函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第7編 宗教

第1章 文書に残る郷土の神社・寺院

第1節 菅江真澄の紀行文より

 蝦夷地にやって来たのは天明8年(1788年)7月、菅江真澄、35歳の時である。この年より4年間、1792年まで、松前城下に滞在し道南の遍歴を続けた。
 この道南の旅の記録が『えみしのさへき』『ひろめがり』『えぞのてぶり』として残されているが、この3冊の記録(紀行文)に共通しているのが、えみしのさえき・太田山・太田神社(註1)、ひろめがり・恵山・恵山大権現、えぞのてぶり・臼嶽(有珠山)・善光寺(註2)と、いずれも霊山登山・神仏参詣をひとつの目的にしていることである。
 この三山は、当時から蝦夷地の三霊山と呼ばれ人々に崇められていたと伝えられている。 真澄は『えみしのさえき』の、1、えぞがちしまへの旅、冒頭に「この福山(松前)の西の近蝦夷の辺りに、太田(久遠郡大成町字太田)という非常に心の引かれる磯山があるという。そこへ分け登った人は、大いに感嘆し、語り伝えて評判になっている。ところが、松前藩の規則が厳しくて、旅人がえぞがちしま(蝦夷地)をむやみに見て歩くことが難しいので、どうしたらよいか思い悩み、旅に出るのをためらっていたが、諸国行脚の修行者や山伏らは、隠れて行って参拝していることを人伝に聞き、私もそうしようと考え、和歌の仲間(松前藩の家臣や縁故者ら)によく話をして旅に出ることにした」とある。
 また、『えぞのてぶり』の書き出しには「東方のアイヌの住む、海の荒磯に、臼の御岳(有珠山)という、人の尊ぶ大層高い山があると聞き、行って登って見たくなり、思い立ったら吉日と夜が開けたら出発しようと決めた」とあり、旅の目的を冒頭に記している。
 『ひろめがり』の恵山登山の記述の部分は残念ながら欠落しており、見ることができないが、「えぞのてぶり」の記述のなかに『……霞も名残なく晴れ、恵山の峰も現れていた。この峰は3年前に登って見たところなので、ここまでは見慣れている土地である……』と記されていおり、恵山の登山(参詣)をしていることは間違いがない。
 真澄の渡来目的は松前各地の見聞であったが、当時、松前藩はアイヌ居住地(蝦夷地)と城下(日本人村・松前から西側、熊石町関内、東側、戸井町小安まで)を明確に分けており、旅人の蝦夷地への移動を特別許可・交易税納入者など以外、許していなかったが、この霊山参詣については大目に見られていたといわれている。
 真澄は、霊山参詣を目的として旅に出ているが、それは松前藩の規則上のことで、主たるねらいは、その地の見聞にあったことはいうまでもない。ただ、神職であった真澄にとって、蝦夷地の霊山・寺社もその目で確かめたかったこともまた本心であったろう。
 郷土の恵山・恵山大権現が1700年代には、蝦夷地の人々の霊山として、信仰の地として多くの修行者たちが登山・参詣にやって来ていたことは、この菅江真澄の紀行文『ひろめがり』からも理解できる。

太田山太田神社本殿(せたな町大成総合支所提供)


浄土宗大臼山善光寺 伊達市有珠町

 (註1) 大成町太田山8合目の岩窟に猿田彦命を祀る。1454年(享徳3)松前氏の祖、武田信広が、この地に上陸して地元民の崇敬に倣い祈ったという。以来、沖を通る船はこの地を通る時、帆を下げて安全を祈ったという。
 (註2) 伊達市有珠町、浄土宗大臼山善光寺、1804年(文化元年)徳川幕府により蝦夷地における三官寺の1つとして指定された名刹。寺格10万石に相当する。1613年(慶長18年)松前藩祖慶広により、祈願所として小堂建立に始まる。