函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第7編 宗教

第1章 文書に残る郷土の神社・寺院

第2節 松浦武四郎『蝦夷日誌』(巻之5)にみる郷土の寺社

1、恵山大権現について

 「扨(さて)、是より登山するに村中に華表(鳥居のような標識)有。是より九折を上る事しばし嶮坂岩角攀て上るに、此処村の上凡三、四丁も上りて又、華表有也。越えて九折を上ることしばしばにして火焦石畳々として岩山をなし、其間に生ずる躑躅(つつじ)わずか壱尺斗にして一面を生ひ…(中略)…峠、中宮華表より五丁斗といへり。是より北は平山にして、南は上宮なり。硫黄のかたまりし岩道の上行こと半丁斗にして西院川原世に云ごとし。多くの石積み上げたり。此処より上宮にまた道有。細き鳥居を越えて上るなり。恵山上宮石の小祠あり。此処に上るや西の方汐首岬を越て箱館山・木古内浜まで一望し、東ヱトモ岬、南部尻矢岬、南大畑、下風呂サキ、一々手に取ごとく見へたり。……(以下省略)」
 
 松浦武四郎椴法華側より登山している。村中(登山口)に華表有、とある。華表は、中国の、宮城や陵墓などの前に立てる装飾を施した柱・標識のことであるが、日本では神社の鳥居を指す。文中、後に「細き鳥居」と記述し華表と区別しているので、3つある華表は恵山上宮へ至るための鳥居状の道標と解される。いずれにしても、登山口よりこのような標識を立てたり、中宮を設けたりしていることから、恵山大権現は1800年代中頃には、地元は勿論、松前城下や蝦夷地の多くの人達に知られ、また参拝に訪れる人々も多かったものと理解される。なお、上宮からの景観の記述から、当時も現在地とほぼ同じ位置であると思われる。