函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第6編 教育

第1章 学校教育

第4節 各小学校開校の頃

 根田内學校
 公立 渡島国亀田郡尻岸内村支村根田内ニ在リ
 明治十三年四月 村民金百五十六円余ヲ積ミ民家ヲ借リ校舎トス
      八月 開業根田内學校ト称シ変則小学科ヲ教フ
      十月 教則ヲ修正ス
   十四年十月 字東風海汀ヨリ二町ノ間昆布繁生ノ処ヲ以テ附属ト為シ之ヲ請フ
     十二月 許可ス
         維持方戸数割ハ壱ヶ月一戸金十銭 
         授業料ハ生徒一名十二銭五厘 其他昆布場収入金等アリ
 
 町有文書によると、村民が互いに出し合った寄付金156円をもとに、字根田内37番地のヤママス高松熊太郎方の番屋を改造して仮校舎に、明治13年8月25日開業したとある。
 前記の大蔵省文書では明治13年の就学児童は男子のみで23名、町有文書によると不就学児童は65名で就学率は34%である。翌年は、就学児童が16名であり、2年後の1882年(明治15年)の記録には、根田内学校の不就学児は男61名、女56名、計117名で、家業のためがその理由となっている。
 明治13年の「小学訓導辞令録」によると最初の教師は、6等准訓導木村千佐の発令が、記録されている。そして明治15年3月15日付けで、4等准訓導秋江孝三郎が後任となっている。現在残されている恵山小学校沿革史の歴代校長の一覧には、7代目とされる尾崎芳之助の退任年月日が大正9年3月25日と明記されているだけで、それまでは就任・退任の時期が不詳となっている。順に氏名を上げると、

[表]

とあり、「秋江」の名は歴代教師の中にも見当たらない。
 また、在任時期は記述されていないが、歴代教師は次のように列記されている。
 
 酒井(不詳)、川越四郎、池上半太郎、落合武夫、関口峯太郎、阿部(不詳)、藤田正一、高井武夫、黒川國藏、北畠龍太郎、高橋一郎、小田桐喜三郎、向井千秋、丹野春代、大竹良一、今野順毅、神田文衛、富塚(不詳)、桜井利男           以下略
 
 このように、記録にはその氏名がないが、道文書館に残されている「辞令録」で見るかぎり秋江孝三郎は、2代目校長といって間違いがないだろう。秋江孝三郎は、山形県の出身で同県の小学校訓導から明治15年1月には函館師範学校の予備教員となり、直ちに根田内学校へ発令されている。
 また、明治17年の「亀田郡役所伺届録」には、根田内小学校の7等訓導山本寛亮が胃病に罹り重症で職務遂行が困難なので辞職を上申するという文書が5月10日付きで出されている。そして、同12日には授業に支障があるので、月俸10円程度の後任訓導を直ちに任用してほしいと上申されている。
 その後、明治17年9月9日付きの「函館新聞」には「根田内小学校四等訓導吉田八弥は、願いにより昨日本官を免ぜられた。」とあり、記録を見るかぎり短期間に2人の校長が慌ただしく代わったことになる
 そして、前記した明治18年の「函館縣學事第四年報」には、安保忠次郎が校長として記録されている。
 開校間もない根田内小学校長は、現存されている文書や記事で見るかぎり木村、秋江、山本、吉田、安保と続いたことになる。そして、木村校長以外は恵山小学校の沿革史にはその名が見当たらない。今後、他の資料を得て整理してみたい。
 さて、校舎は番屋に急きょ手を加え学校にはしたものの学習の場としては、手狭でかなり不便であったことは想像に難くない。根田内小学校の校舎に関する事項は、沿革史に残されている昭和6年の村長宛ての調査報告には次のように記録されている。
 
根田内小學校沿革概要
 [一]學校ノ変遷
 一、本校ハ明治十三年八月ノ創立ニシテ当時三十七番地ノ民屋ヲ借リ受ケ假校舎トシテ創立、根田内學校ト命名ス
 一、明治十六年三月 公立根田内小學校ト改称ス
 一、明治十八年 寄附ニ依リ校舎ヲ改築セリ
 一、明治二十二年十二月 隣村古武井小學校ト合併シ新校舎ヲ建築シテ収容セリ
 一、明治三十六年十一月 古武井小學校ト両校分立シ二學級トシ別ニ補修科ヲ設ク
 一、明治三十八年九月 校舎ヲ改築シ翌年度ニ於テ三学級ニ編成ス
 
 「尻岸内町史」によれば、『明治十六年三月現在の厳島神社の境内に移転改築し、「根田内小学校」と改称した。それから僅か二年後の十八年六月、恵山岬の高台に新校舎を建築、二十二年十二月古武井学校と合併して、恰も今日の東光中学校における通学区域に同じだった訳である。』と記載されている。
 ところが、明治17年10月4日の「函館新聞」には次のような記事がある。
 
 小学校移転式 去月(九月)二十三日に尻岸内小学校、二十四日に根田内小学校で、いずれも新築落成につき移転式が施行された。それぞれ当日、本県七等属原直次郎、亀田郡長代理郡書記坂本信近、学務担当郡書記吉村朔太郎の諸氏が式場に臨席され、原七等属は時任県令の告示を代読し、ついで坂本郡書記の祝詞、学務委員の答詞あり引き続いて教員・生徒・村惣代等の祝詞を朗読し、終わりに原七等属、吉村書記の学事についての演説があり、終わって村民一同学校において祝宴を開き生徒には別に赤飯を与えなかなか盛んであったと該地より通信あり。
 
 すなわち根田内小学校も尻岸内小学校も新校舎ができたのは明治17年9月である。
 尻岸内小学校の沿革史には、校舎移転の月日が不詳になっている。根田内小学校の明治18年の校舎新築は、この記事から見て明治17年に間違いなかろう。
 その後、明治22年に古武井小学校と合併したが、明治36年には古武井小学校が分立し、明治38年に恵山127番地に新築移転した校舎が昭和16年の火災で全焼したのである。
 ところで、古武井小学校が根田内小学校に合併した理由と思われる事項は前記したが、この時期の分立については、「尻岸内町史」には『明治三十五年、古武井硫黄山に山県勇三郎が事業を始め、翌三十六年には押野常松もまた操業を開始して古武井川上流にこれら鉱山関係者を始め労務者が大量に移住して聚落を形成した。このため遽かに古武井に学校を建てようとする話し合いが進み小学校設置の申請をしてその筋の許可を得たのである。』とある。  
 それは最も大きな事由ではあるが、他に通学距離の遠さや地区の温度差などもあるのではなかろうか。
 例えば、明治33年6月13日の「函館日日新聞」に村内各学校の就学率が示されている。

[表]

 
 根田内小学校の就学率が極端に落ちこんでいるのは、経済的なものもあると思われるが、通学区域が遠距離であったことも理由の一部ではなかろうか。
 1903年(明治36年)7月11日発行の「函館公論」には、次のような記事がある。『古武井小学校の新築 従来古武井村学齢児童は根田内小学校へ通学しているが、目下校舎が狭隘となり、二部授業をしているが、なお児童を収容し得ないでいる。のみならず両村の距離が遠く就学上困難であるので、このたび独立新築の出願に及んだ。』
 1913年(大正2年)に当時の古武井小学校長大西高尚が編集した「尻岸内村郷土誌」には、現役場の位置に建っていた古武井小学校から根田内小学校までの距離が32町30間(およそ4キロ)と記載されている。家事労働の一端を担っている子どもにとっては、当時でもうんざりする距離でもあったであろう。
 古武井小学校に現存する学校沿革史の最初には、次のようにある。
 
沿革概要
 当字古武井学齢児童ハ従来根田内尋常小学校ヘ通学シ居リシ為メ、小学校ナルモノアラサリシガ、漸次児童ノ増加ト通学上ノ不便ナルヲ感ジ、明治三十六年根田内小学校ト分離シテ古武井小学校ヲ新設スル事ヲ議シ、先ズ学校林ヲ金五千円ニ売却シテ之ヲ費用ニ充テ、仝年六月工事ニ着手シテ仝年十一月新築落成シ、十四日ヲ以テ開校ノ式ヲ挙ゲタリ、工費総テ三千五百円本校初ヨリ単級ノ編成ナリシガ、明治三十七年度ヨリ二学級ニ変更シテ編成セリ 明治三十七年四月ヨリ本校所属トシテ元山、中小屋ニ特別教育所ヲ設置ス  以下略
 
 こうして、13年ぶりに古武井小学校は再出発をしたのである。
 まず、1887年(明治20年)9月10日の「函館新聞」を見て頂きたい。
 
小學校公立
 亀田郡尻岸内支村日浦村へ公立學校設置の趣き願ひ出しが既に許可に成り、去る一日開校式を執行せり、同村は有名なる山道にして山間の一小僻地、戸数僅かに廿七戸人口百七十一人、従来學校等の設置とては更に無く村民皆無學の者のみなるを深く歎き、於是今回有志者發起して同校を設立し日浦小學校と称し、村民を修學せしめんと謀り、其維持法は同村へ昆布及び鰮漁の為め他方より入稼の者一名より昆布は元揃四把、鰮の網一投に付、金二円宛を徴収し尚不足は人民より支辨するの見込なりと云ふ
 
 すなわち、この記事によると日浦小学校の開校は、明治20年9月1日となる。
 1912年(大正元年)に新たに編纂された日浦小学校の沿革史に、明治の部分は次のように記されている。
 
学校及び学区
 当日浦尋常小学校は明治十九年六月十五日の創立にして、当時は日浦簡易小学校と称せり、其の通学区域は字日浦一円として、終業年限三ヶ年の簡易科を置けり。
 明治二八年四月 修業年限三ヶ年の尋常科に変更。
 明治二九年五月 修業年限四ヶ年の尋常科に変更。
 明治三五年四月五日 修業年限二ヶ年の補修科を付設せしが、同三八年六月これを水産補習学校に変更、同四二年一二月、毎年五六七の三ヶ月間授業することに改む。
 明治三五年四月二八日 裁縫科加設の件認可。
 校地及び校舎
 当校地は明治二〇年九月 一一一番地 一四九坪五合を三浦綱吉より譲り受け、教室一六坪改築す。この金額七二円。
 明治三五年七月 当校敷地として東三吉より一八〇番地 宅地一畝五歩、三浦綱吉より一二四番地宅地一畝五歩寄附。
 明治三五年八月 教室一六坪に職員住宅一〇坪増築す。この代金三一六円八〇銭。
 明治四二年一一月 校舎五二坪を一、三〇七円にて改築せり。
 
 また、日浦小学校100周年記念誌には、
 
 明治一九年六月一五日 日浦簡易小学校創立。修業年限三年
            児童数八人 仮校舎。
  〃二〇年九月八日  校舎移転。
 
 このように沿革史では、開校が明治19年6月15日であり、「函館新聞」の記事と1年以上の開きがある。三浦氏から土地を譲り受けて16坪の教室を改築したのは、明治20年9月となっており、これが新聞の記事と一致する。改築とあるから新聞の開校時より以前の19年に仮校舎において学校が開設されており、20年に仮校舎に手直して新たに開校式を行ったのであろうか。
 「尻岸内町史」は日浦小学校開設当時を次のように記している。
 
 『明治一九年四月、政府は勅令第一四号で小学校令を公布したが、この「小学校令」のもとにスタートしたのが日浦小学校であった。
 すなわち。「日浦小学校沿革」によると、この年六月、日浦村二〇番地、永井和助より敷地を借受けて一五坪の校舎を新築し、佐藤孫次郎を校長に迎えて「日浦簡易小学校」と称して六月十五日開校したが、ときに修業年限は三ヶ年生徒は八人だったとある。』
 
 また、町公用財産目録の「土地ノ部」に、この時期の日浦小学校の学校敷地に関するものは次のようになっている。
 これらの資料を比較すると、学校沿革史と町の土地記録簿の記載事項に微妙な違いが見られる。
 

[表]

 明治19年に永井和助より借り受けた土地が日浦20番地で、翌年16坪で改築された校舎が三浦綱吉より譲り受けた111番地である。新築されたものが1年後に改築され、15年後の明治35年に増築された教室も改築時と同じ16坪である。職員住宅10坪が増築されたのであろうか。
 永井和助の敷地に校舎を新築したという記録は「尻岸内町史」のみに記述されており、大正元年に編輯された学校沿革史にも見当たらない。敷地坪数や譲り受け期日の違いは別にして、沿革史の「校地及び校舎」に記されている明治20年9月が日浦小学校の開校時期ではないだろうか。それまでの間、永井和助所有の家屋等で、学校開校までの正式でない一時的な学問の場が開かれていたのではなかろうかと思われる。
 日浦小学校の明治時代の校長は、学校沿革史に次のようになっている。前記した各学校と同じように初代から7代目までは、就任時期や在職期間は不明である。
 初代から7代目までは、平均して2年たらずで交代していることになる。

[表]