函館市/函館市地域史料アーカイブ

恵山町史

第5編 交通・通信

第1章 交通

第4節 前期幕府直轄下の交通

5、蝦夷地の馬

 駅逓の重要な機能は、書状や旅人、荷物の輸送のスピードアップと輸送量のアップにある。そのためには馬の使役が最も効果的であり、駅逓の花形であった。もともと野生馬がいなかった北海道で馬が飼育され、使役されるようになった歴史は新しい。馬の使役は駅逓では勿論、海産物・木材など物資の運搬など広い範囲で利用された。その間、野放しと使役の繰り返しのなかで北海道独特のドサンコと呼ばれる品種も生まれている。
 蝦夷地の交通運輸について、馬の果たした役割は非常に大きい。とりわけ郷土では、ごく近年まで、海産物の運搬や、炭焼き冬山造材などに使役され、郷土の産業発展に役立ってきた。そんなことから、ここでは蝦夷地での馬の使役・飼育の足跡をたどってみる。
 
 ・寛永10年(1633年)幕府の巡見使が初めて蝦夷地に派遣されてきた時の記録に、巡見使の大行列が多数の馬を、乗用・輸送用に使役したと記されている。この頃になると相当数の馬が移入され 飼育されていたものと推察される。
 ・寛文9年(1669年)のシャクシャインの乱を、津軽藩主に報告した『津軽一統志』の記録に、蝦夷地には津軽から多数の馬が連れてこられていることが記されている。
 ・元禄4年(1691年)松前藩主から町奉行に通達された書面に、『給地内における百姓、伝馬宿次は遅れることのなきよう、急いで申し付けるべきである』と記されていることから、松前藩の給地内(東は石崎村から西は熊石村までの和人地)には、既に伝馬宿次(駅逓)の制度があったこと、馬が飼育されていたことが分かる。
 ・享保2年(1717年)に、東西和人地で馬を飼育していると『松前蝦夷記』に記されている。これらは南部・津軽地方の鹿毛・栗毛・黒毛の馬で、沓を使わないと何里でも歩くが沓を使うと歩かず、力が弱く乗馬にはならず、もっぱら駄送用として使われた。また、5月から9月までは牧柵内で飼育・使役し、10月から4月までは山野に放牧していたとも記されている。
 
 このことについて、少し詳しく述べる。これらの馬は、津軽・南部地方から出稼ぎに来た人々に連れてこられたもので、漁期中使役され、漁期が終わればすべて野放しとされた。翌年、出稼ぎに来た人々は、冬を生き抜いてきたこの馬を捕らえ、牧柵の中で馴らして再び使役し、漁期が終わればまた野放しにし帰郷する、といったことを何年も繰り返してきた。この間、野放しにされた馬は、厳しい冬の環境の中で逞しく生き繁殖をし環境に適応、寒さに強く小型で粗食に耐える強靭な馬へと変わっていった。
 土地の人々は、どんな山坂道でも、重い荷物を積み平気で歩く、この温順な駄馬を、ドサンコあるいはダンツケ馬と呼び重宝した。この馬は近世まで北海道の交通運輸に大きな役割を果たした。特に、山岳地帯が多く道路の開発の遅れた下海岸・陰海岸では、昭和40年代(1965年~)まで、冬の造材運搬などに欠くことのできない存在となっていた。現在でもこのドサンコは、下海岸の山岳地帯に放牧され自然繁殖しているが、これらは主として食肉用となっている。
 この馬『ドサンコ』が、蝦夷地・北海道の馬飼育のルーツの1つである。
 
 ・享保4年(1719年)3月の松前藩の記録には『江戸幕府に上ノ国産の馬、二頭献上』とあり、ドサンコの増殖のほかに、伝馬や軍馬の『乗馬』も飼育していたことが分かる。
 ・寛延3年(1750年)の調査では、和人地の亀田郷だけでも893頭を数えている。
 以上については和人地、松前地での馬の飼育・使役状況である。以下、東西蝦夷地の状況について記す。
 ・寛政元年(1789年)の蝦夷乱討伐の際、松前藩は、東蝦夷地サワラ(砂原)から、エトモ(室蘭)までの間に軍馬として20頭の馬を送り、その内何頭かはウス(伊達市有珠)で飼育され、ウス、シャマニ(様似)間の駄送に使役されたという。
 
 菅江真澄の紀行文『ひろめかり』は、銭亀沢村での昆布採りなど、この年、寛政元年に見聞したことが書かれたものであり、その一節に、「(七月)十九日、潮の河(汐川)に潮波うち入て深し、山路はし(ママ)ぐま(羆)のをそれあれば、馬にて山々たつ。“めてに遠う石倉とて、岩のむらたてる處に、飯成(稲荷)の神のほこら(現存石倉稲荷神社)あり。ここに黒狐の住めりおりとして、見し”などと、この馬ひき一つの物語りしつつ、銭亀沢に来て、蛯子(銭亀沢村名主)のもとに至り、ここに月日を経て、亀田、有川、箱館に遊びて月日を経たり」と記述されている。
 この文から、寛政に入ると、馬は荷物運搬のほか、役人や旅人を乗せるための馬や、それを専門職とする『馬ひき』の存在が分かる。
 
 ・寛政9年(1797年)に書かれた『蝦夷巡覧記』には、当時の馬の飼育状況が書かれているが、これによると、西在(西蝦夷地)34ケ村中、馬持村28ケ村。東在(東蝦夷地)39ケ村中、馬持村18ケ村となっている。因みに、和人地73ケ村中、馬持村46ケ村で、馬の飼育・使役は、初めは和人の間だけで行われていたが、この寛政年間以降は、東西蝦夷地アイヌの間でも飼育使役されるようになり、馬の飼育頭数も増え交通運輸に欠くことができない存在となっていった。
 ・寛政10年(1798年)、先出、近藤重蔵らの手によりルベシベツ(現広尾町字音調津)からビタタヌンケ(十勝・日高の境界)に至る3里(11.8キロメートル)の山道が開かれると、幕府は翌年、南部地方から馬60頭、牛4頭を移入し、シャマニ(様似)以東の東蝦夷地の各場所に配置し、駅馬とし使役した。
 この時のことについて、先出『休明光記・巻の二』は、次のように記している。
 「先だって出発の官吏ども、南部において馬六〇匹、牛四匹を買い上げ来たり場所場所に養いおきて、日用を弁ぜしむ。この牛馬、各場所に廻りたる時、蝦夷人ども初めて牛馬を見るが故に、驚き恐れて近よる者なかりしに、後には使い馴れて喜ぶこと限りなし。この牛馬、年々子を生じて、今は蝦夷地に満ちみちたり」。
 この記述から寛政11年(1799)、シャマニ以東に初めて牛馬が移入されたこと、アイヌが直に牛馬を使いこなしていったことや、牛馬の繁殖が窺える。
 ・文化3年(1806年)西蝦夷地の岩内場所で馬を移入し、硫黄山の運搬に使用した記録があり、これが西蝦夷地での馬、使役の最初である。
 翌年、シラヌカ(白糠)アバシリ(網走)間の道路が開削され、馬を東蝦夷地から西蝦夷地に送られ、斜里・宗谷・手塩・苫前・留萌の各場所に配付された。
 なお、この時代の牛馬はすべて官有、幕府のものであったが、西蝦夷地では場所請負人制度を継続していたので、牛馬の取り扱いも、そのまま委託し使用させた。
 ・文化9年(1812年)には、前期幕府直轄と同時に廃止していた東蝦夷地場所請負人制度を復活させた。したがって駅逓の運営・牛馬の取り扱いも場所請負人に委託した。