函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第5編 交通・通信

第2章 郵便・電信

第4節 電信(電報・電話)の沿革

2、電話

 尻岸内古武井郵便局の電話通話業務は大正3年(1914)3月26日に開始された。
 このことについて同月24日付の『函館新聞』に“尻岸内の電話開通”の見出しで、次のような記事が載っている。
 
 かねてから架設中にありし尻岸内古武井椴法華の三局は、いよいよ明後二十六日より通話することとなりたるが、料金は前記三局より函館・上磯・大野・七飯局へ、いずれも金二〇銭にして、尻岸内局より古武井局へは金五銭、椴法華局へは金一〇銭、又、古武井局より椴法華局へは金一〇銭なるが、なお、呼出区域は尻岸内局配達区域のほか女那川及びメノコ内、古武井局配達区域のほか字根田内、椴法華局は椴法華局配達区域のほか相および元椴法華などとなりと。
          函館新聞(現北海道新聞)大正三年三月二十四日
 
 下海岸の電話局開設の経緯について、当時の新聞から拾ってみる。
 
・大正元年(一九一二)十一月二十八日『函館新聞』“東海岸(東渡島)電話架設”
 函館と東海岸、すなわち戸井を中心とし古武井間に於ける長距離電話架設問題は、一時寄付金その他の関係により行き悩みの姿ありしに、近時、又々架設の議再燃したり、右電話架設は約四千円の内関係地は、半額二千円の負担にして、古武井村及び三井鉱山事務所は七百円を負担する内約成りたるが、戸井方面は東海岸中、通信力の上よりするも残額大部分は負担するに至るべく当区(函館)の如きも、如上諸村と密接の関係あり。電話架設の暁にはその利便を共にするをなれば、関係当業者等はこれが負担を辞せざる可く尚、尻岸内、銭亀沢も同線に参加の希望ある由なるが、本年は鰛(いわし)大漁、加うるに夏以来希有なる烏賊(いか)大漁にして下海岸一帯漁業家の懐中頗る豊沃なれば、この機を逸せず多年の懸案たる該計画を遂行せん為、佐藤函館郵便局長は両三日中、右関係地に出張すべせしと。
 
・大正元年(一九一二)十二月九日『函館新聞』“市外電話の拡張”
 市外電話の拡張は近年著しきものあり。函館に商況関係を有する重要町村は既に遺憾なき程度に迄、完成せられつつあるが、昨今来の計画中のものなる
 ▲下海岸線は、今回、佐藤函館郵便局長の出張により、明年度に於て是非とも之が実現を為すべく寄付金額の予定次第徴募を為す筈なりと云うか、通話区間は古武井尻岸内、戸井、銭亀沢、石崎の五局あるも、通話関係上銭亀沢・石崎の二局は別に之を架設するの必要あり、未だ之が確定を見ざるも約略右の如く決定を見るべしと云う。
 
・大正元年(一九一二)十二月二十八日『函館新聞』“椴法華通信(二五日)”
 ▲ 電話延長の運動 函館古武井間長距離電話は過般、佐藤函館局長が同方面に出張し、愈々来年八月頃までに架設通話開始される運びとなりたるが、当村有志者は該電話を当村(椴法華村)まで延長申請なさんとて、目下頻りに着手し居り。
 
・大正二年(一九一三)一月二十九日『函館新聞』“函館戸井間電話”
 函館、戸井尻岸内間電話は、各関係地の寄付金に拠り愈々明年度より起工の筈にて、今回、佐藤函館郵便局長より区役所並びに商業会議所へ向け、勧誘し來たれるが当区(函館区)の割合額は五百円にて、近日中区役所、会議所間打合せの上寄付金募集に着手する筈なり。
 
・大正二年(一九一三)一月三十日『函館新聞』“函館戸井間電話(続)”
 函館戸井間電話架設費寄付募集方佐藤当郵便局長より、区役所会議所へ勧誘し来る由は昨紙所報の如くなるが、右は大正二年度に於て下海岸亀田郡各地に対し架設するの計画にて、戸井、石崎、銭亀沢及び椴法華尻岸内古武井を各一回線とし、この工事総額約六千四百余円なるが、之が寄付金は該工事の六割、即ち三千八百円余を提供するにあらざれば確実に成立の見込なりきも、右関係各地にして既に三千三百円までは相当分担提供の事にほぼ確定して居るを以て、当区内(函館)においてこの際残余の五百円余を募集せんとするにありと云う。
 
・大正二年(一九一三)二月五日『函館新聞』“沿岸線寄付割当額”
 明二年度に於て新設さるべき函館椴法華間電話寄付金総予算額は、三千八百円にして内函館は五百円なるが、その他の関係各村の割当額予定は次のごとし。▲三百円銭亀沢、▲四百円石崎、▲六百円戸井、▲千円尻岸内古武井及び古武井鉱山、▲千円椴法華
 
・大正二年(一九一三)二月八日『函館新聞』“新設電話と寄付”
 ▲沿岸線は二回線 函館椴法華間電話は椴法華の新加入によりて最初の予定を変更し、函館戸井線、函館椴法華線の二回線となすに決し、戸井線は銭亀沢・石崎の二村、椴法華線は古武井尻岸内の同じく二村にて、寄付金は略々纏り殊に椴法華の如きは僅か三百戸内外の小村に拘らず、壱千円の寄付募集円満に解決を告げたる由。
 
・大正二年(一九一三)二月九日『函館新聞』“市外電話の完成”
 ▼殆ど全きを告ぐ
 ▲本年度新設線 函館市外電話は本年度において殆ど予定計画実現され、更に昨今来の問題たる戸井、椴法華二線の竣工と共に全き程度に迄で完成を告ぐべきが、今本年度の新設線及び旧設線を示せば、▲新設線一一局 大野、大沼、福山、歌棄、七飯、茂辺地、森、知内、美谷、磯谷、福嶋、▲旧設線五局 湯川、江差、寿都、室蘭、上磯の新旧一六局にて、之に来年度は下海岸の銭亀沢・石崎・戸井・尻岸内古武井椴法華及び、福山線の泉沢・木古内の増加を見るべく関係近村との全網羅を告ぐべしと雖も尚進んで、▲西海岸接続線の必要あり、即ち、西海岸瀬棚方面より長万部、八雲を経て森に至り、函館線に接続すべき一大路線の計画を為すべきものであれば、……後略……
 ▲臼尻鹿部方面に於いても漸次その必要性を感ずると共に、自動的活動を見るべく椴法華より延長して森に接続せらるべき暁には、全沿岸を一周するに至る。……後略……
 
・大正三年(一九一四)二月十一日『函館新聞』“函椴間電話工事”
 函館、古武井椴法華間電話架設費として函館区有志より寄付金四百十円は、九日全く其の手続きを完了したるが、右電話架設工事は来る十五日頃より着手し、来月十五日頃までに架設を完了する見込みなるが、積雪少なきを以て工事は案外速やかに進捗すべく、本年度内に是非とも通話開始の予定なりと云う。
 
・大正三年(一九一四)三月二十日『函館新聞』“函椴電話開通期”
 函椴間市外電話架設工事は、爾来頗る進捗し早晩開通の運びに至るべく、多分(三月)二十四、五日になるべしと。
 
●大正三年(一九一四)三月二十七日『函館新聞』“函館椴法華電話開通”
 逓信省告示を以て、尻岸内古武井椴法華の三郵便局に三月二十六日より電話通話事務を開始する旨告示し、電話呼出地域、加入区域外通話区域及び通常電話料を、左の如く定めたり。
 ▲電話呼出地域 尻岸内郵便局 尻岸内村字武井・字澗・字メナ川・字メノコナイ
        古武井郵便局 尻岸内村字古武井・字山背泊・字根田内
 ▲加入区域外通話区域通常電話料(一通話の通常電話料)
   尻岸内から 函館・上磯・大野・七飯・大沼(二〇銭)・古武井(五銭)・椴法華(一〇銭)
   古武井から 函館・上磯・大野・七飯・大沼(二〇銭)・尻岸内(五銭)・椴法華(一〇銭)
 
 なお、尻岸内村の電話については、大正3年(1914)、尻岸内古武井両郵便局に電話業務が開始される以前の、明治42年から古武井硫黄鉱山では私設電話が使われていた。このことについて明治42年(1909)の『本邦鉱業の趨勢』に、「押野鉱山(古武井硫黄鉱山)は通信設備として、山元・古武井浜間軽便鉄道に沿い6哩余り(9.7キロメートル)及び索道停車場(荒砥・青盤)間の1哩(1.6キロメートル)に「特設電話」を架設に着手せり」と記されている。
 
〈電話の沿革〉 電話はまさに文明の利器である。発・受信者が自己の声で直接対話できるという、通信手段としては画期的なものでありながら、その創業は必ずしも順調ではなかった。
 電話の発明・実用化の分野での先駆的貢献者は数多いが、その中で最も目覚ましいのは、アレキサンダー・グラハム・ベルである。ベルは1876年(明治9)最初の実用的電話を発明し特許権を得ている。日本への電話の伝達は早く翌明治10年(1877)であるが、軍事・公安・経済的な面からの重要性は認められ、その分野での実用化は進んだものの、政府・逓信省所管の−いわゆる一般加入電話としてはあまり注目されなかったようである。
 北海道での実用化もやはり鉄道専用電話が最初である。明治16年(1883)札幌・幌内間、翌17年札幌・手宮間、鉄道の延長とともに岩見沢・空知太間、夕張・追分間と専用電話も延長されていく。警察・監獄など緊急の連絡を必要する政府機関も電話の機能を重視し、明治16年、鉄道にやや遅れ、札幌県庁・同県監獄署間に施設、同19年空知集治監・同囚徒外役所間、同20年樺戸監獄署・空知監獄署間、釧路監獄署・硫黄山囚徒外役所間、同21年釧路監獄署・同郡役所間、明治22年には函館警察署・同監獄署間など、地方庁・警察署と監獄、監獄と監獄、監獄と外役所が電話で結ばれ、一般事務のほか、囚徒の護送、逃亡囚の手配などに利用された。その他、道庁・農学校(現北大)・附属農園間、屯田兵司令部・区役所・種畜場・測候所間、電信局・測候所間など官庁電話が次々と架設されていった。これらはいずれも単線式電話であった。
 民間においても、明治28年(1895)函館の能登善吉運送舎と同別宅間、同29年には小樽の日本郵船支店と栗山商店間等、広がりを見せた。特に28年浜益漁業組合の私設電話は電話機設置の数や施設範囲も広く、わが国最初の漁業用電話として特筆に値する。ニシン魚群の回遊や天候状況の早期通報など、漁業経営におおいに効果をあげたという。
 一方、一般加入の電話は、明治21年11月、逓信次官に就任した前島密の強い主張により、国は政府事業として推進する方針を固めた。そして、まず、電話に対する世間一般の知識を啓発するため東京・熱海間の電話線を架設し、同22年1月より1年間一般公衆の通話を取り扱い状況を把握しつつ、明治23年4月には電話交換規則を公布、12月より東京と横浜で電話交換業務を開始した。その後、日清戦争後の好況と企業の創業の機運から電話開設の要望が高まり、逓信省はこれに対応し第1次電話拡張計画を樹立した。
 北海道の電話業務開設もこの計画に沿って、明治32年(1899)札幌・小樽・函館の電話交換局が相次いで開設され、同33年から交換業務が開始。交換開始とともに札幌電話交換局内に大通電話所、小樽郵便電信局内には色内町電話所、函館郵便電信局内には末広町電話所がおかれ通話事務をはじめ一般人の利用の便宜をはかった。今の公衆電話である。
 発足当時の電話局数及び加入者数は次表のとおりで、33年の加入者977名の内訳は函館437、小樽328、札幌212である。
 職業別にみると、札幌では官公署の18、料理店15、米雑穀・肥料商の12、会社の11、弁護士、木材商、旅人宿業の各8などの順になっているが、函館・小樽においてはそれぞれの商業都市の性格を反映して、函館の場合には、海産商の60名が目立ち、運漕業37、米雑穀肥料商26、味噌醤油製造販売・塩類商22名と続く。小樽の場合には委託品販売業が62名、荒物商25、呉服商23名が主なものであった。
 札幌・函館・小樽に交換局を開設する際、これら3地区間を市外通話で結ぶ計画がたてられ、明治33年(1900)5月、札幌−小樽間が正式に開通したのをはじめ、第1次拡張計画の期間(36年で打ち切られる)に、札幌−小樽−函館−江差間のほか、札幌−旭川間、小樽−岩内間が開通したが、日露戦争の間は軍事上の必要にもとづくものに限られ、一般用の電話線の延長は極度に統制されたという。以上、新北海道史第4巻を参考とする。

電話局数及び加入者数(全道)