函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第6編 教育

第4章 教育委員会

第5節 文化財

 「史跡」恵山貝塚
  所 在 地/亀田郡尻岸内町字恵山
  規模数量等/指定面積5,455平方メートル
  指定年月日/昭和42年3月17日
  所 有 者/山本栄作ほか
 恵山貝塚は、標高約20メートルの海岸段丘上にある。
 昭和15年名取武光氏の発掘調査により、本遺跡出土の土器が恵山式と命名され、続縄文文化の前期を代表する土器と考えられている。昭和35年函館博物館、同41年名取武光氏によって再び発掘調査がなされている。
 恵山貝塚は墳墓および住居跡からなっているが、大部分は未調査のままである。貝塚は、地表下25~70センチメートルに認められ、豊富な遺物が包含されている。また墳墓の副葬品として土器が出土している。これまでに発見された遺物は、かめ形、鉢形(深鉢・浅鉢・台付)つぼ形・特殊な形(双口・把手付茶碗)などの土器類、石鏃、石槍、石匙、石ナイフ、石斧、魚形石器などの石器類、銛、ヤス、釣針、縫針などの骨角器がある。
 この遺跡は、続縄文文化の性格を知るうえで重要な遺跡である。
 
 古武井熔鉱炉跡
  所 在 地/亀田郡尻岸内町字高岱99
  規模数量等/指定面積1,846平方メートル
  指定年月日/昭和42年3月17日
  所 有 者/斉藤兼雄
 古武井川とその支流であるムサノ沢にはさまれた低位段丘上にあり、高炉主体を含むマウンドと安山岩の切り石で組んだ基壇と水車水路が現存している。この高炉は箱館奉行が付近海岸に豊富に産する砂鉄を用いて大砲を鋳造するため、幕府の許可を得て箱館奉行支配下の蘭学者武田斐三郎に命じて築造させたものである。
 安政年間完成をみたが1回の試みに失敗し、そのまま放置されてしまったらしい。台座、通風溝など石組みの一部が旧態で残されており、1度火を入れたことが明らかとなっているが、主要部分は原形をとどめていない。
 また、昭和40年、付近6ヵ所に散在する木炭散布地を調査した結果、文献記録とあいまって、わが国最初の高炉の試みの1つとして貴重な遺構であることが確認された。
 
 女那川煉瓦製造所
  所 在 地/亀田郡尻岸内町字川上
  規模数量等/指定面積1,250平方メートル
  指定年月日/昭和42年3月17日
  所 有 者/井戸竹作
 女那川煉瓦製造所跡は、尻岸内川河口より約1.5キロメートルの右岸段丘上にある。
 遺跡の付近には耐火粘土の散布が見られ、窯跡は4基ある。
 窯跡の大きさは約5メートル×2.5メートルで、耐火粘土と耐火煉瓦により船形をした下部構造が残され、6列の耐火煉瓦の基底が見られる。舳先と見える方向に煙突跡と見られる跡があり、艫に当たる方向に窯の焚口が存在したもののようである。
 ここから発掘されたレンガは、材質、形態あるいは記号などから古武井熔鉱炉建設に供給するために作られたものと考えられる。築造年は明らかではないが、古武井熔鉱炉との関係上貴重な遺跡である。
 
 〈恵山貝塚

骨角器・魚形石器


恵山式土器

 〈古武井熔鉱炉跡〉

[古武井熔鉱炉跡]


熔鉱炉基壇

 〈女那川煉瓦製造所跡〉

カマ跡


ロストル(特殊レンガ)