時代以降、わが国の武家の間で信仰された。この神に祈ると戦いに必ず勝てるという神・地蔵でその姿は甲冑をつけ、右手に錫杖を持ち、左掌に如意宝珠−思うがままに宝物を出すという玉を載せ、軍馬に跨がっている。勝軍不動明王も地蔵の変化身という。

恵山大権現をお参りする人々(1)


恵山大権現をお参りする人々(2)

 (昭和20年~30年頃)
 
秋葉大権現  本宮は静岡県周智郡、富士山の麓、秋葉山にある『秋葉神社』。防火神(ホノカグツチノカミ)を祀る。毎年12月に行われる火渡りの行事と、火災防護の祈祷は有名、古くから秋葉講の組織があり関東や中京の村々から多くの参拝者がやって来る。
 
金比羅大権現  本宮は香川県仲多度郡、象頭(ぞうず)山(琴平山)の中腹にある元国幣中社『金刀比羅宮(ことひらぐう)』。大物主神(おおものぬしのかみ)(奈良県大神(おおみわ)の祭神と同じ・蛇体で人間の女性に通じ、祟り神としても現れるという)・崇徳天皇(1123~41)を祀る。古来舟人の尊信篤く毎年10月10日の大祭は盛大である。本宮は古来から金毘羅(こんぴら)大権現。祭神は金毘羅・金比羅。これは梵語(Kumbhira)で鰐魚(ワニ)を意味する。仏法の守護神の一つで、もとガンジス川に住む鰐(ワニ)が神格化され仏教に取り入れられたもの。蛇形で尾に宝玉を蔵するという。薬師十二神の一つとして宮毘羅(くびら)大将または金毘羅(こんぴら)童子にあたる。古来から航海の安全を守る神として舟人が最も尊崇した神である。
 この金比羅大権現は神仏習合の神(仏)として、郷土、恵山の豊国寺(第2節の寺院の項参照)にも祀られている。
 恵山大権現の信者の組織は現存し、権現堂の管理や報恩活動を行っている。

御崎権現(1)


御崎権現(2)