函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第6編 教育

第3章 青年教育

第1節 青年教育の制度の沿革

 日浦小学校の沿革誌に「明治三十五年四月五日補習科を付設」、尻岸内小には「三十五年四月年限二ケ年の補習科を付設す、教科目左の如し、修身、国語、算術」とあり、同じ年、古武井小も付設している。根田内小の記録にはないが他校同様付設されたと推察する。
 
①補習科
 明治20年4月、北海道が採用した『小学簡易科教則』で小学校卒業後既習学習の復習・補習を目的に設置を認められた「温習科」の別称である。
 小学簡易科は、修業年限3カ年で科目は読書・作文・習字・算術、ほかに自由裁量としての実業演習で、道の制度は全国的にみれば極めて教育水準の低いものであった。そこで、義務教育終了後の青年(当時の概念)を対象として、既習教科のレベルアップと実業演習を目的として温習科(補習科)が設けられたのである。これは制度として、本道におけるいわば青年教育のルーツといえよう。尻岸内村の場合、地域の要望から内容的には裁縫や水産などの実業補習が主になったように推察する。
 ところで、この補習科について、古武井小の沿革誌に「三十八年の六月より従来の尋常補習科を廃し修業年限二か年程度の水産補習学校を付設す」とあり、明治38年6月、古武井小同様、他校も補習科は廃止され実業・水産補習学校が付設されている。
 
②実業補習学校
 「実業補修学校」とは、明治26年(1893)の『実業補習学校規程』の規定に基づき設立された学校で、わが国における初等教育終了後の勤労青年を対象とした教育機関の始まりである。全道的に実施されたのは、明治30年の後半、道南では37年ころである。教育内容については尻岸内小の場合「修身・国語・算術」と『実業・水産』が主であったと推察する。なお、尻岸内村の場合、水産補習学校と称した。
 ところで、明治38~39年日露戦争後の実業補習学校は農業補習学校が90パーセントを占めるようになったという。これについて清原道寿(昭和技術教育史・農山村文化協会・1998)は、当時の増税や東北地方の凶作などによる反政府運動を未然に防ぐ施策の要因と考察している。以降、政府は青年教育の各種学校で思想教育の徹底を図っていくことになる。
 
③青年訓練所
 大正15年(1926)に、『青年訓練所令』により「青年訓練所」が設立された。それまでは勤労青年を対象とした教育機関は実業補修学校だけであったが、これに青年訓練所が加えられるようになる。しかし、この並立には問題点が生じた。
 実業補修学校が尋常小学校(4ヵ年~明治40年からは6ヶ年)の義務教育を修了した者を対象としたのに対して、この青年訓練所の入所資格は16歳から20歳までの小学校高等科卒業後、各種上級学校に未就学の男子を対象とした文字通り青年教育機関である。青年訓練所の目的は、青年訓練所令第1条に「青年ノ心身ヲ鍛練シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」とあり、実業補習学校の「義務教育の補習と簡易な職業訓練」とは相当かけ離れているが、訓練所教科について修身及び公民科・普通学科・職業科と実業補修学校と類似している。ただ、訓練所教科には、補修学校にない「教練」が設けられており、内容は「軍事教練」である。しかもその時数は4年間で400時を最低とするとあり、他の教科の合計時数が、400時であるから、実に50パーセントが軍事教練に当てられていたことになる。
 青年訓練所の教員については「主事及び指導員をおく」「主事は実業補習学校長、指導員は実業補習学校の教員」になっており、実業補習学校が付設していた小学校の校長及び教員が兼務していて、いわゆる一般教科・職業科の指導においても実業補修学校と青年訓練所は一連の流れの中で指導されていたが、「教錬」については北海道長官より委嘱された「在郷軍人・予備役」が担当していた。
 このように実業補修学校と青年訓練所は組織的にも指導内容においても似通った教育機関でありながら、両者の並立は非常に困難となってきた。それは、この「教練・軍事教練」の掌握について陸軍省の強い力が働いたからといわれている。文部省はそのため、青年訓練所発足直後から両者の統合を検討、案を作成し陸軍省と折衝、修正を繰り返しながら譲歩を引き出し、その修正案が昭和10年(1935)文政審議会に上程された。
 
④青年学校
 このような経過を経て、昭和10年(1935)4月1日の『青年学校令』(勅令第41号)が公布され、併せて「青年学校規定」(文部省令第4号)により同年8月1日に設立されたのが青年学校である。
 以下に、青年学校の目的・組織・訓練科目・時数について概略を記す。
 
 ・青年学校の目的は、男女青年の心身を鍛練し、職業及び実際生活に必要な知識技術を授け、国民としての資質を向上させることとする。
 ・青年学校に、普通科(2年)入学資格(小学校尋常科卒業または相当に素養のある者)、本科(男子5年・女子3年)入学資格(普通科修了者・高等科卒業または14歳以上で相当の素養のある者)、研究科(1年以上)入学資格(本科卒業またはそうとうの素養のある者)、専修科(適宜)の課程を置く。
 ・青年学校の訓練科目は、「本科男子」については、修身及び公民・普通学科・職業科、体操科、教練科とし、「本科女子」については、教練科を除き男子に同じ、「普通科男子」については、教練科を除き本科男子に同じ、「普通科女子」については、本科女子の科目に加え家事及び裁縫科とし、「研究科」については適宜定め、「専修科」については、主として職業に関する事項について適宜定めるものとする。
 ・ 青年学校の訓練時数は、「本科男子1、2年」210時間(職業科・教練科共に、70時間ずつ)「3~5年」180時間(普通学科・職業科あわせて90時間、教練科70時間)「本科女子」「普通科男女」ともに210時間(本科1、2年と同じ )とし、「研究科」「専修科」については適宜定めるものとする。

青年学校男子の教授及び訓練時数

 
職業科(水産)
 「文部省訓令別冊」青年学校教授及び訓練科目要目、職業科水産についての定めを記す。
 ・本要目はわが国の水産に須用なる知識の習得と実務の練達とを主眼とし水産業の国家的意義を体得をせしむることを期したり。
 ・普通科に在りては農業の基礎的事項を選び、本科に在りては水産経営の実際に須用なる事項を選択することに努めたり。
 ・普通科の教材は男子に在りては百二十時間、女子に在りては四十時間を想定して分量を定め、本科の教材は教授及び訓練時数を想定せず、水産業の各部門に就き重要なる事項を挙げたり。
 ・教材の配列は青年学校の実情に鑑み、普通科に於いてのみこれを行い本科に於いてはこれを行わず、便宜、海洋・漁業気象・水産生物・漁船・航海・運用・漁労・増殖・製造・漁村等に区分してこれを示したり。
 ・本要目に準拠して実施要目を作成すべし、尚実施要目作成の参考に資せんが為沿岸漁業を主とする場合の本科男子五年制の要目を例示せり。(例示は省略)
 
⑤青年学校の義務化
 昭和14年(1939)『青年学校令』の改正が行われ、中学校・高等学校・実業学校に在学しているものを除く、12歳から19歳までの青年男子の青年学校への就学が義務化されることになった。
 この背景について、浅野基雄は『青年学校に関する総合研究(Ⅲ)−青年学校就学義務制に関する諸論考について−芦屋大学論叢』に「この決定には陸軍省の強い力が働いたものと思われる。当時のわが国は既に全体主義・軍国主義の道を歩みつつあり、青年学校義務制にことのほか熱心であった陸軍にしてみれば、青年学校の主要な教授・訓練科目である“教練”を充実させ、兵隊としての練度を上げようとの目論見をもったものといえよう」と述べている。
 
教練科の強化
 昭和16年(1941)青年学校の教練科が改正される(この年の12月8日、米英に宣戦布告し太平洋戦争に突入する)。以下、「青年学校教授及訓練要旨中教練科ノ要旨改正」より教練科の改正・強化部分について概略を記す。
 
 ・ 教練科は生徒の軍事基礎訓練を施し至誠尽忠の精神を涵養するを根本とし心身一体の実践鍛練を行いその資質を向上し国防能力の増進に資するを要旨とす。
 ・教練科は教練・武道・体操及び競技に就きこれを授くべし。
 ・教練科はその目的達成の為、左の要項により整正厳格に訓練しその成果を生徒の全生活に具現実行せしむるに力むべし。
 1 国体の本義に透徹し国民皆兵の真義に則り左の特性を陶冶すべし。
  (1)礼儀を重んじ長上に服従するの習性
  (2)気節、廉知の精神、質実剛健の気風
  (3)規律、節制、責任観念、堅忍持久、闊達敢為、共同団結等の諸徳
 2 旺盛なる気力、堅固なる意思、強靭なる身体を鍛練せしむ
 3 皇国民として分に応じ必要なる軍事の基礎的能力を体得せしむ
 
 教練科の改正はここに示したように軍事教練の強化であり青年学校の生徒を即戦力としなければならないほど、戦況は日増しに不利な状況に陥っていった。昭和18年(1943)「青年学校に於ける教授及び訓練の臨時措置に関する件」により、職業科は勤労時間に置き換えられ、軍事産業へのいわゆる学徒動員へ、普通科も職業科へ割り当てられ、そして、昭和20年(1945)に「国民学校初等科(6年生まで)を除くすべての学校は4月1日より閉鎖されることとなり」青年学校もこれに従い、生徒は戦争協力の為の緊急動員に駆り出され、すべての教育機能を失ったのである。この年8月15日終戦となる。
 
⑥青年学校の廃止
 昭和22年(1947)連合軍総司令部(GHQ)主導の学制改革により、青年学校は廃止される。
 以上、終戦までの、制度としての青年教育の沿革とその概略についてのべたが、以下、これら②~⑥について、尻岸内町史、本町の各学校の沿革誌等の資料を基に、具体的に述べることとする。