函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第6編 教育

第1章 学校教育

第7節 戦時下の学校教育

 太平洋戦争中の4年間は教育経営の中心が体練科「教練」であるかのような観を呈していた。体練科は国民学校令における重点教科であり、昭和16年1月8日には、従来大臣官房の1課であった「体育課を昇格させ体育局を新設」している。これは破格のことであった。戦時下の残されたわずかの教育資料(体練科の)、昭和18年渡島教育大会で提言された「戦時下経営の重点」にその実態を見ることができる。
 
『昭和一八年渡島教育大会での提言』から
 〈経営方針〉 教育者みずから我が国体と皇国の使命に対する不動の信念を持ち、率先皇道の実践に挺身し学校一体、師弟と共に学校内外の生活をあげて決戦体制下における国防国家要員の練成を期す。
 〈実践目標〉・ハイトハッキリヘンジヲシマス。ガンバルコドモニナリマス。シセイヲタダシクシマス。(初等科一年)
       ・大御心に副ひ奉ります。感謝の真心を込めて仕事になりきります。
        御国にささげる立派な身体をつくります。(高等科二年)
 〈鍛練行事〉①行軍の増強(速度・持久力・行軍・軍規)
       ②衛生訓練
       ③決戦意識の昂揚
 これらについては、訓練項目、実施上の着眼点が詳細に明示されている。
 ・実践例、行軍については、毎月1回実施、学年別に距離を設定している。
  初等科1年は4月、4キロメートル、10月までに8キロまで引き上げる。
  高等科2年では最終の10月、32キロメートルを目標とする
 ・看護を重視し、常に虚弱児の健康に注意し次のような学級基準隊形をとる。
  担任−伝令−ラッパ−分隊長−普通児−虚弱児−優良児−第二分隊−衛生−伝令
 ・月1度の閲兵分列を実施、実施要領は次のとおりである。
  3年以上の1学級が1小隊となり、学年ごとに中隊を編成して整列ラッパにより校長に敬礼−人員報告−君が代斉唱−国旗掲揚−隊毎に行進を開始−指揮台上の校長前で、「カシラー右ッ」の号令・敬礼−通過 ……以下省略……
 
 昭和16年度から20年度分の学校沿革や実践記録は殆どが削除されている。
 
古武井小学校沿革誌より「昭和十九年度卒業式の学校長学事報告」
 戦局益々過激の度を加え皇軍将兵はあらゆる方面におきまして勇戦奮闘其の真髄を発揮され、敵米英に対して大なる出血をなさしめている事は銃後国民として等しく感謝致すと共に、益々銃後生産陣の活発な活躍を致さなければならないと思うのであります。
 物量に物を言わせる敵は本土に迫り、毎日の無差別爆撃に依り本土は真に戦場となって居り、先般台湾国民学校閉鎖、又今般帝都に於ける国民学校閉鎖と相成っておりますが、幸いにも当北海道は未だ敵機を見ず、本日昭和十九年学業の全般を終えましてここに学事の報告を致し、初等科及高等科第四回の終了証書授与式を挙行致す事の出来る事は誠に幸いと存ずる所であります。国民学校制実施致しましてから第四回の終了式で御座いまして、初等科は一七七名、高等科は一二五名を数えるに至りました。本年度に於ける期間は昭和十九年四月一日より昭和二十年三月二十迄二四四日で御座います。
 開校以来の修了者は初等科四〇回一一六六名、高等科六回一七三名になって居ります。本年度在席数は、初等科男一四三名女一二五名、計二六八名、高等科男四五名女三二名、計七七名、合計三四五名、此のうち初等科修了生は男二四名女二七名、計五一名、中学校志願者は男女各一名、他は高等科進学であります。高等科修了生は男二一名女一九名、計四〇名で中学校志願者は男一名、軍関係一名、他は殆ど軍需関係工場就職者、あるいは郵便局に動員されております。その他高一年修了者で中学校進学志望者男女各一名おります。学術優等品行方正にて褒状を授与される者、初一年六名、初二年六名、初三年六名、初四年五名、初五年五名、初六年五名、高一年三名、高二年六名、合計四四名、一割二分八厘に当たっております。次に本学年間皆勤児童は、初一年五名、初二年六名、初三年八名、初四年九名、初五年二名、初六年五名、高一年三名、高二年二名、合計四〇名、一割一分六厘で前年の二割三分七厘に比して一割二分一厘の減で、成績は良くありませんが各家庭において生産方面に助力致して居る事を証明しているのであります。尚、六ケ年皆勤者一名、八ケ年皆勤者一名、渡島教育会より表彰を受くるもの初等科一名、高等科一名、尻岸内教育支会より表彰を受くるもの初等科一名、高等科一名であります。
 貯蓄成績も総計一二六八三円九五銭、債券一三六八円で、一人当たり貯金は三六円七七銭、債券三円四七銭に当たって居ります。勤労作業も延日数二十五日、その他学校に於ける勤労は相当日数に及んでおります。主な作業は石炭運び、木材運搬、イタドリ採取等であります。尚、明年度も新たな計画に依って国家に奉じたいと存じております。
 次に本年度に於ける行事の一般を簡単に申し述べたいと存じます。
 四月  入学式始業式・木炭運搬除雪作業・野呂、香田先生告別式・野呂弘先生新任式・天長節拝賀式
 五月  身体検査・体操講習会・健民体操会
 
 六月  飯田先生告別式・高橋先生新任式・体練会
 七月  忠魂碑祭典・青少年団体育大会・第四方面校長会・中田菅原先生長期講習会・海積神社祭典・第一学期終了訓話
 八月  津軽要塞兵士宿・山本教頭先生援農出発・第二学期開始・入営兵壮行会
 九月  山本教頭先生援農帰校・中田菅原先生長期講習会より帰校
 十月  軍人家族修養会・軍人援護詔書奉読会・軍人家族慰問の夕べ 第四方面青年学校々長会・第四方面教育研究会(尻岸内校) 教育勅語奉読式
 十一月 明治節拝賀式・新穀感謝祭
 十二月 大東亜戦争三周年記念米英撃滅大会・第二学期終了訓話
 一月  四方拝拝賀式・尻岸内警防団一夜講習会・同観閲式・青年団演芸会・日ノ浜部落会総会・第三学期開始・警防団講習会
 二月  拡声器取付・新入生実地調査・紀元節拝賀式・祈年祭・学芸会
 三月  装丁学科試験・軍人軍属調査・陸軍記念日・新入生歓迎会 保護者会総会・修了式
 
尻岸内町史より
 一方、尻岸内町史編集長浜田昌幸は戦時下の教育の中で、“教育の現状・子供の姿”を次のように記している。辛辣な風刺や揶揄に軍国主義への批判と、当時、指導的な立場にあった自身の悔悟も感じられる文章であり、原文のまま記すこととする。
 
教科書  小学校が国民学校に変わって、軍国主義教育の花形は歴史と修身だった。
 ・修身は大抵校長か教頭が担当し、愛国心・親孝行を強調して、歴史上の忠君などを例にあげ滔々と話した。歴史の時間は「万世一系の国体」と「天皇の神格化」が力説され、初等科五年から、神武 綏靖 安寧 懿徳 孝昭と記紀伝承の神武天皇から始まり現代までの天皇の称号を暗記させられ、国史の時間になると決まってお経のように「ジンム、スイセイ、アンネイ、イトク、コウショウ」の大朗読が行こなわれた。(付記、歴代天皇の称号初代から、推古、舒明、皇極、孝徳、斉明・五代まで)
 ・天皇の神格化が教え込まれると今度は天皇への忠節で、これは和気清麿、菅原道真、楠正成などの大忠臣が教材とされ忠節を誓わせられた。愛国心は、神武時代から始まって神武天皇の東征、元冦の神風、日露戦争の広瀬中佐、滿州事変の肉弾三勇士と、外国に侵されたことのない神州日本と、国を守った人々の武勇伝が結び付けられて、大和魂、忠君愛国、盡忠報国の精神が植えつけられていった。
 ・教育勅語は勿論、大東亜戦争開戦の勅書、軍人に賜りたる勅諭、戦陣訓などまで暗記させられた。(付記、天皇の称号と教育勅語は、師範学校等の入試に出題された)
 
儀式  軍国主義教育の端的な表れの一つに、あの、しかめつらしい儀式があった。
 ・いわく四大節、いわく何々記念日に、勅語の有難さと最敬礼、不動の姿勢と緊張の連続から来る厳かさの押しつけは、批判的精神の芽を押さえる教育の根本となって、子供らの頭上に押しかぶさっていった。
 ・儀式は、まず、君が代で始まって、何やら最敬礼を二、三回して、いよいよ勅語の朗読、教頭先生が真っ白な手袋で、息のかからないように、恭しく勅語の箱を頭上に持ち上げ式場に入ってくると、シワブキひとつできない。勅語を受け取った校長先生は紫の袱紗(ふくさ)を静かに開き、それに最敬礼をしてから漆塗りの箱の紐を解き徐(おもむ)ろに勅語を取り出し、巻き物をするすると開く、子供たちは不動の姿勢で下を向き、有難く勅語を聞く、“ちんおもうに……”から始まる校長先生の重苦しい声の続く間、教師も子供たちも直立のまま頭を深く下げたきり、長い勅語が終わってほっとする間もなく、今度は式辞だ。分からないこと、長いこと、子供たちにとって、ただ苦痛だけがつきまとった。(付記、姿勢の悪い児童らは容赦なく体罰を受けた)
 ・こんなふうに延々一時間にわたる儀式が終わるころには、体具合を悪くして倒れる子供が必ず二、三人はあった。(付記、具合が悪いとも、言える状態ではなかった)
 ・四大節 一月一日四方拝 二月一一日紀元節 四月二九日天長節 一一月三日明治節
 ・祭日  一月三日元初祭 三月中旬春季皇霊祭 四月三日神武天皇祭 九月中旬秋季皇霊祭 一〇月一七日神嘗祭 一一月二三日新嘗祭
 ・記念日 三月一〇日陸軍記念日 五月二七日海軍記念日 九月二〇日航空記念日
 
服装  日華事変(一九三七)のころまで出回っていた「乃木服」と呼ばれるコール天の冬の学生服や「小倉の学生服」と呼ばれたシモフリの夏服は戦争が激しくなるにつれて姿を消し、規格品のサージの学童服も配給制でなかなか手に入らなかった。また金属回収運動(兵器をつくるための材料として)にそって学生服の金ボタンも陶製や木製のものにかわり、肘や膝に大きなツギをし、尻にはメガネのようなツギの当たったズボンが普通であった。(付記、“欲しがりません勝までは”が、合い言葉であった)
 ・配給のゴム靴もなかなか当たらなくなり、大きな穴の開いたゴム長靴、チビた地下足袋を履いて通学する子もあった。戦争も末期の昭和一九年ころからは、防空頭巾(ずきん)と非常食を入れた雑嚢(ざつのう)を背負い、服には本籍と住所と名前、血液型を書いた名札を縫いつけ行動しなければならなかった。(付記、本土空襲が頻繁となったため)
 
遊び  子供たちは金のかからない遊びをしていた。手っとり早く棒きれ一本で遊べる兵隊ゴッコ、降参ずもう、陣取り、馬跳びなど遊び一般が軍国調になり、軍の階級のついたカード遊びなども流行した。
 ・遊びに関わって、運動会(註)には「軍艦マーチ」「日の丸行進曲」「愛国行進曲」などの曲目に合わせて、護国の鬼だとか中隊教練、騎馬戦、棒倒しなど攻撃的な種目がプログラムの花形になり、これらは遊びの中にも取り入れられていった。また、冬季には雪合戦が勇ましく行われた。
 ・愛読書では、少年クラブ、譚海(たんかい)、幼年クラブ、日本少年、少女クラブなどの雑誌、漫画では、デコボコ黒兵衛、のらくろ、冒険ダン吉、タンクタンクローなどが人気の中心で、いずれも軍事色が濃いものになっていった。(付記、のらくろは陸軍兵士となった野良犬を主人公とした漫画で、手柄をたてるたびに、二等兵から一等兵、軍曹…少尉…大尉(中隊長)と階級が上がっていく軍隊の実態を色濃く表しており、併せて、主人公の出世とユーモラスなしぐさで、子供たちが熱狂した漫画である)
 
 (註)「運動会」当時の運動会については、資料として『恵山むかしむかし 昔の運動会・昭和16年度の古武井小学校大運動会プログラム』を記載する。