函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第6編 教育

第1章 学校教育

第7節 戦時下の学校教育

 国民学校というのは、昭和16年から22年(1941・4・1~47・3・31)までの日本の小学校の名称である。これは、昭和16年3月1日、教育審議会の「国民学校、師範学校及び幼稚園に関する件」の答申に基づいて『小学校令を改正・国民学校令』を公布−これは明治40~42年(1907~9)「小学校令三回目の改正・義務教育年限六年間」以来、34年ぶりの改正である−、同月14日、小学校令施行規則を改正して国民学校令施行規則を公布、4月1日から実施することとなった。但し、改正された義務就学期間(高等科2ヵ年)の適用については19年度から実施することになっていた。
 この従来の小学校が国民学校に改められた基本的な理念について、時の文部大臣橋田邦彦から地方行政府に充てた文部省訓令第9号には、次のように述べられている。
 
 「未曾有の政局に際会し庶政を一新して国家の総力の発揮を必要とする秋にあたり、教育の内容及制度を検討して、其の体制を新らしめ国体を不抜に培う必要から、わが国独自の教育体制を確立せんことを期し、茲に国民全体に対する基礎教育を拡充整備して名実共に国民教育の面目を一新し、克く皇国の負荷に任ずべき国民の基礎的鍛練を完うし将来に於ける学制の根柢たらしめん」
 
 要するに国民学校令は“皇国の道にのっとって国民の基礎的鍛練をはかる”ことを主眼としている。そして、これと同時に「教科の統合・教科書の改正」なども行い、義務教育年限を2か年延長して、戦時体制下の教育再編成の一環として実現されたものである。
 これはドイツの方式(ナチズム)を真似た日本ファシズムの初等教育の制度化であった。しかし戦争は急激に進展し、児童生徒は学童疎開(註1)、勤労動員(註2)などで、逆に校外に追い出される結果となってしまい、この制度の目的・主旨などから、明らかに矛盾した結果になってしまったのである。
 皇国の道にのっとって国民の基礎的鍛練をはかる、すなわち「国民学校は皇国の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的練成を為すを以て目的とす」とあるように、言い換えれば、国民学校の目的は皇国繁栄・戦争勝利のために尽くす国民育成の初等教育機関であることを、より明確に位置づけたわけである。
 70年間、国民一般に親しまれた「小学校」の名称がなくなり「国民学校」と改められたことについては、当時、一部、公の人々には強い反対もあり、国民の戸惑いもあった。しかし、結局「名実共に国民教育の面目を一新せんこと期する」という趣旨によって断行された。このことは、当時日本が大陸などでの軍事行動の拡大から国際的に孤立しており、特に、米・英との関係が極めて険悪な状態に陥っていたことと無関係ではない。この年、昭和16年(1941)12月8日、日本はハワイ真珠湾を奇襲攻撃しアメリカ・イギリスに宣戦布告、4年にわたる太平洋戦争(当時、日本は大東亜戦争と命名した)に突入した。
 ただ、『日本の教育・発行 文教政策研究会・24~8P・編集人小川昇・1987』によれば、「この国民学校令を制度上から見て、次の改善点が注目される」と記している。
 
 ①義務教育年限が8年間に延長されたこと。
 ②国民学校の課程を初等科6年、高等科2年としたこと。
 ③国民学校高等科2学年を修了したもののために修業年限1年の特修科を設けたこと。
 ④就学義務の徹底を図ったこと。
  ・保護者の貧困により児童就学義務の免除または猶予の制度と、家庭で義務教育を行うことができる旧制を廃止し、心身異常児童のための特別養護施設を講じた。
 ⑤国民学校職員の組織・待遇を改善したこと。
  ・新たに教頭と養護訓導を置きうること。
  ・校長と教頭は奏任官待遇とすること。
 
 なお、昭和19年度から実施されることになっていた高等科2年間の義務化は、戦時非常措置により延期されたまま終戦となり、結局は実施されなかったが、終戦後、22年より実施された六・三制により新制中学校3年間の義務教育として実施されることになった。
 
 (註1)学童疎開 第2次世界大戦・太平洋戦争中、東京など大都会の国民学校初等科児童を郊外の農山村に移動させ戦火を避けたことをいう。正式には1944年8月からで学校単位で実施、45年には疎開児童数、約45万人に達した。疎開先では公会堂・寺院・旅館などを宿舎として、現地の学校も協力し授業も行なわれることにはなっていたが、教師・寮母は食料難や物資の欠乏に追われ正常な教育は行われなかった。なお、函館市内の学校でも学童疎開訓練の名目で実施された。
 (註2)勤労動員(学徒動員) 第2次世界大戦・太平洋戦争中、中等学校以上の学校の生徒・学生が「軍需産業や食糧増産」に動員されたことをいう。1938年から文部省は中学校以上の学校に「集団的勤労作業」の実施を指令、41年には「学校報国隊」を組織して勤労動員が行われ、43年には「学徒戦時動員態勢確立要綱」が閣議で決定、44年には動員の強化、原則として「通年動員」の態勢となり、同年8月「学徒動員令」が公布された。そして、45年の春には、ついに国民学校初等科外の授業は原則として停止、全学徒(国民学校高等科も含む)は決戦体制に総動員、同年5月「戦時教育令」により教育の決戦体制を法制化して8月15日敗戦を迎える。