函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第6編 教育

第1章 学校教育

第2節 学校が創設されるまで

 わが国の近代的教育制度は、1872年(明治5年)の「学制」に始まる。その間幕末から明治維新の直後にも日本各地で各藩で藩校や郷校が設けられたし、庶民のための寺子屋も多く存在した。維新により270年間の幕藩制が崩れ、欧米列強からの圧力のもとに日本が開国を行い、中央集権政府がつくられた。この時期、新たな日本、近代国家を構築するためには、教育制度の確立が急務とされた。新政府は欧米各国を参考に模索しつつも教育に対する方針を相次いで定めた。それには全国に学校を設け、そこに子どもを就学させる。それは、士農工商すべての者の階級を超えたつとめである、とされた。学校の系統は、大学・中学・小学の3段階とし、小学校は人民すべてが卒業すべきものとされ、その経費は基本的には受益者負担の原則となっていた。
 また、学校で学ぶべきことは空理虚談の「虚学」ではなく、欧米で開発され、生活に密着した「実学」であるべきだとされた。《「学事奨励に関する被仰出書」太政官布告213号、「学制」文部省布達13号別冊、「学制着手順序」文部省、小学教則文部省布達(番外)による。いずれも1872年(明治5年)に出されている。》
 それによって、北海道の寺子屋的な塾や郷学校も文部省令に準拠して教育所と改められるなど、少しずつではあるがその形は整えられていったが、官立は別として村落における学校の設立はかなり困難を伴っていた。1873年に文部省よりの「北海道学事着手之儀ニ付伺」に対する開拓史の回答によると「未だ他府県同様学務施行の場合に至り申さず」とある。その原因としては、(1)教育の必要性に対する認識不足。(2)経費の公的補助が少ない。(3)住民の所得が低い。(4)子どもも家計を助ける労働の担い手である。(5)良い教師を得る事が難しい。などのほか、教育そのものの効果を実際に住民に示すことが困難であったことがあげられよう。《「新北海道史」による。》
 明治のこの時期、村民は学業の必要性は認めながらも、家業である漁業の不確実さに不安もあった。生活は豊凶に左右され、しかも漁民は古くからの親方仕込み制度があるなど漁村特有の伝統に従った生活方式があり、新たな制度を直ちに取り入れるには、まだ熟していなかった。また、漁業の多忙な時期に学校へ子どもを通わせることは、それだけ労働力を欠き、生業の損失になるという考えも、その現況から当然の成り行きであった。
 しかし、「学制」が公布されて以来、北海道開拓使は教師の養成機関である「小学科伝習所」(後に函館師範学校と改称される)を1876年(明治9年)函館に開設するなど、学校の設置に対して少しずつではあるが諸条件を整え始めていった。
 開拓使函館支庁では、1875年(明治8年)3月の奨学告諭を発し、この中で「明治5年の学制創定以来、全国の学事は全部この制度に拠らざるを得ないのに、当地の人民は学事に関心が薄く、教育は官に依頼するばかりで、他の県の官民に対しても恥じるべきであり、以後……もっぱら学制の趣旨に基づいて順次施設を整えなければならない。」《布令類聚》というもので、経費についても、不足分は官で補助すると述べている。
 こうして、開拓使函館支庁は係官を各村に派遣して村人や有志に、学校を建て子弟を通学させる必要性を説いてまわり、次第に村人の教育に対する考えも変化すると共に、有志の熱意も加わって学校教育施設設立への動きが始まっていったのである。
 学校創設以前の尻岸内には、どの位の児童がいたのか、記録されている一番古い町有文書は学校創設前年の1879年(明治12年)の村勢一般をまとめた「明細調書」の控えである。これは戸長より郡長へ報告する文書の下調べとも言うべきもので、自然・産業・人事等、村勢全般にわたる詳細な内容で、署名には茅部尻岸内村元村用係の村岡清九郎がある。学校の項は次の通りである。
 
 一、学校生徒ノ在否 学校無之
 一、学齢人員男女ヲ区別ス 但 入學ノ人員と入学セザル人員等ヲ記入スヘシ
  弐百九十五人 内 男 百六十三人  女 百三十弐人 但 不就學
 一、学校維持法ノ見込ミ 維持法ノ見込ミ未タ不可
 
 すなわちこの時期、村内には学校はまだできていないが、6才から14才になる学齢児童が295名も存在していたのである。
 そして、翌年の1880年(明治13年)11月の「渡島茅部尻岸内村起原ヨリ沿革取調」の中には、次のように記されている。
 
 一、尻岸内學校 公立  壱棟
   明治十三年五月建築 教官 井田梅太郎
   学齢 九十人 内就學 弐拾三人 不就學 六十七人
 一、學校維持法 海産物集金貸付利子 
 一、古武井學校 公立  壱棟 
   明治十三年八月建築 教員 大内福寿 
   学齢 五十五人 就學 十四人 不就學 四十一人 
 一、學校維持法 海産物集金貸付利子
 一、根田内學校 公立  一棟
   明治十三年八月建築 教員 木村千佐
   学齢 八十七人 就學 二十二人 不就學 六十五人
 一、學校維持法 海産物集金貸付利子 
 
 この年に村内に3校が創設されたのではあるが、まだ開設されていない日浦を除いて232名の学齢児童のうち173名の児童が学校に通えないでいたのである。実に就学率は25%にしか満たないのである。(この当時の日浦地区の詳しい学齢児童数は定かではないが、地区の年齢区分の記録によると、10才以下は44名、11才から14才は15名、合わせて59名となっている。当時の正確な就学児童数は不明である。)
 ところで、これらの不就学児童の理由は、学校開設2年目の1882年(明治15年)の村勢報告には次のように記されている。



 ここでは、日浦の就学すべき児童数が22名と見込まれている。
 この当時、学業を重んじながらも生活を維持するためには、漁家の仕事の多忙な時には子どもの手を借りざるを得なかったことや、授業料等が受益者負担だったことにより、まだ学校が開設されていない日浦を含めて281名にもなる多数の不就学児が存在した主な理由であったろう。おそらく北海道では他の村々でも同様な状態であろう。
 このような北海道の実状に、開拓使長官黒田清隆は1879年(明治12年)2月「教育告諭文」を発し、その中で「……今、教育はその効果や結果を考えず、そのために実質が伴なわず弊害が起きている。そのために小学校教則を改正する。要は教員の品行や指導の内容による。上州の沼田では、養蚕の時期には学校を閉じて、生徒を家業に就かしている。フランスのリオンでは、生徒に生糸織りの科目を設けて教えている。パリでは、生徒の衣服が意外に質素である。ロンドンも同様である。ヨーロッパ諸学校の遊戯は、筋骨を強壮にするために、手荒い事も取り入れている。教育とは国家を強く盛んにするための大事なことである。……」(原文要約)と述べている。
 すなわち、浮華軽挙を戒め地域の実状や民意にそって、将来に生きる実用の教育を奨励し、新たに出発した学校教育のあり方に反省を求めている。
 そのような世の動きに、村でも学校設立の機運が醸成されてきたのである。
 1880年(明治13年)の4月に「尻岸内学校」「古武井学校」「根田内学校」の「公立学校設立伺」が時期を同じくして、茅部郡長廣田千秋へ提出された。そして、開拓使函館支庁を経由し、「願之趣聞届候事 開拓大書記官 時任為基」の朱書きの署名と註を加筆されて開拓使へ届けられた。その実物が、北海道文書館に残されている。
 その「公立学校設立伺」は、各学校とも項目やその内容もほぼ同様なので、尻岸内学校の分を取り上げてみたい。
 
 一、学校位置  渡島茅部尻岸内村番外地
 一、敷地坪数 二八坪
 一、建家坪数 一八坪
       右建家画図及其費用ニ係ル有志集金別冊ノ通
 一、校  名 尻岸内学校
 一、生  徒 四〇名
 一、教  員 一名
       但シ 一名ニ付生徒五〇名 受持ノ見込ミ
 一、書籍及器機   右品名及代價別冊ノ通
 一、学資出納概額 常費概額 一ヶ月 四円六〇銭
              一ヶ年 五五円二〇銭
         内訳 書籍新調及補理費(以下金額略) 
            営繕費 薪炭費 雑費
     収入概額
         内訳 生徒授業料 一ヶ月 金五円
                  一ヶ年 金六〇円
            寄附金 寄附人員別冊ノ通
            村内集金 一ヶ月 金七円六〇銭
                 一ヶ年 金九一円二〇銭
            右村内集金常費割 別冊ノ通
 前條ノ通當村内協議ノ上教則校則ニハ御規則ヲ遵守設立仕度此段相伺候也
 
 となっており、差出人の名前は、それぞれの学校ごとに左記のように連記されている。
 
 尻岸内学校 渡島茅部尻岸内村 惣代兼学事世話係 野呂巳之助
                  学事世話係    小沼 景義
                  学事取締兼戸長  吉岡 新藏
 古武井学校 渡島茅部尻岸内古武井
                  惣代兼学事世話係 野呂巳之助
                  学事世話係    福沢安五郎
                  代理       福沢善次郎
                  学事世話係    佐々木久助
                  学事取締兼戸長  吉岡 新藏
 根田内学校 渡島茅部尻岸内村根田内
                  惣代       大坂 力枩
                  学事世話係    廣島萬兵エ
                  学事世話係    手代森重藏
                  学事取締兼戸長  吉岡 新藏
 
 また、それぞれに別記されているものは古武井学校の場合、教員1名の給料として1年分96円、学校借家料を1年分5円、薪炭油は1年分15円、書籍新調及び補理費1年分36円、雑費は10円と見込んでいる。その他、別冊となっている「営繕仕様調」には、建家買入代価35円と材木、釘、畳、大工作料などが計上されている。
 「書籍器機代価調」の中には、教科書をはじめとして、伊呂波五十音図などの掛図類や地球儀、算盤(そろばん)、硯(すずり)などの教具類、国旗、時計から教師用のテーブル、手桶、火鉢、五徳、書籍箪笥(本箱)などの備品まで、当時の学校で必要と考えられる品々がその金額と共に列挙されている。
 「寄付金人員調」には、尻岸内学校の場合、尻岸内人民一統よりの60円を筆頭に個々の村民の寄附が金額と氏名が記録されている。5円から50銭まで、それぞれの資力に応じての寄附台帳である。
 「学校維持方法調」には、明治13年から16年までの3年間の学校を維持するための収入の予定及び財産計画が記されており、その主なものは海産物賦集売卸代価の見込みとなっている。
 また、その書類の最後には、惣代と世話係よりの「教員派遣願」も添えられている。各地で学校開設が相次ぎ有能な教員の確保も懸案事項であった。当時は、教員免許保有者も少なく、神官、僧侶、士族など寺子屋の師匠でもあった読み書きのできるものが、教員に採用される時代でもあった。しかし、「学制」に基づく新たな学校には従来の私塾や寺子屋の師匠とは異なる教育者が必要とされた。開拓使では、東京師範学校出身者の招聘を働きかけると共に教員養成の機関として「小学教科伝習所」を設けていった。
 函館の小学教科伝習所は、1876年(明治9年)に東京師範卒業の城谷成器や藩校出身の吉田元利ら4名を迎えて開校された。これは、本道最初の教員養成機関である。明治13年には函館師範学校と改称された。しかし、残念なことに北海道庁が置かれた1886年(明治19年)に廃止され、現在の北海道教育大学函館校の前身となる北海道函館師範学校は、1914年(大正3年)の創立であり、第1回の卒業生が教師として教壇に立ったのは1918年である。道南においては学校教育の充実期ともいうべきこの間、30年以上の教師養成機関の空白は、大きな損失でもあった。
 この時期、新政府は日本の急進的な近代化を図るために、模索しながらも西欧の事情を下敷きに、教育環境の整備を進めてきたのである。その流れに道南の各漁村も学校設立の機運に乗らざるを得ない状況になってきた。
 これには、函館支庁が1875年(明治8年)の奨学告諭で「学制」を実施するようにうながし、それぞれの収入に応じた醵金を求めたり、学校の経営に当たってはできるだけ公費による補助をすることも打ち出した。1880年7月に実施した函館支庁の補助金額をみると、児童1人の単価は50銭である。これは他の支庁に比較して高額であった。
 さらに、1879年(明治12年)に公布された「教育令」では、5年に制定された就学年限を公立小学校で8ヶ年としたが、地方の実態によっては4ヶ年まで短縮できるようになった。翌年の文部省通達では、小学校の6科すなわち読書、習字、算術、地理、歴史、修身の全てができない学校は変則学校とすると定められた。
 これらの手だてや教則の改正により、教育制度や行政組織は次第に整備され、学校設立に困難を来していた各地にもようやく新しい展望が開けてきたのである。
 尻岸内村でもこのような動きの中で尻岸内古武井、根田内の各学校設立へ向けて急速に地区の人々の期待や意気も高まってきた。
 1880年(明治13年)を前後に学校の開設が盛んになり、この年の3月には全道で官立1校、公立130校であったが、5年後の1885年には全道で公立学校263校、私立学校10校が設立されていた。そのうち函館県管内では、1880年に開校された恵山町の3校を含めて153校の多きを数えた。ちなみに同時期、札幌県は103校、根室管内は16校が設立されていた。